第9話 宿酔の健忘症
翌朝___
陽射しが木洩れ日の形を刻んで地面を揺らしていた。
訓練所の土壌は乾いた匂いで満ちており、ロミナは入口の傍にある樫の木にもたれている。
昨夜ホムルの宿から戻ってきたものの、月光に照らされて交わしたあの柔らかい接触の残像が頭蓋骨の中を駆け巡り、全く眠りにつくことができなかったのだ。
まぶたは鉛のように重たくて焦点が定まらず、目の下には薄暗い隈ができていた。
心臓は今も奇妙に高鳴っていて、剣を握れば振るう度に柄が掌の汗で滑る。
訓練場の入口に影が揺れた。
ホムルが訓練所の入口に立っていた。
昨日の酒気が抜けきらないのか、その足取りは覚束なく、朝日に透ける青髪は少しくしゃついている。
表情は鉛色に曇り、右手は痛む頭蓋を無意識に押さえている。
周囲の訓練場特有の乾いた土埃の匂いの中、二日酔い特有の倦怠感が全身を覆っているのが傍目にもわかる。
それでも彼は宣言通り、指定された時刻に訓練所に到達したのだ。
「ホムル…!無理しなくていいのに
二日酔いでひどい顔してるじゃない」
ホムルは右手で額を押さえ、眉間に深い皺を寄せながらゆっくりとロミナのもとに歩いてきた。
乾いた土の上に落ちた樫の葉がかさりと音を立てる。
顔は青ざめ、朝日に映える青髪は脂っぽく乱れている。
「すみません…」かすれた声で呟くと、右手を頭頂部に当てて鈍痛に耐えるような表情を見せた。
「昨日飲みすぎてしまって…ボクはどうやって帰ったんでしょう?」
訓練場入口の樫の幹によりかかりながら問いかける眼差しは虚ろで、瞳孔がわずかに揺らいでいた。
ロミナは苦しむ姿を見て心配そうな表情を浮かべながらも、彼の問いかけに対して少し安堵のようなものが混じった複雑な感情を抱いている。
「あなた、酒場から宿までどうやって帰ったか覚えてないの?
私が運んだわよ。ほら、二日酔いならまず水を飲んだ方がいいわ」
「えぇ!………っつつつ」
ホムルは突然大声を上げてしまい、その衝撃で眉間に深い皺が走った。
頭頂部を押さえた手が思わず固まるほど鋭い痛みが走り、顔を歪めて訓練場の土の上に片膝をつく。
乾いた土埃が舞い上がり、二日酔いのアルコール臭が風に乗って漂う。
ロミナがすぐに駆け寄ると、かすれた声でお礼を呟きながら、額に浮かんだ脂汗をぬぐった。
「ありがとうございます…途中から何も覚えていなくて…」
ロミナはホムルの蒼白な顔色をじっと観察し、昨夜酒場で交わした親密なやり取り以降の空白部分を推測しようとしている。
木洩れ日の光が彼女の金髪を銀色に照らし、訓練場全体が静寂に包まれた。
「…酒場を出てからのことは全然覚えてないのね
私が宿まで運んだとき、結構大変だったわよ
ベッドに寝かせるときも色々…ね」
ホムルはロミナがほんのり赤らんでいるのに気づかないまま、頭痛に眉をひそめながら口を開いた。
「あわわわ…寝かせてもらうなんて
酒場の途中から何も覚えていないんです…」
ロミナは彼の純粋な困惑ぶりに胸が締めつけられ、昨夜の密かな甘い時間を思い出して頬がさらに熱くなった。
ホムルは苦悶の表情で訓練場の地面を見つめ続け、ただ蒼白な顔で虚ろに繰り返すだけだった。
「ちょっと休憩しましょう
ここで座ってて…私が何か冷やすものを持ってくるわ」
ロミナはそっと肩に手を置き、心配そうな眼差しを向けながら訓練場の水場の方へ歩いて行った。
ホムルは訓練場入口の樫の木陰で蒼白な顔を上げ、乾いた土埃の中歩いていく後ろ姿を見つめた。
頭痛が脈打つ中、昨夜の酒場以降の記憶がぽっかり抜け落ちていることが急に不安になった。
「大丈夫かな…何かロミナさんにやらかしてないかな」
と独り言が漏れ、拳を握りしめた。
一方、水場で桶に清水を汲むロミナは、彼が覚えていないと知り、安堵で胸のつかえが下りた半面、甘く深い時間を共有できなかった落胆も胸を掠め、複雑な困惑が金髪の陰で瞳を揺らした。
「ほら、冷たい水を持ってきたわよ。ゆっくり飲んで」
ホムルは冷たい水を一口含むと眉間の皺が徐々に緩んだ。
乾いた喉が潤されていくうちに、あの鈍い頭痛が薄れていくのが感じられた。
その直後、酒場から宿までの空白の時間が脳裏に浮かぶ。
ロミナが言った「宿まで運んだ」という言葉が急に重みを持ち始め、訓練場の樫の木陰で隣に座る彼女をちらりと見た。
昨夜何か迷惑をかけていたらどうしようという不安が胸を掻き立て、聞くべきかどうか迷いが渦巻いた。
一方のロミナも桶を膝に置き、無言で並ぶホムルの横顔を盗み見た。
酒場での甘い触れ合いが脳裏によみがえり、宿で寄り添われた温もりが頬を熱く染めた。
ホムルの不安そうな様子を見て、少し意地悪な笑みを浮かべながら、桶の水を指差す。
「ねぇ、本当に何も覚えてないの?
酒場を出てから…ほら、これ見て
私が運んだとき、結構大変だったんだから」
ホムルはゆっくりと首を振り、桶の中を凝視した。
透明な水面に映るのは訓練場の樫の木と空の青さだけで、異常は何もない。
しかし彼の目に一瞬走った狼狽がすべてを物語っていた。
「水…」かすれた声で恐る恐る尋ねた。
「まさか吐いたりとかしちゃったんですか?」
ロミナは頬を赤らめながら、質問に対して思わず噴き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
「違うわよ、吐いてはないわ
ただ…ちょっと大変だったのは確かね
あなた、かなり酔ってて重かったんだから」
ホムルは深く息を吐き、両腕を胸の前で緩めながら安堵の吐息をもらした。
肩の力が抜け、固くなっていた筋肉がゆっくりと弛緩していくのが感じられた。
良かった…本当に吐いたわけじゃないんだ、と心の中で呟き、濡れた布のような安心感が全身を包んだ。
だがすぐに顔を曇らせ、俯いた睫毛の影が青ざめた頬に落ちた。
もう二度と飲みすぎないようにします、と小さな声で誓い、その響きには明らかな悔恨が滲んでいた。
ホムルの落ち込んだ様子を見て、内心では昨夜の甘い時間を独占できた喜びと、彼に思い出させなくてよかったという安堵を感じながらも、表面的には同情の色を浮かべる。
「そんなに落ち込まなくてもいいじゃない
記憶になくても、体はちゃんと覚えているものよ」
ホムルは呆然と立ち上がり、自分の胴体をぐるりと見回した。
朝日に照らされた肌に傷一つなく、酒場から宿までの激しい移動の痕跡は全く見当たらない。
次に右手をゆっくりと額に当て、左頬を掌で丁寧になぞっていく。
指先が顎のラインを辿る際、わずかに震える呼吸が漏れる。
確かにどこも腫れていない、痛みもない。
訓練場の涼風が襟足の青髪を揺らしても、彼の瞳は虚ろに遠くを見据えたままだった。
その動作の滑稽なほど入念な様子に、ロミナは込み上げる笑いを噛み殺し、腹の底で昨夜の密やかな接触を反芻しながら、無防備な仕草をじっと観察していた。
「もう、そんなに自分の体を調べなくてもいいじゃない
昨夜は…ちゃんと宿まで運んだわよ
乱暴に扱ったりしていないから安心して」
ホムルは膨れた頬をそのままにロミナから少し離れた。
訓練場の樫の木陰で風が青髪を揺らしながら、彼はぎゅっと眉根を寄せてロミナを見据えた。
「脅かさないで下さい、てっきりぶつけたりしたのかと思ったんです」
その声には昨夜の記憶喪失への純粋な不安が滲んでいる。
ロミナは俯き加減の顔を盗み見て、内側でほのかな達成感を噛みしめた──彼は何も覚えていない。
しかし表面では優しい苦笑を浮かべ、そっと肩を竦めてみせる。
「ごめんごめん、冗談よ」
ホムルの膨れ面を見て密やかに悦に入った。
こんな素直な反応こそが、酒場から運んだ甲斐があったというものだ。
「本当に何も覚えてないのね
昨夜はあなたが思った以上に大変だったわよ
でも、こうやって無事な姿を見ると安心するわ」
訓練場の陽光が金髪を輝かせる中で彼の肩に再び手を置く。
ホムルはロミナの「大変だった」という繰り返しに急に顔を赤らめ、拳を握りしめた。
訓練場の朝日が汗ばんだ額に反射し、二日酔いの名残を振り払うように首をブンと振ると、青ざめた頬に血色が戻ってきた。
「もう〜!そんなに大変大変言わないで下さい!」
彼の声は少し裏返り、ロミナの腕からぴょんと離れた。
「元気になりました!見てください、ピンピンしてるじゃないですか!」
目つきは真剣そのもので、訓練場の広がりを見渡すと、すぐに駆け出した。
「特訓しましょう!昨日の分も取り返さないと!」 杖を握り締めた手に力が込められ、まるで自分自身に言い聞かせるように叫びながら、既に目標地点へ向かって走り始めていた。
ロミナは熱心な姿を見て微笑みながら、金髪を風になびかせて彼の後に続いた。
「そうね、その意気よ!でも無理しちゃダメだからね
昨日みたいに倒れられたら、また私が運ばなきゃいけなくなるわ」
冗談めかして言いながらも、昨夜の記憶が蘇り頬が熱くなるのを感じていた。




