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第8話 微睡みと髪を梳かす指先

ロミナは最後の一片を丁寧に拭き上げると、ホムルの肩をトントンと二度叩いた。

「ほら、起きなさい。もう帰るわよ」

つい先ほどまで胸に渦巻いていた甘い感情を心の奥底に押し込めあえてドライに声をかける。

ホムルは眉根を寄せて僅かに身じろぎするが起き上がる様子はない。


「まったく、しょうがないわね…ほら、しっかりして」

ロミナはホムルの右肘をつかみ、ゆっくりと持ち上げた。

ホムルの重たく揺れる頭が机にぶつかりそうな位置だが、それを支えるために自身の左肩へと導いた。

腕を脇の下に滑り込ませ、相手の身体をしっかりと固定する。

次いで腰骨の辺りに左手を添え、ぐったりした下半身を支えるようにぐっと抱えた。

体重がかかったがロミナは微動だにせず、酒臭い吐息を漏らす寝顔を真上から覗き込みながら立ち上がる動作へ移る。

ホムルの右腕を右肩に回して立ち上がると、ホムル自身もなんとか立とうと脚に力を入れているようだ。


「…も、もう…お帰りですか」

頭を肩に預けたままもごもごしゃべっているが、状況はよくわかっていないようだ。

ホムルの身体は確かに軽量で、彼の一回り小さな体躯が酒気でふらついているせいもあり、ロミナ一人の腕力でも充分に支えられた。

頭が左肩に深く沈み込み、乱れた青髪がロミナの首筋にかすかな重みとしてかかる。

その体温が二人の間の空間を仄かに温めた。

足取りは慎重ながら確かで、酔いでぐったりとした身体は腕の中で確かな安定を得ている。

月明かりが窓越しに彼女らの影を石畳に伸ばし、街路樹の陰が静寂を刻む中、庇護欲と独占欲を胸に抱えて宿へと歩み出した。


部屋にたどり着いたところで、ホムルは酔いによる虚脱感からか突然体をくねらせ、まるで操り人形のようにするりと床へ滑り落ちた。

固い木の感触とひんやりとした温度が彼の頬に直接伝わり、夢うつつで安堵の吐息をもらした。

ロミナは眉をひそめた――確かに床の冷たさは心地良いかもしれないが、床に寝かせておくわけにはいかない。

「もう、ちゃんとベッドで寝ないとダメでしょ

 まったく世話が焼けるんだから…」


ロミナはホムルの柔らかな背中を起こして左腕を回し、膝を揃えて右腕を差し込んだ。

ふわりと宙に浮いた身体は、確かに王子が姫君を抱き上げるような格好になった。

ホムルの腕がだらりと肩に垂れかかり、乱れた青髪がロミナの鎖骨あたりに触れている。

その瞬間、ロミナの唇が思わず緩んだ。

この支配的な温もりと軽い重量感が、独占欲をくすぐる甘い疼きとなって胸を満たす。

部屋の冷たい空気とは裏腹に、ホムルの吐息が襟元に温かく触れ、月光が二人の輪郭を刻む。

ロミナは足取りを確かに進めながら、抱えた相手の寝息に耳を澄ませ、この密やかな保護者冥利に浸っていた。


ロミナは慎重に身体をベッドへ降ろそうとしたが、酔いでふらつき重心が突如崩れた。

ホムルの体がベッドの柔らかいマットレスに吸い込まれるように沈み込み、ロミナは支えきれずにバランスを失う。

慌てて踏み止まろうとしたが遅く、酔いで虚脱したホムルの腹部へ顔面が勢いよく埋まった。

この予期せぬ密着に一瞬硬直したが、頬を赤らめながら腹部に顔を埋めたまま、驚きと同時に甘い幸福感が胸に広がる。


ホムルはまぶたを重たげに押し上げ、寝ぼけたまま天井の木目をぼんやり追っていたが、次第に焦点が定まり、眼前に埋もれた何かの存在に気づいた。

おそるおそる顔を持ち上げると、すぐ目の前にロミナの赤らんだ頬があり、自身の腹部に深く埋まった顔が視界に飛び込んできた。

「何をしてるの…?」

と問いかけた声は寝起き特有のもやがかかったような弱々しさだった。


ロミナは寝ぼけた表情を見つめながら、頬の赤みがさらに濃くなり、瞳の中に愛情と酔いが混ざり合った感情を浮かべる。

彼の腹部から少し顔を離し、乱れた青髪を指でそっと整えながら優しく答える。

「あなたがベッドに落ちちゃったから、心配で見てただけよ…

 こんなに酔っ払っちゃって…」


ホムルは微睡みの中、曖昧な意識で相槌を打った。

そうなの…と寝ぼけた声が零れ、瞳はまだ夢と現実の狭間を彷徨っている。

それでも無意識に右手が伸び、ロミナの乱れた金髪へと触れ、指先でそっと梳くように撫で始めた。

月明かりが優しく降り注ぐ部屋で、ホムルの手のひらは頭頂から側面へゆったりとなぞっている。

その動きは羽毛のように繊細で、深い愛情を含んだ仕草だった。

ロミナはその優しい愛撫に微かに震え、独占欲に満ちた幸福感が酔いと混ざり合い、赤らんだ頬をさらに深く染めた。


下から見上げたロミナは月明かりがホムルの長い睫毛を銀色に縁取る様を見つめた。

月光が頬を伝って滴り落ちそうなほど眩しく、長い睫毛が影を落としながら微かに震えているのが見える。

髪を撫でるホムルの指は予想以上に細く、月明かりの下で透けて見えそうなほど儚かった。

互いの呼吸が溶け合う部屋で、ロミナは梳かれる髪の柔らかな感触に酔いしれていた。

その繊細な動きに合わせて、ロミナもホムルの髪をそっと撫で続ける。

あなたの髪、こんなに柔らかいなんて知らなかったわ…私の指の方が撫でられてるみたい…。


「くすぐったいです…」

夢うつつな声が漏れたものの、月明かりに浮かぶロミナの金髪を撫でる指先だけは止まらず滑らかな動きを保っていた。

ロミナはその微睡みの中からの訴えに微笑み、逆に青髪を梳かす指に優しい力を込め返す。

「ごめんね、くすぐったかった?

 でもあなたの髪、撫でてると私も気持ちよくて…」


ホムルの指が金髪を梳く微かな動きに、ロミナの指先がふわりと重なった。

その冷たい接触にホムルの指が瞬間ぴくりと震えたが、ロミナは逃がさず、そのまま絡みつくように指同士を滑らせていった。

重なり合った指は互いの鼓動を伝導するかのようにじわりと温もりを増し、絡んだ指の脈打つ熱だけが溶け合っていく。


重ね合わせた指先からロミナは改めて相手の指の細さを痛感した。

まるで羽根のように儚い骨格、皮膚の下で脈打つ薄い血管──この脆弱な器官が炎の精霊を呼び出し、水球を宙に浮かべる奇跡を生んでいるのだと思うと、愛おしさが胸を刺した。

月明かりに浮かぶ指を慈しむように、ロミナは無意識に自分の指を絡め直した。

「あなたの魔法を使う姿、全部覚えてるよ…

 失敗しても諦めなかった強さ、私…ずっと見てたから」


ロミナは絡めた指先をそっと引き、自らの頬へと導く。

髪から頬へと移った瞬間、自らの動作でありながらロミナの身体は微かに震えた。

月光が青白く照らす頬は柔らかく滑らかで、指先が僅かに押し付けられる圧迫さえも鋭敏に感じてしまう。

睫毛が蝶番のように微かに跳ね、吐息が喉の奥で絡まる。

導いたホムルの指紋が肌に刻まれそうなほど密着し、体温が皮膚を通して浸透していく。

全身が甘く痺れるような感覚を覚え、目を閉じて小さく息を呑む。

ロミナの頬に広がった熱が首筋を伝わり、耳朶まで赤く染まっていった。

月明かりがその微かな紅潮を金髪越しに照らし出している。


ロミナは頭の内部が霞んでいく奇妙な感覚に襲われ、思考がかすみ始めた。

頬に当てていた手を離しゆっくりと立ち上がる。

ホムルへ向けて慎重に歩み寄り、互いの吐息が感じられるほど距離を詰めた。

金色の髪の束が重力に引かれ、はらりとホムルの頬にかかる。

「あなたの側にいると、私の心がおかしくなりそう…」


ホムルはいつの間にかすぅすぅと静かな寝息を立て始めている。

ロミナの胸奥では奇妙な焦燥が疼いていた。

冴えた理性が心臓を鷲掴みにし、喉奥へ「これは恋だ」という答えを押し込む。

――でも、ホムルにそんなつもりは無いじゃない。




ついに決意すると、足元が少しふらつくのを感じながら、月影を踏みしめて離れた。

部屋の扉まで歩み寄ると、振り返らずにそっと戸を開け、廊下の闇の中へふらふらと溶け込むように消えていった。

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