第5話 甘い匂いへの焦燥感
翌朝、訓練場にロミナの金髪が朝日に輝いていた。
剣を整え待っていたが集合場所にホムルの姿がないことに眉をひそめる。
訓練場の土には昨日の魔法練習跡がかすかに残っていた。
「あのバカ…昨日あんなに頑張ったのに、今日も寝坊なんて」
ロミナは拳を握りしめ苛立ちを覚え、朝靄の中宿へ歩みを進めた。
ホムルの部屋のドアをノックしたが応答はない。
鍵のかかっていない扉を開けると、室内は薄暗く、机に向かって伏せるホムルの寝姿があった。
柔らかな寝息が規則正しく聞こえ、長い睫毛が微かに震えている。
机の上にはメモ用紙が広がり、昨日学んだ魔法の詠唱やイメージのコツが几帳面な字で綴られていた。
水滴の形成過程や灯火の安定方法まで丁寧に復習した跡が伺え、紙縁には香草の仄かな芳香が漂っていた。
ロミナは苛立ちを覚えつつも、寝顔を盗み見るうちに独占欲が疼く。
無防備に垂れた腕の先には革袋が置かれ、杖がかすかに揺れていた。
「まったく…努力してるのは分かるけど、ちゃんと起きなさいよ」
ため息交じりにロミナは呟く。
乱れた青髪が額にかかり、柔らかな睫毛に絡まるように覆いかぶさっていた。
寝返りを打つわけではなくとも、まぶたが微かにぴくりと跳ねるのが見て取れたのは、睫毛が押しつぶされた髪に触れてしまった違和感からだろうか。
まぶたの下では眼球がかすかに動いているのが分かり、夢の中で何かを探しているのか、あるいは無防備な睡眠中の反射的な反応なのか、睫毛の先端が羽毛のようにふわりと震えた。
ロミナは机の横に立ったままその様子をじっと見詰め、苛立ちよりも髪を整えてあげたい衝動が胸を掠めた。
ホムルの乱れた青髪をそっと掻き上げると、指先が汗ばんだ肌に触れた途端、微かな風が生まれた。
それは宿の淀んだ空気を僅かに押し退け、すぐにロミナの鼻腔へ流れ込んだ。
香草の清涼感と、それに溶け込んだ仄かな甘い匂い──間違いなくホムルの匂いだった。
それは訓練場で嗅いだ汗と草の香りよりも濃厚で、ロミナの心臓を跳ねさせた。
まるで火照った掌を握られたように、一瞬硬直した。
掻き上げられたホムルの寝顔がより無防備になり、閉じた睫毛がほのかに震えている。
ロミナは自分が僅かでも距離を詰めたことに気づき、香草の奥にある魔法使い特有の匂いに囚われたまま、そっと溜息をつく。
苛立ちは霧散し、代わりに焦燥感が疼く。
ロミナはホムルの首筋あたりの甘い匂いに酔いしれかけたが、理性がかろうじて勝り、顔を近づけすぎる前に踏み止まった。
しかしその一瞬の躊躇の隙に、ホムルの腕がもぞもぞと動き、机に立てかけられた杖に触れてしまった。
杖はゆっくりと傾く。
ロミナはそれを見て瞬時に飛び退り、振り返らずドアに向かって駆け出した。
カリカリと乾いた木同士が擦れる音の後、杖は床に倒れ鋭いカツーンという音が宿に響き渡った。
背後からはホムルの深い眠りからの微かな呻き声がかすかに聞こえてきたが、ロミナは振り返ることができなかった。
そのまま宿のドアを開け放つと、冷たい朝靄に包まれる街中を訓練所へ向けて足を速めた。
部屋に響き渡る杖の音に、ホムルは飛び起きた。
足元に転がる杖を拾い上げて机の上に置き、周りを見回す。
今は…いつなんだろう?
窓に近づくと朝日が差し込んでいることが分かった。
徐々に覚醒していく頭の中で浮かんできたのは・・・また、遅刻だ!
慌てて魔法書や水筒を革袋に詰め込み準備する。
革袋を掴んで部屋の扉を開ける際、頬にふわりと温もりが走り抜け、誰かが確かにそこにいたような気がして戸惑いが胸を掠めた。
「遅かったわね…また寝坊?
まったく、しょうがないんだから…」
朝靄が訓練場の入口を霞ませる中、ホムルは慌てた様子で駆け寄ってきた。
俯き加減で両手を揉み合わせ、ちらりとロミナの厳しい表情を盗み見る。
「ごめんなさい…気がついたら机で寝てしまって…」
声は小さく震え、革袋の紐を無意識に弄っている。
ロミナは腕組みを解かず、鋭い視線を向けつつも内心の動揺を押し殺した。
「ダメじゃない!しっかり休まないと特訓なんてできないわよ!」
わざとらしい厳しい口調が朝の空気に響いたが、その奥にはさっき部屋での寝顔や香草の匂いへの独占欲が滲んでいた。
ホムルは縮こまって俯いたまま「はい」と小さく答えた。
「ほら、今日はもっと厳しい特訓にするから
昨日より一つ上の魔法に挑戦してもらうわよ
その前に…あの丘まで5往復」
冷たい視線を遥か彼方の低い丘へ投げ、声に一切の情感を込めずに言い放つ。
その宣告は朝露を鋭く貫いた。
「5ですか…昨日は10往復だったのに?」
「あの程度でへばっていたのよ…
また10往復なんてしたら魔法に集中できなくなるわ」
あきれた顔でロミナは言う。
ホムルは俯いたまま革袋の紐をぎゅっと握りしめ、丘の輪郭を目測すると、重い足取りで小道へ踏み出した。
ロミナは腕組みを解かず、彼の背中が朝日に照らされて遠ざかるのを睨みつけた。
重い足を引きずりながら三往復目に入った途端、昨日の疲労が一気に噴き出した。
最初こそ走る形相を見せていたが、すぐに歩調は鈍り、朝露で濡れた草を踏む足取りはふらつく酔漢のようだった。
ロミナはその哀れな努力と裏腹の遅々とした動きに眉をひそめる。
「もういいわ…今日はここまでにしましょう」
「へ…でも…まだ3…」
ホムルは喘ぎながら言いかけたが、ロミナが即座に腕を伸ばして彼の肩を掴み、無言で座らせた。
草の露で濡れた地面に尻もちをつき革袋が転がり落ちた。
ロミナは厳しい口調で言い放つ。
「いい?これは基礎練習なの…できて当たり前なのよ
でも今日は魔法の練習を中心にするからここまで、分かった?」
ホムルはうなだれ、革袋の紐を掴んだ指先が震えながらしょんぼりと肩を落とした。
朝靄が薄れゆく訓練場で、ロミナの瞳には苛立ちと共に一抹の庇護欲が揺らいでいる。
ホムルはロミナの差し出した水筒を素直に両手で受け止めた。
喉が渇いていたのか、彼は筒口を勢いよく傾けてごくんごくんと喉仏を動かし始めた。
冷たい水が朝露のように食道を流れ落ち、乾ききった体内に染み渡っていく感触に眉根を少し寄せながらも、無心に飲む動作を繰り返した。
水筒の底が近づくにつれて嚥下のリズムは徐々に鈍くなり、最後の一滴まで飲み干すと、ほっとしたように長い息を吐いた。
唇の端に水の筋が光り、草露に濡れた頬を伝う汗と共に朝日を反射した。
ロミナはすぐそばでじっと観察しており、彼の喉の動き一つひとつに潜む疲れと素直さへの複雑な感情が胸中を巡っていた。




