第4話 〈灯火〉と〈水滴〉
「よくできたじゃない
次は…そうね、魔法の基礎練習よ
初級魔法しか使えないのは悔しいんでしょ?」
ホムルは汗だくの額を拭いながら、革袋を支える手を震わせて見上げた。
膝の震えがまだ止まらず、地面に落ちた影が微かに揺れている。
そうです…、と吐息とともに言葉が零れ、疲労に曇った瞳が訓練場の喧騒をぼんやり追う。
「でも中級の魔法書難しいんですよ〜」
続く声も弱々しく、革袋に括られた難解な魔法書の束を思い出しながら腰を押さえた。
魔法使いにとって魔法書は挑戦の証だったが、複雑な詠唱と専門用語の壁は確かに高かった。
ロミナはそんな彼の疲れた姿と愚痴を聞き、拳を握り締めた指先が少し緩んだ。
木漏れ日の金色が汗粒を煌めかせる中、素直な弱音に心を温められ、次の指導案を考え始める。
「中級が難しいって当たり前じゃない
あなたDランクなんだから、まずは初級を完璧にしなさいよ」
ロミナはホムルの革袋から初級魔法書を取り出した。
訓練場の風が木漏れ日を通して二人の間に差し込む中、まず炎を生み出す基本中の基本、〈灯火〉の魔法から指導を始めた。
ホムルは膝の震えを押し殺し、真剣な眼差しで掌に集中する。
脳裏に柔らかな火種のイメージを描き、詠唱の声を震わせながら唱えると、歪だが確かに小さな炎がぽっと灯った。
根っからの集中力が表情に表れ、走る苦痛より詠唱の調べに没頭する方がずっと楽しそうだった。
「そうよ、その調子…詠唱のリズムが少しずれてるわ
もっと心の中で炎のイメージを鮮明にして…そう、その感じ!」
ホムルは掌に集中し、深呼吸をして詠唱を繰り返した。
最初は〈灯火〉の炎がかすかに揺らいでいたが、次第にリズムが安定し、イメージが鮮明になった。
汗が額を伝ううちに動作が素早くなり、狙った位置に正確に炎を灯せるようになった。
訓練場の風が木漏れ日を揺らす中、十度目の試みでは炎が掌の中心で安定した。
ロミナその成長を見つめ、拳を握り締めていた緊張が緩むのを感じた。
「やればできるじゃない!
こんな短期間でここまで上達するなんて…あなた、実はセンスあるんじゃない?」
ホムルの顔がぱっと花咲くようにほころんだ。
汗で光る頬に陽光が映え、ロミナさんのお陰ですよと言いかける唇が微かに震えた。
はにかんだ笑顔があまりに純粋で眩しく、ロミナは思わず目を逸らした。
訓練場のざわめきが一瞬遠のき、木漏れ日が二人の間に落ちる。
ロミナの鼓動が速くなり、頬の火照りをごまかそうともがく指先がわずかに震えていた。
「ふん、調子に乗らないでよ…まだ火の初級魔法ができただけなんだから
次は水魔法よ、水!」
頬を赤らめながらホムルの頭を軽く小突いた。
ホムルはロミナの言葉に全身で喜びを表していた。
頬が薔薇色に染まり、口元が緩んでしまうのは抑えきれなかった。
認められたことが嬉しくて、まるで褒められた子供のように純粋な喜びがあふれていた。
しかしすぐに気持ちを切り替え、革袋から今度は水魔法の本を取り出した。
ロミナがちらりとこちらを見る視線を感じながら、しっかりと本を開き、訓練場の澄んだ空気の中へ歩み出す。
足取りは軽やかだが、心臓は褒め言葉の余韻で早鐘のように打っていた。
ロミナはホムルの喜ぶ姿を見て内心で嬉しさを感じつつも、自分の気持ちに戸惑いながら訓練場の中央へ歩き出す。
ただ、水魔法の本を受け取り、開いた彼女の横顔は真剣そのものだ。
「水魔法はもっと難しいわよ
まずは基本の〈水滴〉からね」
ホムルは息を整える。
掌を上に向けると、詠唱とともに水滴が集まるイメージを必死に描こうとするが、空気が揺れるだけで何も形にならない。
水という流動的なものを固定できず焦りが募る。
うーん…、と唸り声が漏れ額に脂汗がにじんだ。
ロミナがじっと見守る中、何度挑戦しても水は霧のように拡散してしまう。
炎は燃え盛る火種を思い描けばよかったが、水は掴みどころがない。
時間だけが経過し、訓練場の風が冷たく通り過ぎていった。
ロミナはつい舌打ちしそうになりながら、彼の苦闘ぶりに自分の苛立ちを押し殺した。
「水が難しいのは分かるけど、焦りすぎよ
もっとゆっくりイメージして
水は流れとか、霧とか、そういう変化を思い浮かべるの」
ホムルは魔法書のページをぎゅっと握りしめ、額に浮かんだ汗が夕焼けに煌めいた。
掌を向けて「流れ…霧…」と必死に唱えるが、詠唱が風に乗るだけで掌には微かな湿気さえ残らない。
焦燥が瞳孔を揺らし、革袋が無造作に足元で転がる音さえ訓練場の静寂を切り裂く。
ロミナは腕組みをして眉根を寄せつつ、苛立ちを魔法使いに悟らせまいと指先の震えを必死に抑える。
「もう、そんなに焦らなくていいのよ!
水はね、掴もうとするんじゃなくて感じることなの」
ロミナはホムルの焦燥した様子を見て決断すると、訓練場の土埃舞う夕暮れの中、革袋から取り出した水筒を慎重に傾けた。
瓶の口から一滴また一滴と水滴が垂れ、ホムルの乾いた掌に正確に落ちていく。
水玉は瞬時に広がり、薄い膜となって拡散し、すぐに蒸発して微かな涼気を残した。
彼の手元をじっと凝視させながら、掴もうとするなと言い聞かせる。
水筒の流れと滴が手に乗って消える過程を観察させ、イメージを具体化するよう促した。
ホムルは魔法書を握りしめた手を緩め、水滴の軌跡を目で追い始め、焦燥が少しずつ和らいでいく。
「そう、それよ…水滴が落ちて広がっていく感触を覚えなさい」
ロミナは水滴が掌に広がる様子を眺めていたが、ふと焦点が遠ざかり、水滴の向こうにホムルの顔が浮かび上がった。
夕陽に照らされた表情はこれまでとは全く異なり、眉根を寄せて真剣そのものの集中を見せていた。
先程の少し恥じらい混じりのはにかんだ様子とは対照的なその顔つきに、心臓が微かにざわついた。
こんな真摯な一面もあるのだという新鮮な驚きが胸を過ぎった瞬間、無意識に水筒を傾けすぎてしまった。
瓶の口から水が堰を切ったように溢れ出て、滴ではなく細い水流となってホムルの方へ流れ落ちていく。
訓練場の土埃の中に水の筋がくっきりと現れ、慌てて水筒を戻そうとするが、流れ出した水は既に革袋や地面を濡らしていた。
ホムルは突然流れ出した水しぶきに目を見開いたが、水筒から滴り落ちる水の連なりが革袋の上に規則正しく水玉を作る様子に何か核心を得たようだ。
魔法書をそっと革袋に戻し、乾いた唇を舐めて集中を整えると、掌をゆっくり上に向けて詠唱を始めた。
夕陽が訓練場を茜色に染める中、詠唱の言葉が途切れ途切れに風に乗る。
「流れを…感じる…水玉の…拡がりを…」
途端、掌の中心に微かな湿気が凝集し始めた。
最初の一滴が震えながら形作られ、乾いた土壌に漂う空気の中に清涼感を放つ。
水滴は確かに形を留め、夕暮れの訓練場に魔法の第一歩がかすかに煌めいた。
ロミナは目を丸くして掌に生まれた水滴を見つめ、頬の赤みがさらに強まる。
訓練場の夕陽が二人を包む中、思わず一歩前に踏み出し、拳を小さく握りしめる。
「すごい…できたじゃない!その調子よ、もう少し続けてみて!」
ホムルのまぶたが閉じられ深い集中状態に入った。
水蒸気が掌の上でゆらめくイメージが広がり、次いで微かな霧の粒が掌面に浮かぶ幻影を見る。
彼は深く息を吸い込み、霧粒が徐々に結集して透明な水滴となり、掌中央でぷるりと震える様を脳裏に刻みつけた。
そして流水が指の隙間を滑り落ちる流れをイメージすると、掌の水滴が小さく脈打ち始め、周囲の空気を微かに湿らせた。
最初は不規則だった水玉が次第に円形を保ち、夕焼け色の陰影を帯びて安定し、訓練場の土埃の中に清涼な一点を放つ。
ロミナは息を殺して見守り、拳を握り締めた掌に汗が滲むのを感じながら、成長の一歩を確かめるように凝視していた。
「すごい…本当にできてる…!
ホムル、あなた、ちゃんと魔法を使えてるわ!」
彼の努力が実を結ぶ瞬間に立ち会えた喜びで胸がいっぱいになる。
ホムルは褒め言葉も届かないほど没頭し、詠唱の言葉がかすかに風に乗る。
流れを…感じる…水の旋律…掌の上で水蒸気が揺らぎ、霧の粒が結集し始めた。
最初は不安定だった水滴が徐々に円形を保ち、夕陽の陰影を帯びて安定していく。
そして遂に、魔法使いの掌中央で水玉がぷるりと脈打つと、指の隙間から滑らかな流水が零れ落ち始めた。
それはロミナが水筒を傾けすぎた時に流れ落ちた水のように、規則正しい細い流れとなって訓練場の土埃の中に清涼な軌跡を描いた。
ロミナは拳を握り締め、ホムルの成長の一歩を目に焼き付けながら胸が高鳴るのを感じていた。
「すごい…本当に流れを作ってる…
あなた…才能あるじゃない」
ホムルの意識は深い集中から解け、ふぅと長い息を吐いた。
閉じていたまぶたをゆっくり開くと、眼前には明らかな成果があった。
掌には薄く水がたたえられ、透明な膜のように光を反射していた。
周囲の土には細く均整の取れた水の跡が刻まれ、夕暮れの茜色に染まって輝いている。
これが自分の手によるものなのかと疑問が頭をよぎり、ホムルは呆然とした表情で、これ…ボクが?とぽつりと言葉をこぼした。
ロミナはすぐ脇で固唾を飲んで見守っており、ホムルの純粋な達成感に満ちたその一言に胸を熱くした。
ホムルはまだ掌に残る水滴のひんやりした感触と、土に刻まれた水流の跡を交互に見比べ、全身が小刻みに震えていた。
だがロミナの温かい眼差しに気づくと、ぱっと顔を上げ、夕陽に輝く瞳を潤ませながら声を弾ませた。
「わ…わ…苦手だったのに…!
勇者さんに教わったら、本当にできたんです!」
詰まりかけた声が次第にはっきりと響く。
「信じられない…さすがロミナさんです!
教えるのも魔法みたいに上手なんですね!ありがとうございます!」
感激で頬を紅潮させると、勢いよく頭を下げた。
ロミナは思わず拳を握り締め、胸奥で高鳴る喜びに震えた。
訓練場の茜色の光が二人の間に揺らめき、ホムルの純粋な感謝の言葉がロミナの独占欲と焦燥を溶かしていく。
ロミナは思わず微笑みながら彼の肩に腕を回し、柔らかい声で伝えた。
「そんな…私じゃないわ…全部あなた自身の努力よ
こんな短時間で水の流れを作れるようになるなんて…本当にすごいわ」
茜色の訓練場でホムルは掌の水滴を確かめるように掌を広げ、夕焼けに煌めく流れの跡をじっと見つめた。 まだ信じられない面持ちで深呼吸すると、詠唱を始めた。
〈灯火〉と囁けば杖先に小さな炎がぽっと灯り、次に〈水滴〉と唱えると掌に新たな水滴がぷるりと結び、最後にまた〈灯火〉と繰り返すと再び暖かな光が揺れた。
一つ一つの魔法が成功するたびに顔を輝かせ、軽く飛び跳ねて喜びを爆発させた。
ロミナはそれを見守り、夕暮れの静けさの中で、さぁ今日はもう帰りましょう、と声をかけた。
ホムルは大きく頷き、達成感に震えながら革袋に杖をしまい、二人並んで茜色の道を歩き出した。
茜色に染まる訓練場跡地から伸びる道を、ホムルはふわりとした足取りで歩いていた。
「今日は本当に良かったわね
あなたがここまでできるなんて、私も嬉しいわ」
彼は顔を綻ばせて大きく頷いた。 革袋を揺らしながら杖を握り直し、夕陽の光を受けて輝く掌を見下ろすと、思わず声がこぼれた。
「全部ロミナさんのおかげです」
感謝の一言が風に乗る。続けて、
「こんなにできるとは思ってもいなかったな〜」
と呟いた言葉は、まるで他人事のように軽やかだった。
目尻は嬉しさでゆるみ、口元が自然と弧を描いているものの、その表情にはどこか夢見心地のような浮遊感があった。
達成の喜びが全身を震えさせていたが、心の底からは他人事のように魔法の成果を味わい尽くしているのが見て取れた。
「そんな風に言われると、私が凄いみたいじゃない
あなたが頑張ったからよ
明日も特訓続けるわよ」
「はい!お願いします!」
その声は澄み渡り、訓練場での成果に満ちた自信が弾けていた。
革袋が腰で軽やかに揺れ、握りしめた杖先にまだ掌の温もりが滲んでいた。
ロミナがほのかに微笑むのをちらりと見て、ホムルは夢見心地のような足取りで歩調を速めた。
宿へ続く小径に踏み入れると、今日習得した水滴の感触や訓練場の光景が走馬灯のように駆け抜け、胸の内側がほのかに熱かった。
振り向くこともなく迷いもなく石畳を進み、門を潜ると宿の扉を開けて、明日への期待に膨らんだ背中を見せながら中へ吸い込まれていった。




