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第3話 咽喉反射と10往復

ホムルは重い革袋を引き摺りながら訓練場へ向かう途中、すでに前方に立つロミナの背中を見つけた。

歩みが自然と速まり近づくにつれて額が次第に深く下がっていく。

まず一礼、次いで革袋を地面に置き両膝を曲げてもう一度深々とお辞儀をする。


ロミナは振り向かないが肩越しにちらりと横目で見ており、頬の赤みが少し増したことに気づかれまいと急いで顔を背けた。

ホムルは何度も頭を下げ続ける、革袋の紐が肩に食い込みながらも上目遣いでロミナのわずかな動きを探る。

その誠意ある謝罪の姿勢は訓練場の砂地に影を伸ばし、朝日が彼らの間に落ちる埃の粒を照らしていた。


「遅いわよ、ホムル。特訓初日から遅刻なんて、やる気あるの?」

「ご、ごめんなさい…」

震える声が乾いた空気に溶ける。

「特訓してもらえると思うと…興奮しちゃって、全然寝付けなくて…」

最後の部分は俯いた睫毛の間から漏れるように小さくなった。


ロミナは頬が火照り、耳朶まで紅潮していくのが自分でもわかった。

振り向かずに鋭い咳払いを一つ立てたが、その表情は複雑な感情で彩られている。

「ば、馬鹿じゃないの!そんな理由で寝不足になるなんて…

 まあ、その…やる気はあるみたいね」


「はい! よろしくお願いします! まずは何からですか?」

ホムルは腰を折ったままの格好で勢いよく顔を上げ、革袋の紐が肩にくい込むのも忘れて大声で言った。

そのあまりの即応ぶりにロミナは眉をぴくりと動かし、訓練場の砂利を踏みしめたまま少し後ずさった。

寝坊は帳消しとはいかないが、この切り替えの早さは何なのだ…呆れつつも心臓が小さく跳ねるのが自分でもわかる。

咳払い一つで気持ちを切り替え、砂埃舞う地面を蹴って真正面に立つ。


「ふん、やる気だけは一人前ね…まずは走り込みよ

 あの丘まで行って帰って10往復!」

ホムルはロミナの命令を聞くや否や勢いよく飛び出した。

革袋が肩に食い込む痛みも忘れ、砂利の訓練場を蹴って丘に向かって駆け上がる。

最初の一往復は意気軒昂で、香草の匂いを風に乗せて軽々と走り抜けた。


しかし二往復目の途中から急に足取りが重くなる。

胸が締めつけられるような苦しさが襲い、膝ががくがく震えた。

革袋の紐を握る手が汗で滑り、息遣いが荒く乾いた土埃に消える。

顔は真っ赤に染まり、目尻に涙がにじむ。

丘の頂上を見上げても果てしなく遠く感じられ、わずかな起伏にすら息を切らせながら砂地に膝をつき、震える手で地面を掴んだ。


「もう限界?まだまだ序盤よ…こんなものじゃ魔王討伐なんて夢のまた夢だわ」

ホムルは膝を地面に突き、革袋が砂地に擦れて軋む音を立てながら、震える唇を震わせて「は、はひぃ」と吐息混じりに呻いた。

全身が鉛のように重く、肺が酸素を求めて激しく痙攣し、視界がかすむほどの疲労が襲っていた。

それでも、が…頑張ります、という声はかろうじて絞り出され、目尻に溜まった涙が朝日を反射して煌めいた。


ロミナは丘の縁に佇み、その哀れな姿を目に焼き付けながら、金髪を風になびかせて深く嘆息した。

これまでの過保護な態度が仇となったのか、魔王討伐どころか基本的な持久力すらない現実に苛立ちと焦燥が交錯し、ついに掌で額を覆い「これは…本気で深刻すぎる」と呟く声が訓練場の静寂に落ちた。


訓練場の砂塵が陽炎のように揺らめく中、ホムルは革袋をぶら下げた両手を前に差し出し、足を引きずるように前進していた。

汗が滴り落ちてまぶたを濡らし、視界は涙でぼやけ、呼吸は割れた鐘のように荒々しく訓練場の空気を引き裂く。

本人は必死に走っているつもりだが、膝は老人の歩みのごとき鈍重さで地面を摺り、革靴の裏が砂利を擦る鈍い軋みだけが疲労の速度を物語っていた。

丘の斜面は果てしなく続き、頂上が遙か雲間に消えていく幻覚さえ感じる。


肩紐が鎖骨に喰い込み、皮袋が傾くたびに重心が崩れ、足取りは更に遅延する。

ホムルは膝を大地に打ちつけ、背筋を弓なりに反らせてぜぃぜぃと喉を鳴らした。

革袋が肩から滑り落ち、砂塵にまみれた香草の束が汗まみれの腕に絡みつく。

訓練場の陽炎がゆらめく中、彼の身体は木炭のように硬直し、震える吐息が乾いた土埃を掻き立てた。


「もう見てられないわ… ホムル、ちょっと休憩にするわよ」

ロミナは金髪を風になびかせ、ホムルの脇腹を掴んで引きずり始めた。

枯れ枝のようなホムルの身体は抵抗もなく力任せの歩調に引き摺られ、木陰へと引きずり込まれていく。

木漏れ日が汗だくの鎖骨に落ち、地面に伸びた二つの影が絡み合い、訓練場の喧騒から隔絶された陰へと消えていった。


「まったく、こんなんで本当に魔王討伐できると思ってるの?

 水飲んで休みなさいよ」

ホムルは震える指先で腰の水筒を探り当てると、蓋を外す動作ももどかしく傾けた。

冷たい水が渇いた喉に流れ込んだ瞬間、体力の限界を超えた身体が拒絶反応を示す。

咽頭が痙攣し、気管に水滴が跳ねた衝撃で「げほっ!」と鋭い咳が炸裂した。

続く連続した咳き込みが肋骨を軋ませ、涙がまぶたから溢れ落ちる。

革袋が砂地に転がり、咳の度に唾液と水が混ざって顎から滴り、枯葉を汚した。


ロミナは固唾を飲んで見守り、金髪を汗で額に貼りつかせながら苛立ちと一抹の同情が入り混じった複雑な眼差しを向ける。

ホムルの咳は荒い呼吸となって尾を引き、喉仏が激しく上下運動し続けた。

「もう、情けないわね…ほら、ゆっくり飲みなさいよ

 一気に飲んだらまた咳き込むわよ」

優しく背中をなでながら語りかける。


ホムルは支えを受けながら、少しずつ水筒の口を傾けた。

冷たい水が咽喉を通り抜けるたびに、微かな嚥下音が木陰に響く。

「こく…ごくん」という規則正しい動きが喉仏周辺の柔肌に伝わり、汗で光る鎖骨の谷間まで波紋のように広がった。

その繊細な起伏にロミナの視線は釘付けになった――戦いで鍛えられた自らの首筋とは全く異なる、儚くも確かな生命の律動。

無防備に晒された喉元が、荒い呼吸と嚥下のたびに上下する様は、苛立ちの中に潜んでいた庇護欲を容赦なく抉った。

金髪を額に張り付かせたまま、固唾を飲んでその微細な生の営みに見惚れていた。

「…あんた、意外とかわいいところあるじゃない」


ホムルは霞がかかったような瞳をぱちくりさせ、ロミナのほうへゆっくりと焦点を合わせていった。

水を飲んだ直後の潤んだ目が木漏れ日の金色を映し、無防備にぽっかりと開いた口元からはまだ水滴がかすかに垂れていた。


ロミナは呆然とした表情を見て我に返り、思わず漏らした本音が聞こえたのかと焦った。

慌てて俯き、金髪の乱れた前髪をかきあげようと手を動かした途端、視線を合わせてしまったことに気づいて鼓動が早まり、さらに混乱した。

「べ、別に変なこと言ったわけじゃないわよ!

 …あの水を飲む時の仕草が、なんだかすごく…可愛いというか」

普段の威厳ある口調は跡形もなく消え、ほとんど囁きで喉が詰まりそうなほど恥ずかしい言葉が次々と零れ出ている。


必死に距離を取ろうと後退したが地面の小石が靴底に引っかかり、バランスを崩しかけた。

木漏れ日が揺れる中、逃げるような動作でホムルから離れ、背中を向けた。

振り返らずに拳をぎゅっと握り締め、耳朶まで真っ赤になりながら訓練場の方へ足早に歩いて行った。


ホムルは木陰からふらつきながら立ち上がると、訓練場の空に向かって両腕を大きく振った。

足取りは千鳥足のように乱れていたが、すぐに地面を蹴って小走りに走り出し、土埃を上げながら決められたコースを往復し始めた。


息遣いは荒く胸が上下し、十往復を終えた時には太腿が震えて膝を押さえ込む必要があった。

汗まみれの革袋が腰にぶら下がり、香草の匂いが漂う中、彼は何度も地面を見つめながらロミナの側に戻ってきた。

膝を叩いて震えを鎮めようとしても失敗し、か細い声で「ロミナさん、終わりました…次は何ですか?」 と言いながら、期待と疲労で潤んだ目を向けた。

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