第20話 葛藤、焦燥、困惑
その後何度か〈水滴〉と〈灯火〉の詠唱を繰り返し、徐々に安定するようになった様子を見たロミナは、今日の特訓を終えることとした。
「今日はここまでにしましょう
だいぶ慣れて安定するようになったわね」
ホムルは額に浮かんだ汗を袖でそっと拭いながら、ロミナの言葉に深々と頭を下げた。
ありがとうございます、その声には疲労の重みが滲んでいるものの、瞳孔には今日の特訓で確かに掴めた魔力の安定感が揺らいでいる。
訓練所の石畳に伸びた長い影が疲れを映し出す中、彼は一昨日の魔獣襲撃で負傷した左脇腹を無意識に押さえた。
まだ傷口の疼きが神経を走り、集中が途切れれば魔力が乱れる現実は変わらない。
ロミナが期待を込めて見守る眼差しが痛いほど感じられるが、ホムルの表情は淡々としている。
充足感は確かに胸にある、しかし仲間に喜びを見せられる余裕までは戻っていない。
濃霧の森で抱えた負い目と傷の疼きがまだ心身を縛っているのだ。
疲れ切った様子を見たロミナは、心配そうな表情で彼に近づく。
訓練所の陽光が二人を優しく包み込む中、彼の肩にそっと手を置きながら優しく話しかける。
「疲れたでしょう?今日はよく頑張ったわ
宿に戻って休みましょうか」
ホムルは訓練所の石畳に踏み出した。
「はい、そうします」
疲労の深い溜息と共に応じる声は掠れていたが、疲労の中にも決意を含んでいた。
また明日よろしくお願いします、と続けて告げると、深々と頭を下げた。
額の汗を袖で拭いつつ、彼は訓練所の出口へ歩き始めた。
背筋は疲れているもののまっすぐで、宿への道程を確かめるようにゆっくり進む。
ロミナは後ろ姿を見つめながら躊躇した。
すぐに追いかけて一緒に歩くべきか、ここで見送るべきか迷う心が胸をよぎる。
「ちょっと待って…無理しちゃダメよ
宿まで一緒に行くわ」
ロミナは訓練所の石畳を小走りに駆け、ホムルの疲れた背中を追いかけた。
心の中では「途中で倒れたら困る」と理由をつけたが、近くに居たい気持ちが無意識のうちに身体を動かしていたのだ。
ホムルはふと歩みを緩め、振り返るとロミナの姿を見て微笑んだ。
「送ってくれなくても大丈夫ですよ。
ロミナさんは大袈裟だなぁ」
掠れた声に疲れを滲ませつつも、目尻を下げて冗談めかして応えた。
表情に以前のような子供っぽさは見られない。
ロミナはその微笑みに胸が熱くなり、距離を縮めたまま宿への道を共に歩き始めた。
陽光が二人の横顔を優しく照らし、石畳に長く伸びた影が寄り添うように並ぶ。
「大袈裟じゃないわよ…
ケガだってまだ完全に治ってるわけじゃないんだから
少しでも体調が悪くなったら言ってちょうだい」
ホムルの疲れた横顔を見つめながら言葉を続けたが、心配という名のごまかしがいつしか早口になっていた。
歩みを合わせたものの、二人の間に会話は途切れ、訓練所からの小径は沈黙に包まれた。
ホムルはロミナのすぐ傍に並ぶことができず、無意識に一歩後退して距離を置いた。
一昨日宿で弱々しく抱擁された安心感が胸に染み、それがロミナへの特別な感情へと芽吹いていたのだ。
どう振る舞えば普段通りに接できるのか分からない焦燥が、足取りをわずかに鈍らせていた。
微妙な距離感に気づいたロミナが、眉をひそめながらも優しい眼差しで彼を見つめる。
「ねえ、何か変よ。さっきから距離を取ってるみたいだけど…
私のこと避けている?」
ホムルは俯いた顔をさらに下げ、石畳の模様をじっと見つめながら小さな声で言った。
「そんなことないです」
ロミナはその様子を見て、特訓の厳しさが怖がらせてしまったのではないかと思い、眉間に皺を寄せつつも優しい口調で尋ね返した。
「特訓が厳しすぎて怖がらせてしまったかしら?ごめんなさい」
しかしホムルは突然顔を上げ、今までとは違うはっきりとした口調で言い返した
「そんなことないです!」
その声はロミナの誤解を遮るように力強く響いた。
ロミナはその強い否定に戸惑いつつも、変わらぬ歩調に宿までの小径を共に歩み続けた。
「そう…なら良いんだけど。
明日の特訓、無理しなくていいからね
あなたのペースでゆっくりやっていきましょう」
ホムルは俯いていた顔を急に上げ、小径に響くほど力強い声で叫んだ。
「そんなことないって言ってるじゃないですか!
明日も特訓頑張ります!」
その剣幕は明らかに通常とは異なり、眉間に決然とした皺が刻まれ、疲れながらも揺るがない意志が目に宿っていた。
ロミナはその急な激しさに驚き、一瞬言葉を失い、ホムルの真剣な横顔を呆然と見つめた。
ホムル自身が自分の感情を整理できず、なぜ距離を置こうとしたのか、伝えられない想いが心を渦巻いていた。
そもそも伝えるべき想いなのか、その葛藤に答えを出そうと焦燥感ばかりが募っていた。
「そう…そこまで言うなら信じるわ
でも本当に無理はしないでね
あなたの諦めない姿勢、私も勇気づけられるから」
ロミナの驚きの表情は、ホムルの決意に心打たれたて徐々に柔らかな笑みへと変わっていった。
はい…、と微かに答えたが、ホムルは俯いたまま顔を上げることができなかった。
小径に差し込む陽光の逆光に浮かぶ彼女の凛々しい横顔を見るだけで鼓動が早まり、胸が締め付けられる感覚が襲ってくる。
自分の心に戸惑いながら足取りは宿へ向かい、石畳の凹凸が靴底に伝わる振動が混乱した思考を少しずつ現実に引き戻した。
宿の玄関に辿り着くと、追い抜きざまに肩を並べたロミナの存在が改めて意識されたが、そのままそっと扉をくぐった。
「部屋まで送るわよ
今日も一日頑張ったんだから、しっかり休まないとね」
ホムルは俯いたままロミナの腕をそっと押し留めた。
玄関の木の匂いが漂う中、もう、大丈夫ですから…と絞り出すような声が漏れた。
ロミナに触れた温もりがまだ残っていたが、それ以上近づくことを拒むように半歩後退し、自ら扉を閉めて薄暗い階段へ足を進めた。
ドアノブがひっそりと音を立て、ホムルは自分の部屋に入るとすぐに扉を閉め、鍵のかかる小さな音が静寂の中に響いた。
宿の玄関に一人取り残されたロミナは、ホムルの背中が消えていくのを見つめて立ち尽くすだけだった。
胸に広がる寂しさと理解できない感情に戸惑いながら髪を掻き上げる。
「なんなのよ、もう...やっぱり特訓が厳しすぎたのかしら」
ホムルの拒絶の理由がつかめず胸の奥に棘が刺さったような気持ちだったが、溜息とともに背筋を伸ばした。
この後は情報収集や事務処理といった仕事が控えている。
やり場のない苛立ちを拳を軽く握ることで抑え、重い革袋を背負い直して宿を後にした。
人影もまばらな小径を歩きながら振り返ることはせず、ただ目的地を目指して足早に歩いていった。
心にはホムルの俯いた後姿が焼き付いて離れなかったが、今は目の前の務めに集中しようと自分に言い聞かせる。
ホムルは部屋の中央に立ったまま動きを止めた。
身体的な疲労や傷の疼きではなく、胸の内で渦巻く感情が彼をその場に縛りつけていた。
拳を握りしめ、俯いた視線の先にある床板の節目をじっと見つめる。
「無理しないで」という言葉が耳朶に張りつき、玄関で触れた温もりが皮膚に蘇る。
あの距離感、あの優しさ──自分がなぜ彼女の存在に心拍が乱れ、距離を置けば置くほど焦燥が募るのか理解できなかった。
壁に掛かった小さな鏡に映る自身の困惑した眼差しが答えを求めているようで、ホムルは深く息を吸い込んだ。
この感情こそが混乱の源なのだと自覚した瞬間だった。




