第19話 巡る魔力の乱流
翌々日の訓練所、陽光が石畳を照らす中、ホムルが現れた。
足取りは普段より重く、左脇をわずかにかばうように歩いているのが傍目にもわかる。
傷口が疼くのか、動作の端々に躊躇いが滲む。
彼の瞳はうっすらと充血し、まぶたが腫れぼったく見える。
長い睫毛がかすかに濡れた跡を残しており、休息を取ったはずなのに、逆に憔悴した印象さえ与えている。
ロミナは金髪を軽く掻き上げながら平静を装っていたが、内心では彼への心配と一昨日の夜の記憶が交錯していた。
「さすがにまだ調子悪いみたいね…昨日は休めた?」
「ずっと横になっていたんですけど…
傷のあたりに意識が集中してしまってあまり…」
「そう…まぶたも腫れてるようだし、寝れなかったのね
まだ痛みもあるのかしら?」
「さすがに、まだ脇腹は痛みますね…」
ホムルはゆっくりと息を吐きながら声を潜めて認めた。
今までのホムルなら弱音を吐くまいと歯を食いしばるところだが、今日は違った。
素直な気持ちの吐露は信頼ゆえだったが、ロミナにはその機微は伝わっていなかった。
それほど調子が悪いのか…と訓練所の石の匂いが肺に入ると同時に、ロミナが一歩踏み出し距離を詰めた。
金髪が陽に透けて揺れ、ロミナはホムルの腫れたまぶたをじっと見つめる。
ホムルは思わず視線を泳がせた。
ロミナは腕を組みながら心配そうな眼差しを向けつつ、少しだけ声のトーンを落として話しかけた。
「今日は基礎トレーニングは辞めておくわ
魔法だけにしましょう」
朝日に金髪を透かしながら訓練所の石畳に立つロミナは言葉を続けた。
「ケガが詠唱にどう影響を与えるか確認するのが今日の目的よ
これから傷つきながら戦う場面だって出てくるんだから」
ホムルは左脇腹を押さえつつ緊張した面持ちで深く頷き、〈水滴〉の詠唱を開始した。
いつもなら掌に霧が渦巻き瞬く間に水滴となるのに、今は唇を噛みしめ集中しても空気が淀むばかりだ。
魔法の気配すら石畳に吸われ、彼の額に冷や汗がにじむ。
傷口の疼きが詠唱のリズムを乱し、集まらない魔力に焦りが募る中、ロミナはじっと手を組んで見守る。
焦る姿を見て、眉間に皺を寄せながらも一歩前に出て肩に手を置く。
「焦らないで…魔力が集中できていないのよ。
傷が痛むのはわかるけど、まずは呼吸を整えて」
詠唱を中断したホムルはゆっくりと深呼吸を始めた。
肩甲骨が上下するたび左脇腹に鈍い痛みが走り、眉間に皺が寄るものの、次第に呼吸のリズムに乗って身体の硬直が解けていく。
朝日が訓練所の石畳を温め、痛みと共に襲ってくる緊張感が薄れていく。
改めて両手を胸の前で組み、詠唱を再開すると、体内で魔力が渦巻く感触が戻ってきた。
しかし脇腹の傷跡が敏感に反応し、流れが途切れる度に乱れが生じ、額に冷や汗がにじんだ。
集まろうとする魔力が傷口付近で滞留し、水魔法特有の澄んだ光が掌で弱々しく煌めくだけで、一向に形にならない焦燥感が募る。
ロミナは訓練所の静寂の中に立ち、ホムルの苦闘を見つめる瞳に理解と忍耐の色を浮かべる。
彼の額に浮かぶ汗を拭おうと手を伸ばしかけるが、途中で止める。
「落ち着いて。魔力は感じてるわね?
傷の痛みで流れが乱れてるのはわかるけど
それを意識しすぎないこと…自然に任せるのよ」
「自然に任せる」という言葉を噛みしめたホムルは一旦思考を切り替える。
乱れる魔力の流れを必死に抑え込もうとするのではなく、むしろその波立つエネルギーを正面から受け入れた。
左脇腹の傷跡が鈍く疼くたび、体内を駆け巡る魔力の乱流を拒まず、逆にその動きに意識を集中させたのだ。
掌に集まりかけては霧散していた魔力が、初めて抵抗なく流れ込む感触を得た。
詠唱の声は途切れず滑らかになり、唇から零れる呪文が澄んだ光の粒子を次第に紡ぎ始めた。
傷口周辺の滞留が嘘のように、魔力は螺旋を描いて凝縮し、ついに掌の上で透明度の高い水滴へと形を変えた。
訓練所の石畳に朝日が降り注ぐ中、ホムルの眉間の皺が緩み、額の汗が輝きながら頬を伝って落ちていった。
掌に水滴が生まれた瞬間、ロミナは目を輝かせながら小さく息を漏らす。
彼の努力に対する尊敬の念が胸中に湧き上がった。
「よくできたわ!その調子よ
痛みがあっても、魔力をコントロールできたわね」
その言葉にホムルは僅かに安堵の表情を浮かべ、ふぅーっと深い息を吐き出した。
しかし休むことなく詠唱を繰り返し、徐々に安定して成功させられるようになっていった。
続いて〈水球〉の詠唱に移ったが、最初の〈水滴〉よりも遥かに多くの魔力が必要となるため、体内のエネルギーが複雑に波立った。
左脇腹の傷口が先程よりも強く疼き、魔力の流れが乱れる感覚が全身を駆け抜けた。
掌に集まるはずの魔力は傷跡周辺で渦を巻き、螺旋状に凝縮する過程で何度も霧散してしまう。
額に新たな汗がにじみ、呼吸が浅くなり詠唱のリズムも乱れ始める。
ロミナがすぐ傍でじっと見守る中、ホムルは何度も唇を噛みしめながら集中を試みたが、水球の形成は困難を極め、澄んだ光の粒子が石畳に零れ落ちていくばかりであった。
「大丈夫よ…少しずつでいいの
魔力の乱れは自然なことだから
今日は無理せず、できる範囲で進めましょう」
ロミナは優しく声を掛けるが、ホムルは集中しているためか反応が無い。
ホムルは訓練所の石畳に立ったまま、深く息を吸い込んだ。
左脇腹の傷跡が疼く中、一昨日無我夢中で灯りの詠唱を続けていた時の記憶が蘇る。
あの時はただ必死で、魔力の不安定さなど気にかける余裕さえなかったのだ。
掌を握りしめれば握りしめるほど、魔力は螺旋状に渦巻いて形を失い、石畳に零れ落ちていく。
こんな状態で攻撃魔法を試みれば、魔力は四方八方に飛び散り、味方を直撃してしまうかもしれない。
傷口付近で滞留するエネルギーの塊を感じながら、彼は深く落胆した。
コントロールを試みれば試みるほど、痛みが魔力の流れを阻害し、思うように操れない現実に打ちのめされた。
ホムルの落胆した表情を見て、眉を寄せながらも優しい眼差しでロミナは彼の肩に手を置いた。
「今日は魔力の感覚を取り戻すことだけを考えましょう
焦る必要はないわ…初めての練習なんだしね」
その声は励ましと理解に満ちていた。
しかしホムルは俯き、掌の皮膚が白くなるほど力を込め拳を固く握りしめている。
悔しい。
詠唱一つまともにできない己の弱さが腹立たしく、ロミナの期待に応えられないことに落胆した。
傷口が疼けば魔力は乱れ、水滴さえ揺らいで消える現実が歯痒くて堪らない。
それでも彼はゆっくりと息を吸い込み、励ましを飲み込んだ。
どんな状況でも魔法を使いこなせなくては戦列に戻れない。
その時、仲間と共に戦う誓いを思い出した。
(みんなと一緒に冒険したい、魔王討伐を頑張りたいんです!)
そんな気持ちをロミナさんは受け入れてくれたこと。
依頼でみんなに成長を認めてもらえたこと。
あの濃霧の森で命懸けで守られたこと。
…焦らなくてもいいんだ。
期待して、でも待っててくれる人たちがいる。
その事に気づいたホムルは拳の力を抜き、ゆっくりと顔を上げた。
「わかりました…もう焦りません」
ホムルの決意に満ちた表情を見て、ロミナの胸の中で温かい感情が広がる。
陽光に照らされた彼の横顔を見つめながら、自然と口角が上がった。




