第11話 戸惑いを隠す声
ホムルは革袋の紐を解き、革の擦れる音とともに古びた革表紙の魔法書を取り出した。
訓練場の陽射しが斜めに差し込み、ページの端が金色に透ける。
ちらりとロミナの方を見て、喉仏が大きく上下した。
「今日は〈水球〉を大きくするんでしたっけ?」
声は訓練場の風鈴よりもかすれている。
魔法書が石畳に置かれ、革の匂いが一瞬漂った。
ロミナはホムルの赤らんだ耳元と硬直した指先に気づき、昨夜額に触れた時の熱を思い出した。
水筒の影がゆっくりと伸びていく中、そっと微笑む。
純粋な質問が拒絶ではなく訓練への真剣さだと感じ、胸のつかえが少し解けた。
「そうよ、水球を大きくする練習だったわ。準備はいい?」
ホムルは固く頷くと、眉根を寄せて両手を前方に広げた。
訓練場の朝靄の中に真剣な表情が浮かぶ。
唇が震えながら詠唱を開始すると、周囲の空気が微妙に歪んだ。
まず微かな霧が掌に集まり、次第に水滴へと凝縮していく過程を見せたが、それは不安定で形を保てない。
さらに集中を深め、水球形成へ移行しようと試みたものの、難易度の高い魔法に体力が追いつかないのか、あるいは昨夜の疲労が抜け切っていないのか、水球は石畳の上で弱々しく揺れる輪郭となり、一向に大きく膨らまず消えてしまった。
ホムルの奮闘を見守りながら、ロミナは焦燥と期待が入り混じった表情で唇を噛む。
訓練場の風が二人の間を抜け、汗ばんだ額に光る粒を揺らすのを見て思わず一歩前に出た。
「もう一度やってみましょう。焦らなくていいから
体内の魔力を感じて…そう、その調子よ」
まぶたを閉じ深く息を吸い込み、脳裏に水球が水晶のように透明に輝くイメージをホムルは描いた。
彼の集中した瞳孔に光が宿り、両手のひらが汗ばんで光る。
訓練場の朝靄が徐々に薄れていく中、最初はぽつりぽつりと集まった水滴が、意思を持つかのように互いに結びつき始めた。
小さな円形の輪郭が形成されると、それは次第に膨らみ立体感を増していく。
まだ直径十センチほどの小さな塊ではあったが、ついに水球として安定して宙に浮かび、太陽の光を受けて内部で揺らめく水紋が煌めいた。
「すごいわ…あなた、本当にすごい!
昨日までできなかったのに…こんな短期間で水球を形作れるなんて」
ホムルが空中に浮かぶ小さな水球にそっと魔力を解き放つと、水晶玉のように透明で澄んだ球体が訓練場の朝日を浴びて七色に煌めいた。
顔がぱっと晴れやかな笑顔に変わり、汗で光る額を拭いながらロミナの方を向く。
「昨日の事を思い出したんです…
水晶を象るイメージを膨らませたら自然と水球ができました」
と弾む声で言った。
その「昨日」という単語にロミナは一瞬心臓を跳ねさせたが、ホムルの純粋な達成感に満ちた表情を見て安堵した。
訓練場の土の匂いを深く吸い込み、鼓動を鎮めるために拳を軽く握り締めながら、すごい進歩ね、と微笑んだ。
朝靄が消えゆく中、二人の距離は再び縮まり、互いの体温が風に乗って漂ってくる。
ホムルの耳朶が淡く赤らみ、褒められた嬉しさで俯き加減になった。
しかし期待に応えようとすぐさま顔を上げ、深呼吸をして両手を前に掲げる。
汗ばんだ指先が微かに震えながらも、集中を研ぎ澄ませていく。
訓練場の空気が張り詰め、小鳥のさえずりも遠ざかる。 彼の唇がゆっくり動き、呪文の旋律を紡ぎ始めた途端、掌中の水球が微かに脈打った。
まだ弱々しくはあるが、確かに昨日とは違う確かな輝きを増していく。
ロミナは思わず拳を握りしめ、眩しそうに目を細めつつも、その成長の一歩を確かめるように凝視していた。
「すごいわ…確実に成長してる
焦らなくていいから、自分のペースで続けてみて」
何度も水球形成の詠唱を繰り返すうち、動作に迷いがなくなった。
最初はふらついていた水滴の集合が、次第に淀みない流れとなり、両手の動きが流麗に早まっていく。
完全に水晶イメージを掌握した彼の瞳は集中の輝きに満ち、訓練場の陽射しが水球の表面で瞬く速さが明らかに向上していた。
ロミナはその成長を確認すると深く頷き、疲労の見えるホムルへ柔らかな声をかけた。
休憩しましょう、その後もっと高度な魔法に挑戦するわよと言いながら、訓練場の石畳に腰掛けるよう促した。
朝露の残る草の匂いが漂う中、ホムルはほっと肩の力を抜き、額の汗を拭いつつ傍らで一時の休息を得た。
「よく頑張ったわね。こんな短時間でここまで上達するなんて…
あなたの努力が実を結んでるわ。新しい魔法もきっとすぐに習得できるわよ」
そっとホムルの頭に手を伸ばし、汗で濡れた髪を優しく撫でた。
頭を撫でられたホムルの身体が一瞬ぴくりと硬直した。
すぐに頭を下げて避け、濡れた青髪が汗で額に貼りつき俯いたままの姿勢を保つ。
顔を上げると照れたような微笑みを浮かべ、声が僅かに震えながら、あ、ありがとうございます…と呟いた。
次も頑張ります、と付け加えた口調には決意が滲んでいるものの、視線はずっと地面に釘付けだった。
ロミナはその素振りを見て眉をひそめた。
昨夜の密着した距離感とのあまりの違いに違和感が走り、怪訝そうな眼差しを向けて、なぜ急によそよそしくなったのか測りかねている様子を見せた。
内心では昨夜の記憶があいまいな彼にとって適切な距離感を取ろうとしていると理解しようと努める。
訓練場の風が汗ばんだ二人の間に吹き抜け、朝露の匂いとともに微妙な空気を運ぶ。
「どうしたの?何か気になることがあるなら言ってちょうだい」
慎重に言葉を選び、優しく尋ねる。
ホムルは首筋に汗を伝わせながら、問いかけに口ごもった。
訓練場の石畳に視線を固定したまま、指先が無意識にこすり合わされる。
「あ、いや…なんか、さっきもそうだったんですけど…」
喉仏が上下するのが見えるほど緊張している。
「触られると…恥ずかしいというか…なんというか…」
最後は消え入りそうな声になった。
俯いた睫毛が微かに震え、頬の赤みが汗に濡れた首筋まで広がっていく。
ホムルの恥ずかしそうな様子を見て、ロミナは少し考え込むような表情を浮かべる。
昨夜の親密な時間を思い出し、自分だけが覚えていることに切なさを感じつつも優しく微笑む。
「そう…恥ずかしいのね。わかったわ
無理に触ろうとはしないから安心して…」
訓練場の石畳に落ちた影が二人を隔てるように伸び、朝露が草の先で微かに揺れた。
以前なら飛びつくように抱きついてきた相手が、今は距離を置こうとしている…その事実を受け止めなければ。
自分が近づきすぎてしまったとの自省の色がその整った眉間に浮かび、新たな距離感を受け入れる覚悟を心に問いかける。
訓練場の石畳に長い沈黙が降りた。
ホムルは俯いたまま言葉に反応せず、指先が無意識にこすり合い、額にかかる汗で光る青髪の陰で眉をひそめて何か深く考え込んでいる。
ロミナへの気持ちに変化が生じていることにホムル自身が気づいておらず、接触に対する無意識な反応に戸惑っていた。
しばらくして突然顔を上げ、耳朶の薄紅が朝陽に透けるように輝きながら、強引に笑顔を作った。
「…次の、特訓を始めましょう!」
声は訓練場の風に乗って響き、訓練再開を求める宣言が明るく響いた。




