第10話 幸福のため息
訓練場の石畳の上、ホムルは杖を握り締めた拳を震わせながら必死に走っていた。
しかし二日酔いの頭痛が波のように襲い、足取りは次第にふらつき始めた。
二往復目の折り返し地点でついに限界を超え、彼の膝が砕けるように折れた。
そのまま地面に崩れ落ち、訓練場の硬い石畳に背中を打ちつけると、ゴロンと勢いよく転がってロミナのすぐ足元に仰向けになった。
額には脂汗がにじんで青髪が湿って貼り付き、虚ろな瞳孔は陽の光を映している。
乾いた咳をひとつ漏らし、苦しそうに腹を押さえた手の甲には青白い血管が浮き出ていた。
「もう、やっぱり無理しちゃダメじゃない
ほら、休んでいて。水を持ってきてあげるから」
訓練場の端にある水場へ向かう前に一度振り返り、ホムルの苦しむ姿に母性的な愛情を感じながら微笑む。
割れんばかりの頭痛が脈打つように襲い、吸い込む息ごとにこめかみが鈍く疼いた。
冷たい空気が喉を通り抜けるだけで鋭い痛みが走り、まぶたを閉じて耐えようとするが、それでも内部で炸裂するような拍動に苛まれていた。
左手でこめかみを強く押し、右手は震える杖を辛うじて掴んでいたが、指先の力は完全に抜けかけていた。
ロミナの足音が遠ざかり、水を汲むために離れていくのがかすかに聞こえた。
ホムルは浅い呼吸を繰り返し、痛みが和らぐ一瞬を待ちながら、吐き気を催す二日酔いの不快感と格闘していた。
水を汲んで戻ってきたロミナは、苦しんでいる姿を見つめながら眉間に皺を寄せる。
「ほら、水よ。少しずつ飲むのよ」
水筒を唇に当て、彼が飲みやすいように支えてあげる。
ホムルは弱々しい声で「は……はい」と答えた。
両腕でしっかりと水筒を抱え込み、こぼれないよう慎重に口元へ運ぶ。
一口含むと冷たい水が乾いた喉を滑り落ち、二日酔いの吐き気が少し和らいだ。
続けてゆっくりと、確実に水を飲み続けていく。
水を飲む様子を見守りながら、ロミナは自分の頬が熱くなるのを感じ、そっとホムルの額に手を当て微笑んだ。
ホムルは石畳の硬さに背中を預けながら、額に添えられた掌の温もりをじわりと感じていた。
二日酔いで脈打つような頭痛が続く中、その掌のぬくもりだけが奇妙に染み入ってくる。
まるで熱を持った頭蓋骨の内側を包み込むように、痛みの波紋が徐々に薄れていく錯覚さえ覚えた。
額に触れる皮膚を通して伝わる体温が安心感を呼び起こし、つい無意識に顔をわずかに手の方へ預ける仕草を見せた。
吐き気が完全に消えたわけではないけれど、今はただこの温もりに守られる小さな安堵に身を委ねていた。
ロミナはホムルが自分の手に頭を預けてくる仕草に胸が高鳴り、頬を赤らめながらも優しく彼の額に手を当て続けた。
「こうしていると少しは楽になる?」
「ロミナさんの手、とても温かいです…
頭痛が楽になります。回復魔法も使えるんでしたっけ…」
ホムルはまぶたを閉じたまま訓練場の光を浴びて、掌から伝わる温もりを深く味わっていた。
石畳の冷たさと比べれば天国のようなぬくもりが頭蓋骨の内部を包み込み、脈打つような鈍痛が確かに和らいでいくのを感じる。
額に感じるその体温はまるで治癒の泉のように染み渡り、吐き気さえ遠のいていった。
「回復魔法も使えるわ…でも別にこれは魔法じゃないわ
ただ手を当ててるだけなのだけど…」
ホムルの感謝の言葉に照れながらも、嬉しさで瞳を輝かせ、訓練場の柔らかな光の中で彼の顔を覗き込む。
ホムルはまぶたを閉じたまま微かに唇を動かし、訓練場の朝風に乗せて夢見るような低い呟きを零した。
「魔法じゃなくてもこんなに楽になるんだ…ロミナさんはすごい…」
その声は二日酔いで霞んだ思考の中から絞り出された感謝の吐露だった。
額に感じるロミナの掌のぬくもりが染み渡り、頭痛の疼きが波のように引いていく快楽に全身を預けている。
石畳の冷たさと対照的なロミナの体温が魂の奥底まで届き、守られている安心感が胸いっぱいに広がる。
訓練場の喧騒がかすかに遠ざかる中、彼の呟きはそのまま幸福の溜息となって風に消えた。
「そんな風に言ってもらえるなんて…嬉しいわ
あなたのためにできることがあるなら、なんでもしたいの」
ホムルはまぶたを半ば開けながら、額に感じるロミナの掌の温もりを確かめるように目を細めた。
訓練場の陽射しが石畳を照らし、頭痛は確かに和らいでいるものの、何か違和感が胸に引っかかる。
「何か……ロミナさん、今日は優しすぎません?」
彼の声は二日酔いで掠れていたが、過剰な気遣いに戸惑いを滲ませていた。
ロミナはその言葉に一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに柔らかな微笑みに戻った。
「そうかしら?ただ…あなたが辛そうなのを見てられないだけよ
特別に優しくしてるつもりはないわ」
額に当てた手をゆっくりと滑らせ、指先が彼の頬の丸みを辿ろうとした。
指が頬に触れた瞬間──ホムルが鋭く「ひゃっ!」 と声を上げ、体をぎゅっと縮めた。
それは昨夜、ロミナ自身が指を頬に導いた時とは全く異なる、明らかな過敏な反応だった。
その意外な反応に一瞬目を見開き、思わず手を引っ込めた。
掌が空中で止まり、昨夜の親密な触れ合いとは異なる距離が生まれた。
ホムルの突然の小さな悲鳴が訓練場の静けさを破り、ロミナの胸には戸惑いと一抹の寂しさが広がった。
「ごめんなさい、驚かせちゃった?」
ホムルは首を急に捻じ曲げ、訓練場の壁に向かって顔を背けた。
彼は深呼吸をして耳朶まで紅潮した熱を鎮めようと努めながら、かすれた声で言った。
「なんか恥ずかしいので、もう…大丈夫ですから。」
汗ばんだ掌を開き、訓練場の砂利を踏んで立ち上がる。
足元で砕ける小石の音が響く中、彼は振り返らずに言い足した。
「早く魔法の特訓を始めましょう。」
振り返ればまた鼓動が乱れる予感に駆られ、眩しい陽射しの向こうへ歩み出した。
ホムルの突然の拒絶に戸惑いながらも、寂しげな表情で彼の背中を見つめ、訓練場の風が金髪を揺らす中、小さく溜息をつく。
「そう…わかったわ」




