魔法使いと王女様
透明な小瓶の中に、薔薇の花びらを溶かしたような色の液体が満たされている。
黒衣を着た魔法使いが、その小瓶を手のひらに乗せて差し出す。
「この薬を意中の相手に飲ませれば、最初に見た人のことを好きになる」
フードの下から、低く落ち着いた男の声がした。
薬は、男が苦労して作った自信作だ。効果は絶大。
それを飲んだ者は、胸がどきどきして、最初に見た相手のことを好きで好きでたまらなくなってしまう。
「つまり、惚れ薬ってこと?」
差し出された小瓶に、王女が視線を注ぐ。
そうだ、と男の魔法使いは頷いた。
――好きな人の心を手に入れる魔法って、ある?
そう王女から問われて作ったものの、魔法使いには、彼女が一体誰にその薬を使うのか知らされていない。
これまで幼い頃から仕えてきた王女が、惚れ薬を欲するような歳頃になったのかと思うと、魔法使いは複雑な気持ちであった。
しかし、王女は、差し出された小瓶を受け取ることなく、顔をあげた。
「それじゃあ、この薬、あなたが飲んでくれる?」
「え」
「……あ、待って。他に誰も来ないよう、扉に鍵を掛けておきましょう。万が一、侍女が入ってきて、あなたがそちらを見てしまわないように」
そう言って王女は、扉へと向かう。鍵をかける王女の背中を見つめながら、魔法使いは、小瓶の中身が減っていやしないかと、思わず何度も確かめてしまった。誤って自分が薬を飲んでしまったのかと思ったのだ。
「さぁ、早く飲んでちょうだい」
急かす王女を前に、魔法使いは、自分の鼓動が速くなっていくのを感じていた。
♡ ♡ ♡
ヴァニラ王国の城内は、今日も騒がしい。
二の姫であるシュガー王女が、ドレスの裾を翻し、扉という扉を目にしては開けていく。客室用の扉、広間、使用人が使う個室、調理場……しかし、目当ての人物が見つからない。王女の――愛らしいと評判の顔つきは、たんだんと険しいものに変わっていく。
「キルシュ! キルシュ=ヴァッサー! どこにいるの?!」
すれ違う臣下たちは、あわてて道を譲り、王女に臣下の礼をとった。
「そこのお前、キルシュを知らない?」
王女に話しかけられた一人の兵士が、頭を下げたままで答える。
「はっ! キルシュ様は、この国一番の魔法使いと名高く、最年少で王立魔術師団の長に任命された、キルシュ=ヴァッサー様であります!」
それを聞いたシュガー王女の頬が、ぽっと赤らむ。
「ええ、そうね。キルシュって本当にすごい……って、そんなことを聞いているんじゃないのよっ! わたくしは『キルシュを見かけなかった?』と聞いているの!」
「申し訳ありません! 見ておりません!」
その後も、何人かの臣下らに尋ねて回ったが、みな知らないと答える。
王女は、悔しげな顔で、拳に力をいれた。その手には、透明な小瓶が握られている。魔法使いキルシュに作ってもらった惚れ薬だ。まだ一滴も中身が減っていない。
(なんとしても、この薬をキルシュに飲ませなくっちゃ)
王女は、諦めることなく、廊下を掃除していた若いメイドに声をかけた。
「そこのあなた、キルシュを見なかった?」
メイドは、ホウキの手を止めて、膝を曲げる。カーテシーという、目上の者へとる儀礼だ。
「……いいえ。見ておりません、姫様」
「見つけたら、すぐ私に知らせて」
それだけ言いつけると、王女は、メイドに背を向けた。城内は広い。まだまだ探していない場所がたくさんある。
廊下の角に、王女のドレスの裾が消えていく――それを見届けたメイドは、足元で揺れるテーブルクロスに向けて、声をかけた。
「……もう行かれましたよ。出て来ても大丈夫です」
すると、テーブルクロスの内側から、黒い頭がにょきっと飛び出した。現れたのは、黒衣の魔法使い――キルシュ=ヴァッサー(推定二十二歳)。最年少で王室付の魔法使いとして召し上げられた、この国一の魔法使いだ。
「はぁ……どうして俺が、こんな場所に隠れなきゃいけないんだ」
不服そうな顔で、キルシュは、ローブの裾についた埃をはたく。それを見たメイドが、むっとした表情をした。
「匿って差し上げたのに、その言い方はあんまりですわ。とっとと腹をくくって、王女様のお気持ちを、受けとめて差し上げればいいだけです」
つん、とメイドが鼻先をあげ、持っていたホウキをキルシュに手渡す。そして、テーブルクロス――もとい、白いシーツをその場で畳み始めた。せっかく綺麗に洗ったばかりなのに……と文句を言っている。
「匿ってくれて助かった。でも……どうして助けてくれたんだ?」
キルシュは、メイドもまた、王女の味方をするに違いないと思っていたのだ。
「そりゃあ、王女様の恋は応援しております。でも、惚れ薬を使うなんてやり方は、間違っています。そんなことをしても、王女様の心が傷つくだけだわ」
恋ねぇ……と、キルシュは、受け取ったホウキを、杖に変えて唸る。
「俺にとっては、まったく寝耳に水なんだが……」
すると、それを聞いたメイドは、意外そうな顔でキルシュを振り返り、「あら、みんな知ってますわよ」と答えた。
♡ ♡ ♡
……とは言え、いつまでもシュガー王女から逃げきれるものではない。キルシュは、彼女の教育係でもあるからだ。
案の定、魔法史の講義中――シュガー王女が、取り出したのは、魔法史大全……ではなく、可愛くラッピングされた小さな包み。
「キルシュ♡ はい、あ~んして♡」
満面の笑みをたたえ、シュガー姫が、小袋から取り出したのは、ハート型のクッキー。それを指先でつまみ、キルシュの口元へ近づける。
一方、キルシュは、顎を引き、元々不愛想な顔に渋面をつくって見せた。
「…………なんだ、これは」
「見てわからないの? クッキーよ。わたしが作ったの。……ちょっと焦げちゃったけど、味は保証するわ」
「惚れ薬入りの、だろう」
ぎくっ、と王女の表情が固くなる。
「な、何を言うの。そんなわけないじゃない。ちゃんと味見だってしたんだから」
「その味見をさせられたコックが、今晩のメインディッシュにしようとしていたコカトリスに一目惚れしてしまい、森へ逃避行したきり行方不明なのだ。どうしてくれる」
淡々と事実だけを告げるキルシュの物言いは、シュガー王女を追い詰めた。目をきょろきょろさせて、明らかに動揺を隠せないでいる。
「うっ。そ、それは……」
そもそも『うっ』と言っている時点で、黒だ。
上空を彷徨っていた王女の視線が、ある一点で、はたと止まる。
「愛じゃないかしら?!」「愛じゃないだろう!?」
苦し紛れの言い訳も、有能な魔法使いによって、すげなく突っぱねられてしまった。
シュガー王女は、しょぼんと肩を落としたかと思えば、今度は、どうしよう、と落ち着かない様子でうつむいた。行方不明になったコックを心配しているのだ。
それを見たキルシュが、ふぅ、とため息をつく。
(俺も甘いな……)
「……まぁ、薬の効果は、もって三日だ。二、三日も経てば、自分から戻ってくるだろう」
ほっとした表情を浮かべる王女に、キルシュは内心(それまでコックが生きていればの話だけどな)と思ったが、それは口にしないでおいた。コカトリスは、なかなか狂暴なニワトリなのだ。
「そんなことより、先週、俺が出した課題は終わったのか?」
あっ、と王女が思い出したように、舌をぺろっと出す。
「わたしの部屋に忘れてきちゃった。キルシュ、取りに行ってくれない?」
どうやら課題自体は、ちゃんとやったらしい。両手で王女に拝まれて、叱ろうと身構えていたキルシュの気持ちが凪いでいく。
忘れてきた原因の一旦が、自分のために焼いたというクッキーにあるのだろう、と思ったからだ。――目的はともかく。
「ったく、しょうがないなぁ……」
キルシュは、自分が戻ってくるまで自習しておくようにと告げ、王女をひとり残して部屋を出た。
魔法を使えば、あっという間だが、防犯のため、王室関係者が使う部屋では、魔法封じの魔術がかけられている。直接、部屋まで取りに行くしかない。
(まったく、王女も色気づいたものだ)
キルシュは、その優秀さから、十歳で王立魔術師団へ入団し、十二歳で王女の教育係に任命された。以来、十年近くも、王女の成長を傍で見てきたのだ。
今更、恋だの愛だのと言われても、キルシュには、よくわからない。
「これかな……?」
文机の上に、開いて置かれたままの本があった。手にとって、中を確認してみる。
〇月△日
今日、キルシュとデートした。
魔法の訓練だってキルシュは言っていたけど、二人きりでの遠出なんて……デートよね?!
訓練は……あまりうまくいかなかったけど……。
最後にキルシュが「よくがんばりましたね」と言って、頭をなでてくれたの。わたし……胸が、ぎゅーーーってなって、死んじゃうかと思ったわ♡♡♡
●月✕日
はぁ……キルシュと喧嘩しちゃった。
キルシュったら、いつまでも子供扱いをして、わたくしの気持ちに、全っぜん気付いてくれない!
一体どうしたら、彼の心を手に入れることが出来るのかしら……?
魔法でも使えたらなぁ。
△月◎日
今日は、キルシュと会えなかった。
研究室にこもって、何かの薬を作っているみたい。
はぁ……こんなことなら、妙なことを頼むんじゃなかったわ。
キルシュに会えない日が、こんなに辛いなんて…………。
――それは、どう見ても、王女の日記だった。
しかも、どの日付にも、「キルシュ」の名前ばかりが書かれている。
数ページに目を通したところで、キルシュは、本を閉じた。
人の日記を読んではいけない、というのは本当だと思った。
その時、がちゃ、と音を立てて、部屋の扉が開いた。メイドが、清掃のため訪れたのだ。
「あら、キルシュ様。いらっしゃったのですか……」
声をかけたメイドは、キルシュの顔を見て、目を見開いた。
「まぁ、キルシュ様! 熱でもあるんですか? 顔が真っ赤ですわよ」
♡ ♡ ♡
ヴァニラ国一、最強の魔法使いと謳われるキルシュ=ヴァッサーは、悩んでいた。
シュガー王女の日記を目にしてから、どうも調子がよくない。
いつもなら、低血圧のせいで鬱陶しいと思う朝日が、きらきらと美しく感じる。
花など興味もなかったのに、王庭に咲く花を見て、シュガー王女に似合いそうだ、などと考え、ぼーっとし……壁にぶつかる。
いつもなら、完璧につくる魔法薬の配合を間違えて、爆発させてしまう。
そして、あろうことか、シュガー王女の講義中、彼女の目を見て話をすることが出来なくなった。
本で顔を隠しながら、なんとか講義を続けようとしたものの、心配したシュガー王女に顔をのぞかれて、キルシュは、奇声を上げて部屋を飛び出した。
(……なんだなんだ、これは? まったく、妙な気分だ! シュガー王女を見ると、からだが熱くなって、動悸までする。まさか俺は、何かの呪いにかかったのだろうか?)
これまで魔法一筋で生きてきたキルシュ=ヴァッサーは、魔法以外のことに疎かった。
キルシュは、その日から研究室にこもり、自身に起きた異変の原因を探るべく、研究に没頭した。
様子のおかしくなった魔法使いを見て、城の者たちは、妙な噂を口にするようになる。
「あの最強と名高い魔法使いキルシュ殿が、強力な呪いにかかったらしい」
「まさか、敵国の魔法使いによる呪術の類か?!」
「明日にでも、戦争を仕掛けられるのではないのか?」
「だが、頼みのキルシュ殿があの状態では……一体この国は、どうなってしまうのだ……」
城内に不穏な空気がただよう中、シュガー王女は、キルシュを心配して、夜も眠れぬ日々が続いた。
「一体どうしたというの、シュガー。姉さんに、話して聞かせてごらんよ」
ヴァニラ国の一の姫、カラメル王女が、シュガー王女の部屋を訪れた。彼女は、女性の身でありながら豪胆で、大層かしこい姫だと、他国でも評判だ。
シュガー王女も、姉ならば、何か解決策を見つけてくれるのではないかと思い、涙ながらに、自身の胸の内を打ち明けた。
「実は、かくかくしかじかで……キルシュのことが心配で、食事も喉を通らないの」
かしこいカラメル王女は、妹の話から、キルシュがおかしくなった原因について、すぐに察しがついた。
しかし、可愛い妹を苦しめるキルシュのことが、カラメル王女は許せない。このままでは、愛する妹が餓死してしまう。
「大丈夫よ、シュガー。姉さんが、いいようにしてあげるから、安心おし」
それから幾日と経たず、城内に新たな噂が流れた。
シュガー王女の婚姻話が持ち上がっているという。
しかも、お相手は、かねてからヴァニラ国を虎視眈々《こしたんたん》と狙っていると噂される、モンブラン帝国の第二皇子だという。
つまり、敵から攻められる前に、手を組もうという策略なのだろう。それならば安心だ――と、城内の者たちは胸をなでおろした。
その頃、研究室にこもっていたキルシュは、思いつく限りの方法を使い、呪いを解こうと試みたが、全て失敗に終わっていた。
よろよろと亡霊のように研究室から這い出したところへ、シュガー王女の婚姻話を耳にする。
(なんだって?! いつの間に、そんな話に……くそっ、なんなんだ、この胸を締め付けるような痛みは?! やはり、俺は…………)
その時、キルシュの頭にあったのは、幼い頃から見守ってきたシュガー王女のこと。
(シュガー王女に……会わなければ……!)
とにかく今は、シュガー王女の顔を見たい、逢いたい――その強い想いが、キルシュを突き動かしていた。ふらつく足取りで、シュガー王女の部屋を訪ねる。
「キルシュ! よかった……あなたのこと、心配していたのよ」
涙ぐむシュガー王女を見て、キルシュの胸が締め付けられる。その時、ようやくキルシュは、自分の胸が痛む理由を知った。
最終手段であった、惚れ薬の解毒薬を飲んでまで試したのだ。それでも効果はなかったのだから、さすがの魔法使いも認めざるを得ない。
つまり、この異常な身体の不具合の数々……その理由は、シュガー王女にこそある、ということだ。
「シュガー姫……」
久方ぶりに顔を見合わせた二人は、しばし見つめ合った。
キルシュの目には、シュガー王女が急に大人びて見えた。波打つ赤金色に輝く髪も、見慣れた筈の、飴色の瞳も……すべてが懐かしく、また初めて見るようにさえ感じた。見ているだけで、全身に力がみなぎるようだ。今まで自分は、王女のいったい何を見ていたのだろう、と思った。
シュガー王女も、改めて自身のキルシュへの想いを深めた。サクランボ色の瞳を、初めて見た時は、恐ろしいと思ったものだが、今では、見ているだけで安心できる。ずっとこの瞳に見守っていてほしい、と思った。
逢わない時間が、二人の心の距離に、少しだけ魔法をかけたようだった。
(でも、もう遅い……)
キルシュのほうが、少しだけ大人だった。
王女と魔法使いでは、身分が違う。隣国の王子を相手に、魔法使いに出来ることは何もない。まして、モンブラン帝国は強大だ。これ以上の結婚相手は、他にないだろう。
「姫…………ご婚約、おめでとうございます」
絞り出すように出したキルシュの言葉が、シュガー王女の心をふかく傷つけた。
「キルシュは……わたくしが、王子と結婚してもいいの?」
王女の声は、震えていた。答えを聞くのが恐い……でも、聞かずにはいられない。
キルシュの胸に、きりり、とつよい痛みが走る。
しかし、キルシュは、その痛みを、感じなかったことにした。
「俺は、いつでもシュガー姫の幸せを祈っています」
♡ ♡ ♡
シュガー王女の婚姻話は、粛々《しゅくしゅく》と、だが着実に進められていった。
そして、とうとう婚約者である皇子が、ヴァニラ国へ来訪してきたのだ。
城内では、二人の婚姻を祝うため、盛大な祝宴が開かれた。
皇子の名前は、ブラン。白金色の髪がまばゆく、利発で、天使と見まがう美貌を兼ね揃えていた。
「シュガー王女、お初にお目にかかります。宜しければ、私とファーストダンスを踊っていただけますか?」
『ファーストダンス』……それは、社交の場で、一番はじめに踊るダンスのこと。踊った相手とパートナーであることを、参列者たちに証明するための儀式でもある。
それ故に、シュガー王女は、ためらった。皇子の手をとってしまえば、もう後戻りはできないと知っている。
周りを見回せば、王族貴族、使用人らが固唾をのんで、成り行きを見守っていた。その中に、キルシュの姿を見つけて、シュガー王女は心を決めた。
「…………はい」
ためらいがちに重ねられたシュガー王女の手を、ブラン皇子は、ガラスに触れるかのように優しくエスコートした。
一曲目は、ワルツだった。大勢の観客に見守られながら、シュガー王女とブラン皇子は、優雅にステップを踏む。
それを見た貴族たちが、口々に喜びの声をあげた。
「ほぅ……これは大層うつくしい皇子様だ。これならば、シュガー王女もご満足するだろう」
「モンブラン帝国は、恐ろしい国だと聞いておりましたが、皇子はまるで天使のようですわ」
「皇子は、シュガー王女と歳も近いそうですわね。とってもお似合いのカップルじゃありませんか」
「これで我が国の平和は守られますな。いや~よかった!」
ワルツが終わった。再び、次の曲の演奏がはじまる。
ブラン皇子は、二曲目も王女と踊るつもりで、手を差し出した。
ところが、シュガー王女は「気分がすぐれないので……」という理由で、誘いを断り、逃げるように広間を後にした。
王女はどうしたのだろうか、と不安な声がささやかれる中、キルシュは、居てもたってもいられず、王女の後を追った。
見れば辛いだけ……と思い参列を渋ったが、王立魔術師団の長であるキルシュが出席しないわけにはいかない。苦い想いを噛みしめながら、二人が手を取り合い、仲睦まじくファーストダンスを踊るところを見守っていたのだった。
シュガー王女は、自分の部屋へ駆け込んだ。息を切らしながら、文机の引き出しを開け、中から透明な小瓶を手にとる。
最後の手段は、これを自分が飲むしかない――そう思っていた。
「シュガー姫、どうされたのですか」
そこへ、あとを追い掛けてきたキルシュが、部屋へ飛び込んでくる。
王女は、涙に濡れた目で、キルシュを見上げた。どうして、このタイミングで……と、キルシュを恨んだ。結ばれることのない二人の運命を呪った。
「お願い、キルシュ。これがわたしの……最後のお願いよ」
シュガー王女は、手にしていた小瓶を、キルシュへ差し出した。
「これを飲んで。そして……わたしをここから連れ出してちょうだい」
キルシュの視線が、惚れ薬の入った小瓶と、シュガー王女の間を行き来する。ブラン皇子との婚姻を目の前に、そんなことをしてしまえば、国家間の争いの火種をまくことになってしまう。
そんなキルシュの迷いを見抜いたシュガー王女は、更に追い打ちをかける。
「あなたが飲まないなら……わたしがこれを飲んで、ブラン皇子と結婚するわ」
シュガー王女の鬼気迫る様子に、キルシュの胸は、大きくゆらいだ。
一度、王女のために身を引こうと決めた筈なのに……皇子と王女が踊る光景を目の当たりにし、身が焼かれる想いを味わったのだ。これ以上の責め苦には、耐えられそうにない。
王女の言葉と、惚れ薬の誘惑は、キルシュにとって、この苦しみから抜け出すための唯一の手段に感じられた。
「姫、俺は……」
キルシュの手が、惚れ薬の小瓶へとのびる。
しかし、その指先は、瓶に触れる直前に、ぴくりと止まった。惚れ薬を飲むということは、自分の心を偽ることでもある。
それこそ、シュガー王女の心を傷つけるに違いない。
(こんなことになるなら、惚れ薬など安易につくるべきではなかった……)
これを飲めば、一時的にでも、シュガー王女の気持ちを宥めることは出来るかもしれない。
だが、それは、二人の心が永遠に結ばれないことを意味している。キルシュの心が、シュガー王女にはないと証明しているようなものだからだ。
だからと言って、キルシュが飲むことを拒めば、シュガー王女とブラン皇子の結婚を認めることになってしまう。
(あぁ……俺は、どうすれば…………)
ここは、飲むのを断り、シュガー王女を説得して、広間へ連れ戻すべきだ。彼女の幸せのためにも――キルシュの理性は、そう告げている。
でも、身体が言うことをきかない。もうあそこへは戻りたくない、シュガー王女を戻したくない――と、心が叫んでいた。
ゆらゆらと、薔薇色の液体が、小瓶の中からキルシュを誘うように揺れている。
風に乗って聞こえてくる――楽団の奏でるテンポの速い円舞曲が、キルシュの心を焦らせる。
飲むべきか、飲まざるべきか――――…………。
小瓶に触れそうで触れない指先が、キルシュの弱さと迷いを表すように震えていた。
♡ ♡ ♡
広間では、シュガー王女の不在を誤魔化すように、軽快なアップテンポの曲が演奏されていた。貴族たちは、大いに踊り、ご馳走を口にし、未来の美しい花嫁と花婿を夢想して、話に花を咲かせた。
そんな中、ひとり手持無沙汰になっていたブラン皇子の元へ、カラメル王女が近づいてゆく。
「皇子……私と一曲、踊ってくださいますか」
「これは、カラメル王女。もちろん、喜んで」
二人は、今はじめて知り合ったかのように微笑み合い、手を重ねた。踊りながら、互いの耳元に口を寄せて、そっとささやく。
「……これで、よかったのでしょうか」
「ええ。皇子は、うまくやってくださいました。心から感謝を」
二人の会話は、楽団員たちの奏でるメロディにかき消され、周りの耳には届かない。
「いえ。あなたに逢えると思ったから、こうして皇子のフリまでして来たのです」
カラメル王女は、くすりと笑みをこぼした。会いたいと思っていたのが自分だけではなかったと知り、胸が熱くなる。
「まさか本当に皇子として来てくださるとは……皇帝陛下はお怒りではなくて?」
「元々の男装好きが高じたようです。いい厄介払いができた、とお思いでしょう」
何の問題もない、と爽やかな笑顔で、ブラン皇子――のフリをした、フラン皇女は答えた。皇女の中性的な美が、その性別をより不鮮明にしている。
実は、前々から知り合いであった二人は、互いの想いを叶えるために、こうして一芝居を打ったのだ。
(ふふ……さすがのキルシュも、目の前で愛する王女を他の男に奪われたら、熱くなるのね。今頃、うまくやっているかしら)
シュガー王女とキルシュが結ばれれば、ヴァニラ王国は、モンブラン帝国に対して顔を立てなくてはならなくなる。そこで代わりに、カラメル王女が婚姻を結ぶ――そういう算段だった。
「これでようやく……あなたと結ばれるのですね」
フラン皇女の声が、熱を帯びる。
それに答えるように、カラメル王女は、そっと皇女の耳たぶに口づけた。
王子のいないヴァニラ国では、カラメル王女が婿をとるか、跡継ぎを産む必要がある。同性同士の二人が想いを遂げる方法は、これ以外になかった。
(それに、あの二人もきっと、こうでもしないと先に進まないでしょうし……)
かしこいカラメル王女は、自分の恋と妹の恋、両方を成就させる方法を考えたのだ。
ただ、それが成功するかどうかは、キルシュの決断に全てかかっている。
(まさかとは思うけれど……これでもし、キルシュが妹を捨てて戻ってきたら……この本物の惚れ薬を飲ませてでも、シュガーとくっつけてやるわ)
軽快なステップを踏みながら、カラメル王女は、フラン皇女に微笑んだ。まさか頭では、更なる計略を立てているとは思えないほど穢れなき笑みで……。
実は、いつもシュガー王女の部屋を掃除しているメイドに頼み、惚れ薬の中身を入れ替えておいたのだ。もちろん、シュガー王女は、そのことを知らない。
ヴァニラ国王とキルシュが、カラメル王女の思惑に気付くのは、もう少し後のことである――――。
完




