物語8 戦勝
5年後、ローマの町はポエニ戦争の勝利に沸き立っていた。街道を進む凱旋の行列、祝宴を告げるファンファーレ、そして市民たちの歓声が町全体に響き渡る。
しかし、その喧騒の中、アントンは街の外に出るどころか、工房に閉じこもる日々を送っていた。いつの間にか「歩く軍事機密」として扱われるようになり、彼の活動は厳重な監視下に置かれていたのだ。
「俺もやり過ぎたかな」
アントンは苦笑いを浮かべながら、手元の工具を弄り続けていた。だが、それでも彼の中の創作意欲は衰えることがなかった。旋盤の改良、小型中ぐり盤、ボール盤、原始的なフライス盤と歯車の歯切り機構、ジャーナル軸受,、各種弁装置など忙しかったのである。
その日、凱旋してきたルキウスが工房を訪れた。戦場から帰還した彼の鎧は埃まみれで、身体には幾つもの傷跡が刻まれていたが、その表情は満足感に満ちていた。
「アントン、君にどうしても伝えたいことがある。」
「ん? また新しい道具の相談か?」アントンは笑いながら答えた。
「違う。君の技術が、いかに戦場で役立ったかという話だ。」
ルキアスはそのまま作戦の一部始終を語り始めた。
まずローマからレッジョ・カラブリアまで建設した信号旗リレーは期待された通りの機能を発揮し指揮と補給の効率性を高めた。ポンプは宿営地の衛生を改善し損耗を抑えられた。シチリアのカルタゴ同盟市の恭順も得て、まずシチリアを確固たるローマ軍の後方基地にした。
ローマ海軍は信号旗システムに習熟して、分散して敵を索敵し発見後急速に艦隊を集結させる戦術で全般的に有利に戦った。
方位磁針は戦術的にも艦隊の運動を容易にした。指揮官たちは昼夜天候を問わず方向感覚を保つことができた。
バロメーターは嵐が激しければ激しいほど予測精度が高くなり、バロメーターの水位急低下の際は出航禁止、直ちに最寄りの港に避難するのがセオリーになった。これでどれだけの勇敢な男たちが無為に海の藻屑となる運命から逃れることができたか。
全般的に士気は優勢なままで推移した。海難は減り補給は改善され無理なく戦争を遂行できたためである。
完勝だったと言ってよい。カルタゴ海軍に壊滅的な打撃を与えた後でカルタゴ本土に上陸した。カルタゴの外郭防衛陣地を撃破し自軍の堡塁を築きつつローマ軍は強者の余裕をもって寛大な提案を行った。
シチリアの放棄のみ、賠償なし、カルタゴ本市への進駐なし、軍の制限なし、ただし航路情報を今後両国は共有するものとする。むしろカルタゴとの協力関係を強く志向するものだった。
カルタゴがまた戦争を仕掛けてきたら?という一部の心配に大戦争を戦い抜いた将兵たちは朗らかに答えるのである。「何度でも叩き潰してやりますよ」と。
「なるほどねえ。敵をも味方に変えるのは正しくローマ人のやりかたじゃないか。」アントンはローマの寛大さに感銘を受けたようだった。
「アントンの技術がなかったらもとずっと苦戦していただろうね。そして遺恨を残していたかもしれない。」とルキアス。
「俺も遂に大型の中ぐり盤を完成させたぞ。」アントンは意気揚々と彼の工作機械を見せる。
「これで内径を正確に加工できる。ピストンポンプを大型化できるし、軸受けの精密加工が可能になる。木製ネジの大胆な使用により自然な送り機構も実現している。」
しかしルキウスは絶句した。旋盤に似た機械の軸方向に固定されていたのは剣だったからである。
「これはひょっとして剣か?」
「ひょっとしなくても剣だ。」
「この機械を人に見せる時は気を付けるんだよ。剣は軍人の魂だと怒る人もいるかもしれない。」
「そういうものか」アントンは考え込む。
ルキウスはこの善人を囚人同然にしている状況を痛ましく思った。
ポエニ戦争の勝利を用意したのは彼ではないか。
「アントンには国家的な客人としてここに留まって欲しいというのが元老院の意向らしい。」ルキウスが微妙な表情で続けた。
「率直に言って君の技術はあまりに革新的すぎて、元老院も頭を抱えている。戦争に勝つのはいいが、君を自由にさせるには危険すぎると判断された。」
「だから俺はここから出られない、ってわけか。」アントンは苦笑いしながら再び工具に目を戻した。
「それでも君の発明が、ローマの未来を変えるのは間違いない。」ルキウスは誇らしげに言った。「戦場だけじゃない。君の道具は平和の時代にも大いに役立つだろう。」
アントンは少し沈黙した後、ぽつりと呟いた。「だったら、平和のためにもっといいものを作らないとな」
その言葉を聞いたルキウスは、ただ静かに彼の肩を叩いて部屋を出て行った。
アントンの手は再びスケッチに戻った。蝋板には新しい工具や装置の構想が次々と描かれていく。その視線はどこか遠く、今のローマを越えた未来を見据えているようだった。
彼の発明は確かに軍事的に利用されているが、それが新たな平和と繁栄をもたらす一歩になることを、アントンは心のどこかで信じていたのかもしれない。
この物語は非常に楽観的に描いていますが、アントンの立場はとても危険なものです。それでも彼は突き進みます。彼の目指すもののために。