物語6 旋盤の夢
ある朝、アントンは蝋板に何かをスケッチしながら独り言をつぶやいていた。
「轆轤があるなら、刃物を固定してもっと精密な加工ができるはずだ。」
アントンの蝋板には、轆轤に似た構造が描かれていた。しかし、そこには明らかに何か違う要素があった。片手で固定具らしき部分を指しながら、もう片手で頭を掻く。
「うーん、軸受は木でもいいとして、ベアリングはまだ無理だし、力のかけ方をもっと工夫しないと。何かいい方法があるはずだ。」
その場に居合わせたルキウスが声をかける。
「アントン殿、また新しい道具の構想ですか? 一体今度は何を作ろうとしているのです?」
アントンは目を輝かせながら答えた。
「これです、ルキウス様! もっと精密にものを削ったり形を整えたりするための道具です。ほら、轆轤は回るけれど、手で刃物を持って作業するでしょう? でも、この構造なら刃物を固定して力を均一にかけられるんです。」
ルキウスはしばらく図を眺めたあと、少し困惑した表情を浮かべた。
「それは面白そうだが、そんな装置が本当に必要なのだろうか? いまのところ、十分役立つ道具が揃っているのでは?」
アントンは答えた。「今は必要ではないかもしれませんが、より精密な加工ができることにより様々な高度な装置の製造が可能になります。未来の種を撒いているようなものですね。」
彼の表情には熱意と焦りが入り混じっていた。自分が誰なのかも分からない。それでも、頭の中に次々と湧き上がる発想だけが、彼の存在を支えているようだった。
「工作好きの学者か、それともただの夢追い人か」とルキアスは呟き、アントンを観察した。「いずれにせよ、彼の頭の中には我々には到底理解できない未来が詰まっているのだろう。」
アントンはガイウスの支援を受けて、出入りの木工職人スキュプトルや鍛冶屋イグニスたちと旋盤の試作に取り掛かった。最初は「刃物を固定する」という発想が理解されず、職人たちは怪訝な顔をしたが、アントンが根気よく仕組みを説明すると、徐々に興味を示すようになった。
また送り機構が難物だった。刃物は固定するだけでは作業が困難で、安定して保持しつつ少なくとも軸方向に移動させることのできるように作らなければならない。
結局、頑丈な木のボックスの構造の一部を案内レールとすることで手で送りを行う形になった。
やがて、簡易的な固定具と手動で回転する轆轤が組み合わされ、初めての「旋盤らしきもの」が形になった。
「これで、何を作るつもりなんだ?」スキュプトルが興味津々で尋ねると、アントンは笑いながら答えた。「まずは、ピストンポンプを作ってみるか。」
「手押しポンプじゃ足りないのかい。」
「うん、揚程の低さという問題があるからなあ。」
アントンは軍の問い合わせに対しては、途中に貯水槽を作り多段式にポンピングするやり方を教えたが、手押しポンプの本質的な限界を感じずにはいられなかった。
*****
最初の旋盤を得て、アントンは作業場を整備すべくガイウスに協力を求めた。これから作ろうとする高性能ポンプはアントン自身の旋盤での作業が多くなるので敷地内に作業場を作ってくれないかと。アントンは小さな真鍮の円筒形をガイウスの前に置いた。
「これは旋盤で作ったものです。」
ガイウスは滑らかに輝く円筒を手に取った。ピンであろうか?
「蓋と本体に分かれておりますので上の方をつまんで上下に引いて下さい。」
「ほ、ほう」ガイウスは嘆息した。しっかり嵌っていた蓋がわずかな重量感とともに上方に滑り出し、蓋が外れると本体の中には小さな空間が現れた。「なるほど。精巧なものだ。」
「これは単なる容器にすぎません。しかしこれから作ろうとするポンプは画期的な性能のものになります。」アントンにはかなりしっかりした計画があるようだった。
ガイウスはアントンに離れの倉庫を改造した作業場を与えた。改装した作業場でファウスタが監督に来た。
「竈はここに一つ用意していますがここ以外では火を使わないでください。鍛冶仕事の方もこちらではご遠慮ください。人が驚きます。」
「鍛冶仕事が必要な時はイグニスさんのところでやります。」アントンは答えた。
「掃除が必要ならユリアにいう事、彼女がすぐ手配します。」ファウスタは続けた。
「自分で掃除するつもりなのでそこは大丈夫だと思いますが、何かあったらユリアさんに相談します。」アントンは了承した。
「それから今度、旋盤を動かすときには私に教えてください。見学に参ります。」ファウスタは微笑んだ。
アントンは制作の段取りを整えていく。次のようにしてピストンポンプを作ろうと思う。
真鍮ブロックの削り出しでシリンダー部を作り、ドリルで入排水口を作る。今度は逆止弁もスイングドア式の奴をちゃんと作ってそれを圧入するかロウ付けする。ちなみにこの時代のばねはコイルバネは製造自体難しく板バネも信頼できない。
ピストン部は鉄で精密に作った円形のピストンヘッドに木の棒を仕込んでピンで固定する。ピストンロッドとハンドルはピンで締結。外回りは木を縄で結んでピストンハンドル支持体とする。ハンドルの片側には錘を吊るし、操作者が押し下げる方向だけに筋力を使うように留意した。
原始的な旋盤でもここまではできるはずだ。アントンはピストンポンプにしばらく熱中する。
そしてまた旋盤の改良も並行して進める。回転主軸は真鍮のスリーブ軸受けで鉄のシャフトを支えるように改良する。ネジ機構が必要なのだが金属ネジの製造に自信をもてない。やはり木製のネジを木工職人のスキュプトルに作ってもらって工具台の送りと位置調整を行うことにしよう。材料の弱さを大きさをもって克服しようという設計である。
そういうことで時は過ぎていった。作業に熱中して昼飯と夕飯をすっぽかした時には心配して見に来たユリアに怒られ食堂まで連行された。「アントンさん、あなたに倒れられると私が迷惑なんですよ。」
方位磁針の製造は軍が完全に得意技にしたし、バロメーターに関してもアントンの意見で専用の設計を行った水パイプタイプの量産型の製造が始まっていた。
*****
ピストンポンプはチェックバルブのところで難航した。動作が不安定になりがちで、試行錯誤でバランスウェイトとアームの形状を変えて、ようやく満足できる結果を得た。ピストンポンプに取り付けて試運転したら結構具合が良い。各所からかなりの水漏れがあるのは致し方ない。取りあえずこれで完成とした。
完成したピストンポンプをスポンサーのガイウスや木工職人スキュプトルや鍛冶屋イグニウスに披露した。これが旋盤の成果物だ。二階屋に届くほどの放水アーチに彼らは唖然とした。
「まったく理解できず変な趣味だと思っていたがこれほどとは。」ガイウスにとってはアントンを手元に置いておくための必要経費だったらしい。
アントンは言った。「私のやっているのは魔法じゃないんです。十分な基盤がないとそもそも成立しない装置なんです。」
「めんどくさいことばかり言ってくる客だと思ってたが深い理由があったんだな。」とスキュプトル。
「刀でないのに鋼で小さい刃物を作れと言う意味がこれだったんだな。」イグニウスは唸る。
ファウスタはニコニコ笑いながらポンプの動作を眺めていた。「これは消火作業に良いでしょうね。」
ルキウス「この大きさなら船で使うのにも十分だ。」
ユリアは特に感想らしきものを言わなかったが、ただアントンに「おめでとうございます」とだけ言った。
完成したピストンポンプは軍関係者から絶賛された。彼らは手押しポンプの限界を感じていたし、ピストンポンプは消火ポンプとして必要な性能を備えていた。
そして彼らが絶句したのはシリンダー等の精密な加工であった。当時の加工の常識を越えていた。原始的な旋盤加工でもまったく別次元だったのである。
軍は最良の技術者をアントンのもとに差し出してきた。
「お手上げ、一から全部教えて下さいと、言うことだよ。」
ルキウスは言った。
派遣された軍の技術者はマキシムスという20代の若者だった。
「そうぞよろしくご指導お願いします。素晴らしい真円断面ですね。」
アントンは旋盤の使い方から指導した。そしてピストンポンプを一から作っていった。
旋盤の使い方で一番面倒なのは加工物の回転軸への固定かもしれない。木製の爪の間にブロックとクサビで固定するのだがこれで位置決めをするのは結構難しい。刃物台もむしろ中ぐりが精度よくできるように改良してあるが位置決めには慎重を要する。
機械工のイロハをマキシムスと再確認していった。
マキシムスは選抜されて来ただけあってさすがに優秀で呑み込みが早かった。アントンが俺は不器用だなと思うほど彼の方が器用に工作をやってのけた。
軍はアントンの旋盤の最新型のコピー製造を始めた。一台まるごと接収同然のやり方で買収し分解して部品レベルでコピーを行った。
マキシムスとピストンポンプを一台作ったところで彼は軍に帰ることになった。軍の工場で製造を始めるのだという。
「このピストンポンプはまだ試作品で効率が悪いんだよ」とアントンは言ったが
「改良するのは自分たちの方で何とかやれるでしょう。」とマキシムスは自信を示した。
事実、手押しポンプに関しては彼らはなかなか良い工夫をほどこしていたし、逆止弁に関してもかなりの改善をしていたのである。
アントンはローマ軍は非常にせっかちだという事を学んだ。
アントンには作りたいものがたくさんあったし技術が広がっていくのは大歓迎だった。しかし作業場でまた一人になって少し寂しく感じた。
ポンプの形式は多々ありますが、ピストンポンプは比較的大容量高揚程を実現できます。旋盤は機械加工の基礎となるものです。