物語5 家庭の視点
アントンが客分として身を寄せることになったウァレリウス家はローマの名門貴族である。ガイウスの妻クラウディアが数年前に病死してからはルキウスの妹ファウスタが家政を監督している。ファウスタは兄ルキウスに似た快活で知的な令嬢である。
家政婦ユリア・セヴェラは中年の平凡な容姿の女で少女時代から20年間クラウディア付きの女中として働いてきた。クラウディアの遺言で奴隷から解放されたが、ウァレリウス家で働き続けたいと希望したので、家政婦長格で家政全般を見てもらっている。ガイウスは彼女に解放奴隷同士の縁談を持ちかけた事があったが彼女が再三固辞するものだから縁談の話は途絶えてしまった。
ある日の午後遅くファウスタはユリアに声をかけた。
「ユリア、アントン様という急なお客様をお泊めすることになったんだけどお世話するのは誰が良いかしら。」
ユリアは自分がアントンの世話係になることにした。他の家政婦たちの日課を乱すのは嫌だったし、面倒で突発的な仕事をこなすのが自分の役割だと理解していたからだ。
客用の寝室や寝具は十分あったからアントンを受け入れるのはそんなに難しくなかったが、翌朝のバロメーターの騒動には少し驚いた。バロメーターなるものを使ってアントンは嵐の到来を予想し的中させたというのだ。ユリア・セヴェラもバロメーターを見に行った。ちょうど天候が回復していく午後に壺の中から糸で吊るされた小石がするすると上昇していくのを見た。奇妙に楽しい風景だった。
ルキウス坊ちゃん、いやルキウス様は「アントンは偉い学者で、バロメーターは最新の自然哲学の道具なんだよ。」と言っていた。誰も魔術だと言わなかったのは道具立ての貧しさのせいでもあったろう。台所の隅に置いてあった空の壺を逆さにして杭に突き立てただけ。占いにしても貧弱すぎて有難みがなかった。
アントンはもっさりとした中年男で立ち振る舞いは穏やかで紳士然としていた。いつも言葉少なめで使うときは丁寧な言葉を使った。彼の寝室に服の変えを持っていくと「ユリアさん、どうもありがとうございます。」と丁寧に頭を下げた。昼食や夕食の給仕をする時も「ありがとうございます。」と皿を受け取るのだった。
そんな彼のふるまいには礼儀とも卑屈とも違った奇妙な印象があった。ユリアは私みたいな空気のような人間に感謝なんかしなくても良いのに。この家の備品のような私に気を使わなくても良いのにと思った。ユリア自身はそれをうまく言語化することができなかったが、長年奴隷であったユリアは自尊心を持つこと自体が贅沢で目立たぬよう「なにもの」でもないようにして生きてきた。しかし人格的に感謝されたら「なにものか」になってしまうという恐れではなかったか。
アントンの昼食を給仕していた時にファウスタが現れてアントンに声をかけた。
「アントンさん、うちの食事は口に合いまして?好き嫌いがあったら遠慮なく仰って下さいね。」
「いつもおいしい食事をありがとうございます。特に好き嫌いはありません。」
「この間の、ポンプの運転を拝見したのですけども、あれは素晴らしいですね。水汲みの仕事の人もあれがあれば随分と楽になるでしょう。アントンさんのお国ではあのような便利なものが他にもたくさんあるんですか?」
「ああ、ええ。色々あったように思います。」
「あのような便利な道具で生活が楽になった国の人は神の祝福を受けているのでしょうね。」
「うーん、祝福ですか。確かにそうかもしれませんね。人は幸せになるために生まれてきたのですから。」
「ああいうポンプはどこの家にも一つは欲しい立派な発明品ですね。ユリアもそう思うでしょ?」
「ああいうのがあれば助かるのにって、みんな話してたんですよ。」
「お父様の資金と影響力で作ったポンプをなぜ軍が持ち去ったのか私は納得していないんですよ。アントンさんは軍人さんと仲が良いようですけど。」
「性能試験用の試作機ということだったのでガイウス様とカッシウス様との間に事前に合意があったのですが。参ったなあ。2台目を大工のファブリカトルさんに作ってもらっているので、もちろんそれはウァレリウス様の家政用に納入しますよ。」アントンは約束させられた。
ユリアは不思議に思う。これほど如才なく有能な人物なのにすごく不自然なのだ。それでいておよそ甘ったれた事を適当にほざいているように見えて、ある真実の裏打ちがあるような印象があった。「人は幸せになるために生まれてきたのですから」というのは本来のユリアなら横っ面を張り飛ばしたくなるようなふわふわした言葉だったのだが、なぜか心の隅にひっかかった。もちろんユリアにとってアントンのお世話は仕事であるが、アントンに対する個人的な興味も少しずつ増していった。
それにしてもお嬢、いやファウスタ様は良い腕だ。ポンプを家事用に確保してしまった。あのポンプは周囲の家庭で大評判で大工のファブリカトルさんへの問い合わせが殺到しているとも聞いた。
第6話にしてようやく女性が登場です。少し重い話になったかもしれないが、これも共和政ローマの一面であります。