物語20 終章
アントンにとって人生の最終章は、穏やかでありながらも意義深いものだった。ローマに現れてから30年余、彼が築き上げた技術革新の思想は、共和制ローマ全体に広がっていた。彼の工房だけでなく、地方や都市部にも似たような工房や工業学校が設立され、若い世代が技術を学び、改良し、共有する仕組みが整えられていた。
「我々が平凡になったのは良いことだ」とアントンは満足そうに語った。かつては特別だった彼の工房が、いまや技術普及の象徴として、社会の基盤を支える存在となっていたのだ。
アルキメデスとは文通し、時々直に会って彼の科学実験と観測の装置の製作に協力した。アルキメデスは天才でありエラトステネスと協力しながら天文学と物理学を二千年加速させる勢いだった。
アントンは彼の教え子をシラクサ市国立工業学校に何人も派遣し、アルキメデスを支援すると同時にシラクサに先端工業技術のセンターを形成することに成功していた。ローマの元老院もシラクサを勢力圏内と見てアルキメデスとアントンの協働を支援するようになっていた。技術立国の思想が広がってきたのがアントンには嬉しかった。
ナポリの望遠鏡工場はガラス工場も併設し辛抱強くガラス工と研磨工を養成していったおかげで、そこそこの性能の接眼レンズを作れるようになった。倍率50倍の実用的な望遠鏡を量産し、特注品として口径30cm、鏡胴3m、倍率150倍の望遠鏡まで製作に成功した。惑星やその衛星の観測に活躍する事であろう。
地中海全域で気象観測網が整備され天気図の作成と気象予報が行われるようになった。ローマ元老院は遂に信号旗リレー技術をカルタゴに供与する裁決をしたのだ。あれだけ大規模な運用がなされている技術なのだからいずれ模倣される。それならば技術優位の内に供与し共同利用を図った方が得策だとの判断だった。軍事、経済、技術における全般的な優位がローマ元老院をしてカルタゴに寛容にさせた。
カルタゴはヒスパニアやアフリカ大陸北岸に信号旗リレーを建設し、共和政ローマの既存のシステムと合わせて、西はジブラルタルから東はスエズまで、北はマッサリアから南はコプトスまで、地中海世界は信号旗リレーシステムで接続され気象情報が共有された。各地の気象通報により天気図が作られ天気予報さえ行われるようになった。これにより地中海の航海の安全は更に高まったし、農業の生産性にも寄与する事になった。
風車ポンプは、櫓の上で多羽根式の風車を回転させ風向に追求して向きを尾翼の空気力学的な力で自動的に変える方式に進化した。動力をどのように伝えるかが問題だったが、研究の末に十分な強度を持つ鋼鉄製傘歯車の開発に成功した。芸術的鍛造品と膨大な工数のかかったヤスリでの手仕上げにこれも芸術的な焼き入れだったが何とか作り上げた。この傘歯車に練鉄製シャフトの組み合わせで動力を伝達する。更に調速器と変速機まで付けた技術の粋を尽くしたこの風車ポンプは、高価過ぎてまだ実用には適さなかったが、とにかく技術の方向性を示すことができた。
最晩年、彼が取り組んでいた開発品はボールバルブとそれを使ったピストンポンプだった。ボールバルブは摺動面などに精密な加工が必要だが、高速かつ正確な作動が可能だ。材料選定や形状の試行錯誤の末に遂に完成した。
錬鉄製のクランクシャフトで駆動されるはずみ車付きの3連ピストンポンプのバルブ装置はすべてボールバルブにし、回転軸に設けられたカムとロッドで駆動するようにした。カムの角度や形状を変えることにより作動タイミングの調整は容易であり、高速での運転も可能だと思われた。
アントンは奇妙な笑みを浮かべた。
「これは『高性能ポンプ』なんだよ。なんだ出来たじゃないか。」
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そんな中、インドからマウリア朝の文化使節が訪れるという知らせが舞い込んできた。
マイオス・ホルムスから航路を開発した冒険時代を経て、「ナイル川スエズ運河」の浚渫の完了と供用の再開により、紅海とインド洋航路は共和政ローマにとって一層盤石たるものになった。インド貿易は年々拡大し、ローマのもたらすガラス製品、金属加工品、温度計やポンプを始めとする機械類でインド人を魅了していた。ローマの経済力と技術力、安定した航路、一貫してインドと交流を続ける姿勢に感銘を受けたマウリヤ朝は遂に文化使節をローマに派遣することにしたのである。
仏僧や数学者も含んだ大規模な使節団はインド洋、紅海、プトレマイオス朝エジプト、地中海という遠大な旅路を経て遂にローマに到着したのである。その知らせにアントンは胸を躍らせた。病に伏せがちな体を起こし、人混みを避けながらローマの街へ向かった。
街は人々の熱気で溢れ、異国の衣装をまとった使節たちが注目を集めていた。仏僧や経典を伴った彼らの姿は、異文化の荘厳さと未知への可能性を感じさせた。アントンはその光景を見つめながら、こう呟いた。
「これで共和政ローマは救われた。」
彼の言葉には、ローマ的仏教が国家理念を共和政ローマにもたらすという直感があった。高度な哲学は知識階級には救いとなるかもしれない。しかし本当に救いを必要としている市井の人々を救うのは儀式と感情に訴えるまた別のものかもしれなかった。内包する様々な民族と社会階層を結び付け祝福された国家とするためには、深い哲学の裏打ちのある万人に開かれた理念が必要だったのではないか。
また内なる繁栄だけでなく、単なる欲望の充足でも自己満足でもなく、外からの刺激と交流が国家を次なる段階へと導くと確信していたのだろう。戦争だけが国家の挑戦ではない。国家は様々な矛盾と緊張の中で、自ら文化と倫理の点でも挑戦し自己変革し次の時代を用意していくのである。
工房に戻ったアントンはユリアに頼んでハーブと蜂蜜の温かい飲み物を作って貰った。食堂の片隅でユリアとそれを飲みながら、インド使節団をローマに迎えた感動を語るのだった。
「これは私の夢想かも知れないがローマの哲学とインドからもたらされた思想が影響し合って新しい理念が生まれるのではないかと思うのです。それは生きとし生けるすべての人々を受け入れ味方になってくれるそういう優しい思想です。」
「あなたは昔から全然変わらないのね。いつも夢ばかり語ってらっしゃった。」
「確かにそうかも知れない。だけど多少とも夢に近づく事ができました。これも皆さんのおかげです。こんなに良い人たちに出会い理解されて、私は幸せな人間です。」
「私もあなたに会えて良かったわ。」
アントンとユリアは互いに見つめ合った。夕方の柔らかな光が食堂に差し込み二人を包んでいた。
*****
その日から半年後、アントンは静かに眠るように息を引き取った。彼の人生は、技術者として、教育者として、共和政ローマの工業の基盤を築き未来への道を指し示すものだった。最後まで情熱的な生涯だった。そして「偉大な国家のために貢献する」という信念はついに変わらなかったのである。
アルキメデスはアントンの死後も精力的に研究を続け、彼の実り多き人生を幸福に終えた時、その葬儀にはローマ元老院から特使が派遣された。彼の謎めいた墓碑銘「もう一人の異世界人ここに眠る」はその真意を巡って後世まで激しく議論された。
ルキウス・ウァレリウスは理想主義的だが穏健で粘り強い政治家として「自作農の救済と元老院の機能強化」に努めた。
ファウスタ・ウァレリウスはアントンと同じく「イタリア本国の技術による革新」という夢を持ち、技術者の教育と知識の普及のための活動を行い続けた。
ユリア・セヴェラについてはその最後はわからない。しかし彼女は彼女だけが知るアントンの姿を心の中で大事にしながら、自分で選び取った静かで毅然とした生涯を全うしたことであろう。ローマ最初の仏教寺院であるミセルコルディア寺院のレリーフで仏像に両手を合わせて祈っている老女が彼女であるという説もあるが、ほとんど何の根拠もないのである。
[アントンと呼ばれた男の物語ここに終わる]
最後の段落が好きで、この余韻のためにこの小説を書いてきたような感じを受けています。
物語は終わりましたがテーブルトークはあと2話分続きます。
なぜ蒸気機関に執心だったか、その理由も明かされます。




