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物語19 日蝕

 「アルキメデス先生からか。どんな課題を押し付けられるかな?」

アルキメデスの最初の望遠鏡が完成して数年後、ローマのアントンの工房にアルキメデスから書簡が届いた。

「ほほう、これは野心的な。」

その内容は日蝕の観測に協力せよというものだった。


 「あの人なら日蝕の予測の計算ぐらいやりかねないが、世界同時観測とは随分とぶち上げたもんだな。」


 望遠鏡は数年でかなり普及していた。各地で製作されただけでなく、ローマ軍の要請もありアントンがナポリに望遠鏡工場を設置し量産が始まっていた。アルキメデスは光学設計者らしく、望遠鏡から太陽像をスクリーンに投影する器具を発案して太陽の黒点の変化まで観察していた。だから日蝕の望遠鏡による観察自体は問題がなかった。


 むしろアルキメデスの観測計画が破天荒なのは機械式時計を同期させて各地に運び込み、統一された時間軸で観測しようという構想だった。確かにこれなら日蝕の現象の全貌、地球と月と太陽の位置関係を直接的に把握できるだろうし、各天体間の距離を計算することすら可能であろう。実用的には地図の精度が格段に向上する事も期待できるし、国際協同で科学観測を行うという点でも画期的だった。


 そしてまた機械式時計の設計図までアルキメデスは送ってきたのである。それは錘の落下と滑車と歯車を組み合わせたもので、錘を複数連動式に使うことで長時間の作動を可能にした。錘の巻き上げと給油に人の手を煩わせるが、一日二回ならば実用的な範囲ではないか。アントンはむしろ簡潔で比較的に扱いやすい大きさにまとめてあることにアルキメデスの機械技術者としてのセンスを感じた。


「アルキメデス先生はうちに高品質軸受と歯切フライス盤があるのを知ってるからな。」

シラクサからジブラルタルとアレキサンドリアまで最速の船便で1週間、その間、気温の変化や移動の衝撃なども含めて誤差30分くらいか。緩衝装置や筐体の工夫、機械部品の精度でどこまで精度を追い込めるかな。


 アントンは教え子達を集めて早速検討を始めた。

 機械部品の精度は現状の加工技術の粋を尽くす。給油溝と給油装置の配置により動作の円滑を図る。筐体は二重構造にして、その間の空間に藁を詰める事により衝撃や温度や湿度の変化の影響を最小化する。ジンバル構造で船の動揺をキャンセルする。陸から船への荷役の衝撃がやはり心配なので、シラクサ港で船に積んだ状態で、旗の合図で同期と計時を開始する。さらに目的地のジブラルタル、カルタゴ、ローマ、アテネ、アレクサンドリアの港で、既に陸上に設置された時計に手旗信号で合図し、船で運んできた時計と同期を取る。予行演習を十分行い、操作者が自信を持って円滑に動作できるようにする。


 後に残った問題は非常に高価に付きそうな装置の製作費をいかに確保するかという事だった。最初のうちはアントンの手作りレベルだった装置が複雑精密化して最近では材料費や作業工数も大きくなっていた。よきパトロンであったウェレリウス家に頼り切るのも気が引けたので、先進精密機械工場として事業化を進めつつあった。特に望遠鏡に関しては研磨装置の改良で競争力は圧倒的だったし、歯車や軸受などの製造販売も技術力で定評があったので十分な利益を出せた。ポンプ類は重要部品だけアントンの工場で製造販売して全体の加工と組み立ては共和政ローマ各地の機械工場に任せていた。


 時計に関しては結局ルキウスとファウスタが根回ししてくれてローマ海軍と各地の工業学校がそれを買い取ると言う事になった。カルタゴの船乗りがアフリカ周遊や大西洋の航路を開拓しつつあったし、もちろんインド貿易にも天測航法の発展は期待されている所であった。大西洋の対岸やインドの更に遠くにあるという中国という文明国さえ噂されるようになっていたのである。


*****


 アントンはローマの広場で日蝕の観測会を指導していた。仮設された台上には地中海の地図を書いた大掲示板が表示されており、ローマ、シラクサ、アテネ、マッサリアの各都市には観測状況を書き入れるボックスまで用意されていた。カルタゴ、アレクサンドリア、ジブラルタルにも観測所の設置の表示があるが、これらは船便による情報の集約を待たなければならない。


 アントンがアルキメデスの観測計画に加えた最大の変更点は信号旗リレーによる観測データの共有であった。シチリア島はもっとも信号旗リレーの密度が高い地域であるが、最近シラクサにも政治的な交渉により信号旗リレーの支線が開通した。シラクサには確実にローマの影響力が増大しつつあった。またマッサリアはローマの同盟市であるがガリア戦略の要として既に北イタリアから信号旗リレー線が開通していた。


 予想される観測結果、例えば「上右から2割太陽に影ができた」等を事前に配布したマニュアルに従って符号化し各観測所間で情報共有するのである。シラクサ基準の機械計時のタイムスタンプも符号化して送る。そうする事により面として即時的に観測結果を総覧できるのだ。各地には十分に訓練した指導員を配置済みである。


 アルキメデスとアントンには明確なビジョンがあり天体の位置関係から頭の中で日蝕の現象を想像する事ができたが、実際の観測結果を即時的に可視化するのは人々の天文学への理解を大いに深めるであろう。これは自然科学のプロパガンダでもあった。


*****


 観測会に集まった人々には簡単な太陽観測器を配布してあった。木の箱の底に小さな穴を開け、その対面の開口部に布を張ってそこに太陽像を投影するというものだ。これで目を傷めず簡単に観察できる。

 この太陽観測器はルキウスを通じてローマ貴族らにも多数配布済みで、ファウスタやユリアも邸宅から日蝕を見ると言ってくれた。

 天変地異として日蝕を恐れるというのでなく、ローマ貴族は慎重なので群衆事故を恐れたのである。市中には警備の兵も増やされていた。


 ローマ通信軍団の伝令が息せき切って走ってきた。マッサリアでは日食が始まったのだ。掲示板にアントンの助手が書き込むと群衆から歓声が上がった。


 ローマも後一時間程度で日蝕を観察できるだろう。アントンはこれをチャンスとばかりに日蝕の原理や信号旗リレーシステムの威力、国際的に協力して日蝕観測を行う意義について、人々に語りかける。助手が絵入りの看板を次々に掲げていくのは、現代人が見たらパワーポイントを使ったプレゼンテーションを思い出す事だろう。


 アントンは叫ぶ。「今この瞬間もシチリアでガリアで、ギリシャで、エジプトで、カルタゴやヒスパニアでも、この天文現象を同時に観測しています。これにより私たちの文明はまた前進する事でしょう。諸民族が、文明世界の各地の人々が一つの目的のために力を合わせている。共和政ローマはそんな文明世界の調和をもたらす偉大な指導力なのであります。そろそろ太陽が欠け始めます。慌てることはありません、一時間以上観測する時間があります。皆さんに配布した太陽観測器の木の底の方を太陽に向けて下さい。布の幕に太陽像が見えるはずです。目を痛めるので直接太陽を見ないで下さい。」


 アントンは望遠鏡の観測班にも注意を向ける。「些細な特徴や周囲の光線の具合などもスケッチして下さい。」


アントンの熱意と自信に満ちた演説は、広場に集まった群衆の心を掴んで離さない。彼の言葉は、ローマが単なる軍事力や政治的統治だけでなく、科学と文化の中心としても地中海世界を導く力を持っていることを象徴している。


 アントンの指示に従い、木製の簡易観測器を手にした人々が次々と太陽を観察し始める。最初に太陽像をスクリーンに映した者たちが歓声を上げ、それを見た他の人々が真似をする。


「見えたぞ!布に小さな太陽が映っている!」

「あっ、欠け始めた!これが日蝕というものなのか!」


子どもたちが興奮して親に観測器を向けさせる一方、年配者たちは静かにその光景を眺めながら首を傾げる。


「こんなものを我々が観測できる時代になるとは。ローマは本当にすごいところだ。」


 アントンの指示を受けた望遠鏡の観測班は、日蝕のわずかな変化を正確に記録することに集中する。反射式望遠鏡の投影板に顔を寄せた観測者が、注意深くスケッチを続けている。


「少しずつ月の影が太陽に入り込んでいる。この光線の具合も興味深い。」

「アントン殿、周囲に虹のような光の輪が見えます。これが何か?」


アントンは望遠鏡班の報告を受けて頷き、周囲の群衆に向けて説明する。


「それはおそらく、太陽の周囲を取り巻く光の層コロナと呼ばれるものです。日蝕は、普段見ることのできない天体の構造を観察する貴重な機会でもあるのです。」


 太陽がゆっくりと欠け始め、スクリーンに映る小さな太陽像が徐々に形を変えていく。群衆は息を飲んでその光景を見守り、一様に驚嘆の声を上げる。


「本当に欠けていく。自然というのはこんなにも正確に動いているのか。」

「これが、アントンが言っていた天体の秩序なのか。」


 アントンは観測器を持つ子どもたちのそばに歩み寄り、柔らかい声で話しかける。


「よく見ておくんだ。これが宇宙が私たちに見せる秩序だ。君たちがこれを理解したとき、ローマもさらに強くなるだろう。」


 マッサリアだけでなくシラクサからも日蝕が始まった報告が届く。各地の観測状況は掲示板に書き込まれていき、科学的素養のない人でも大作戦が進行中でその中心に共和政ローマがある事は看取された。


 アントンは状況表示盤の上のシラクサに目を留めた。シラクサでも同様の観測会をアルキメデスが指導しているはずだ。信号旗リレー網に接続されたシラクサはローマと変わらぬ速度で各地の観測結果を収集し総合することができる。アルキメデスは子供のように純粋に喜び勇んでいるのに違いない。


 1時間ほどで皆既日蝕に状態に入り束の間の夜になり、星々が輝いて見えた。人々は天然自然の不思議さを感じ畏敬の念を深めた。しかし予測され観測の対象となっているので怖くはなかった。


 アントンは人々に語った。

「アルキメデスの計算では7分ほどで皆既日蝕の状態は終わり、また少しずつ太陽の光が戻ってくるそうです。そう、人類はこの日蝕をも予測し計算する事ができるようになったのです。この世界は広大であり不思議に満ちていますが、観察を積み重ね素直で正しい思考を進める事により自然の理を理解することができます。そして自然の理解により、人々の生活を改善することもできるのです。私は共和政ローマが文明の擁護者であり、技術で人類を先導する存在であると信じます。」


 その場の空気は感動と興奮に満ち溢れていた。観測会に参加した人々の間には、単なる天文現象を超えた特別な体験が共有されていた。退役兵士たちの一人が静かに言った。

「かつて戦場で日の出を見たときも心が震えたが、今日のような日の光の消失と復活を目の当たりにすると、全く別の感慨が湧く。ローマがこの大事業の中心にあることに、俺たちも誇りを持てるよ。」


周囲にいた商人たちも興味津々で話し合っていた。「自然観察の成果が気象予測や航海に役立つと言われているが、これは商売にも大きな影響を与えるかもしれないぞ。」


 アントンは壇上で満足そうに頷き、人々を見渡した。そして続けた。


「今日、私たちは日蝕を観察し、その進行を世界各地の同胞と共有しました。この協力の精神こそ共和政ローマの真髄です。ローマの広場に集う皆さん、そして地中海の各地で観測に携わる方々、それぞれがこの文明の灯を支えています。このような知識の共有、協力の姿勢こそ、未来の繁栄を築く礎となるのです。」


その言葉に群衆は再び歓声を上げた。共和政ローマの技術力、統制力、そして文明への貢献が可視化された瞬間に、人々は自分たちが歴史の一部であることを実感したのだった。


 やがて太陽の光が少しずつ戻り始めると、アントンは締めくくりの言葉を述べた。


「私たちは自然を恐れるのではなく、理解し未来を切り開く力に転じる事ができます。今日の観測はその一歩に過ぎません。この地中海世界の人々が互いに協力し、より良い未来を築いていけることを信じています。さあ、皆さん、太陽が再びその力強い光を取り戻す様子を見届けましょう!」


 アントンの声は力強く、聴衆の心に響き渡った。ローマの広場は歓喜と感動に包まれ、まるでその場自体が新たな時代の幕開けを象徴しているかのようだった。  



アントンはまるでアジテーターですが、共和政ローマの果たすべき役割を言い得ていると思います。調和ある文明世界の先導者にして擁護者としての共和政ローマであります。

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