物語18 ファーストライト
アントンとアルキメデスの共同作業は続く。アルキメデスの理論にアントンのエンジニアリングセンスで実用性を付与していく。アルキメデスも自分で高度な工作をするので話が早かった。
アントンは手を止め、アルキメデスに向かって言った。
「先生、天体軌道の計算方法について、早急に発表されるべきです。シラクサだけでなく、エジプトやカルタゴが持つ天文データとも照らし合わせれば、きっと興味深い結果が出るでしょう。」
アルキメデスは目を細め、顎を撫でながら考え込んだ。
「ふむ、遠くの国々の天文データか。なるほど、あんたの言う通りだな。局地的な観測だけでは限界があるが、広範な観測記録を集めれば、天体の規則性がより明確になるかもしれん。」
アントンはさらに続ける。
「加えて、先生が考えをまとめたパンフレットをシラクサの総督に献呈するのも一つの方策です。総督自身は内容の理解は難しいかもしれませんが、アルキメデスという名前をブランド化するには効果的でしょう。」
「ブランド化?」アルキメデスは眉をひそめる。
「言い換えれば、先生の名声を高めることです。政治家というものは、偉大な学者や発明者を支援していると見せることで、自分の価値を高めたいと考えるものですから。」
アルキメデスはしばらく唸った後、にやりと笑った。
「なるほど、総督に献呈すれば、俺の研究が保護される可能性も高くなるということか。まあ、俺は名声には興味がないが、研究を続けるための支援は悪くない。」
「そういうことです。先生の理論が広がれば、遠方からも知識人や支援者が集まってきます。結果として、より多くの観測データや知恵が手に入るでしょう。」
アルキメデスは机に向かい直し、書きかけの羊皮紙を引き寄せた。
「わかった。お前さんがそこまで言うのなら、書き上げてみるか。理論が真実であることを、世の中に知らしめるためにな。」
アントンは微笑みながら頷いた。
「先生の理論が世界に広まれば、それは次の時代を切り拓く光になりますよ。」
天体軌道の計算が広まり、地中海全域からの天文データが集まれば、やがてアルキメデスの理論は未来の物理学にまで影響を与えるかもしれない。アントンはそう確信しながら、天文学の歴史が大きく動き出す瞬間を心待ちにしていた。
*****
1年後アントンは再びアルキメデスを訪問した。反射鏡とレンズの加工装置と雲台などの各種部品の製造に結局1年ほどかかってしまった。反射鏡は直径10cmほどで決して大きくはなかったのだが砥粒に良いものがなく研磨に意外と時間がかかった。アントンとアルキメデスの反射望遠鏡は、直径10cmの反射鏡を用いたものであり、焦点距離は約1m程度に設定されていた。これは倍率を適度に高めつつ、当時の光学技術で実現可能な範囲に色収差を収めるためだった。もし鏡の精度が理想的であれば、現代の基準で30〜50倍程度の倍率を得ることが可能だっただろう。
アントンは三脚を丁寧に組み立て、経緯儀で微調整を行った後、慎重に望遠鏡を取り付けた。アルキメデスも興味津々でその作業を手伝い、最後の微調整を終えた時には、夜空には無数の星が煌めいていた。
「最初は何を見ますか?」
とアントンが尋ねると、アルキメデスは即座に答えた。
「惑星を見るべきだろう。だが、その前に月を確認してみよう。細部が見えるかもしれん。」
アントンは望遠鏡を月に向け、ゆっくりと焦点を合わせた。そしてアルキメデスに言った。
「覗いてみてください。」
アルキメデスが覗き込むと、彼の顔には驚きと感動が混じった表情が浮かんだ。
「これは、素晴らしい! 月面がただの滑らかな球ではなく、山や谷があるのがわかるぞ。」
アントンも月を覗き込みながら言った。
「反射鏡が小さいので解像度には限界がありますが、それでも月面が怖いくらいに鮮明ですね。」
次にアルキメデスの提案で木星を観察することになった。木星の位置を大まかに計算し、望遠鏡を向けると、木星の明るい光とともに、その周囲に並ぶ小さな光点が見えた。
「これは惑星の周囲を回る月ではないか?」アルキメデスは驚きの声を上げた。
「地球に月があるようにほかの惑星にも月がある方がむしろ自然では?これが他の天体も地球と同じ法則に従っている証拠となります。」アントンが答えると、アルキメデスは深く頷いた。
二人は夜空を見上げ、遠く離れた世界を覗き込むたびに議論を重ねた。望遠鏡は単なる装置ではなく、宇宙への扉だった。彼らがその夜に目撃したのは、単なる天体ではなく、科学と技術の結晶が開く新しい視点だったのである。
アントンとアルキメデスの連名による書簡は、ギリシャ、エジプト、カルタゴなど、古代世界の主要な学問センターに届けられた。その内容は、望遠鏡の設計と製造過程の詳細、月のクレーターや木星とその衛星の観測結果を記録したスケッチとともに、宇宙の構造に対する新しい理解の可能性を提示していた。
さらに、手紙には次のような申し出が記されていた。
一、自身で望遠鏡を製作する意欲がある者に対して、技術的な援助を惜しまないこと。
二、新たに観測データを共有し科学的議論を促進する場を作る意図があること。
三、より大型の望遠鏡の設計を終えて製造計画を進めていること。
アントンは、旧友で元老院議員のルキウスに10cm望遠鏡2号機を進呈することを計画していた。ルキウスは当初からアントンの技術的才能を高く評価しており、この望遠鏡の軍事的、戦術的価値に注目する可能性が高いと考えられた。特に海軍での偵察や、信号旗リレーを用いた通信の精度向上に応用できるだろう。
実はアルキメデスとアントンの間で望遠鏡の秘密を秘匿し共和政ローマだけに提供するか議論もあった。しかしアルキメデスは断固として公開することを主張した。
「皆で観測して結果をたがいに検証することで、観測結果の信頼性が高まり進歩が速まるのだ。秘匿したとしても秘密はどうしても漏れていくものだ。」
「しかし軍事的な価値は高いのではないでしょうか。ここはローマ元老院と相談してみては。」
「そんな事をしては秘匿しろと言われるに決まっている。それに軍事的な価値は限定されておる。陸上では見通し線が丘や森で遮られるし、海上でも水平線の見通し距離はマストから見たとしても10㎞。目視でも見張り能力はさほど変わらん。」
「しかし、信号旗リレーでは信号所の密度を下げて経済的に運用することができます。」
「逆に言えば、その程度だろう。よほど標高の高い観測所を設けないと望遠鏡の効果は限定的だ。それこそ星の世界、わしらのはるか上空から観測しようというなら話は別だが。」
結局アルキメデスに押し切られてしまったのである。アントンは今度ばかりはローマ元老院の技術への感度が鈍いことを祈った。しかし2号機は理解者である元老院議員のルキウスに献呈した。
アルキメデスはアレクサンドリアのエラトステネスに2号機を送れとうるさかったのだが、3号機を贈るという事で納得させた。アルキメデスに言わせるとエラトステネスはほぼ自分と同じくらい「わかっている」奴だと言うのだ。
望遠鏡を活用することで信号旗システムをより効率化できるという見通しは、実務家にとっても魅力的な提案のはずだった。例えば5㎞ごとに設置されている信号所を10kmごとに変更できれば、単純に配置人員を削減できるだけでなく、到達時間を短縮できる可能性がある。
それになんと言っても天体観測は自然科学思想の普及に果たす役割は大きい。星の世界の理を人間の精神で解明する事は人間の世界認識そのものの変革である。地球が球体であり具体的な数字まで推定できるという知識は航海者を大いに勇気づける事だろう。遠い天体の運動をも予測できる事は地上の様々な自然現象を統一的な原理で把握できるという希望となるだろう。バロメーターによる広域気象観測と天気予報への強力な支援材料になるかも知れない。アントンは心を躍らせた。
「面白くなってきたな」
アントンとアルキメデスは、これから訪れる忙しい日々を思った。彼らの手による科学と技術の進歩が、シラクサから古代世界全体に波及しようとしていた。
*****
この頃、ガイウス・ウァレリウスが亡くなった。眠るような最期だったという。アントンの最初期の支持者であり、元老院議員として技術革新によるイタリア本土の再生を唱えた。
晩年は別荘で悠々自適の生活だったが、「私は間違っていなかった」と良く語っていたという。
その死は信号旗リレーで共和政ローマの隅々まで報知され、その日、全信号所は喪章の黒い旗を掲げた。
ガイウス氏も信号旗リレー全システムを使って彼を追悼した事を知れば、さぞ満足した事でしょう。