物語16アルキメデス
シチリアのシラクサを訪れるのはアントンの夢であり恐れであった。そこには本当の天才がいる。自分のような紛いものではなく。協力すれば素晴らしい成果を上げれるだろうし、天才といくつか検討してみたい課題もあった。だが天才性に完全に打ちのめされるような結果になりはねなかった。
散々迷った後でアントンはシラクサへ旅立った。あのアルキメデスのいるところへ。
まだポエニ戦争の戦災の跡があったが文化都市シラクサはさすがの威容であった。シラクサはローマからもカルタゴからも独立した中立都市ということになっている。ローマとカルタゴの接点でもあり、その文化力から再び多くの学生を集めるようになってきていた。
アルキメデスの家は市街の外れの方、ずっと坂道を登っていかなければならなかった。
「アルキメデス殿、総督紹介のアントンと申します。ご教授頂きたく参りました。」
アントンは教えられていた家の門前で声をかけた。
だらしなく服を着崩した眼光鋭い痩せた男が現れた。彼がアルキメデスと見える。目を細めてアントンを見聞していたが言った。
「あなたがアントンか。話は聞いている。中へお入りなさい。」
散らかった部屋だったが水くらいは出してくれた。
アントンは自己紹介する。自分はローマの機械研究家であるがアルキメデスの仕事は常に素晴らしいものだと思っていた。アルキメデスの原理はエレガントである。梃子の原理も素晴らしいしネジを実用に用いたアルキメデススクリューも立派な発明品である。そういう素晴らしい業績を聞き自分はアルキメデスを尊敬していた。
アルキメデスは言う。
「わしもあなたの仕事の話は聞いている。いつも不思議に思っていたのは完成形があるのに到達できないもどかしさを感じていたからだ。まるで違う世界の高度な完成品の姿をはっきり見ているような。」
アントンは息を飲んだ。
アルキメデスは笑いながら言った。
「あなたこの世界の人間じゃないんだろう?」
アントンはおずおずと答える。
「そうなのかも知れません。違う世界、あるいは遠い未来から来たのかも知れません。私がローマの街角に現れた時には既に私の記憶は欠損していました。自分の名前も覚えていないくらいに。どこかで研究らしきものをしていたのは時どき夢に見ます。だがそれがどこなのかよくわかりません。一方で様々な装置や機械の記憶ははっきりあり、それを有効に活用しなければという強い意欲がありました。」
「なるほど。」アルキメデスは顎を撫でる。
「一応は筋が通っているな。ただし無邪気すぎる。俺が言えた義理はないが。」
数学者なのに戦争の道具を作っていた自分への自嘲だったのだろうか。
「そうそう、あなたに見せたいものがあるんだ。」
アルキメデスは奥の部屋へとアントンを案内した。
そこにはアントンの設計の旋盤とボール盤、そして太陽系の機械式模型があった。
「あなたの工作機械は重宝しておるよ。工作に必要な時間が三分の一になった。」
アントンは太陽系模型を観察した。太陽を中心に水星から土星まで6つの惑星が真鍮の棒で支えられた球の形で再現され地球には月まであった。台座には8つの回転ノブが付いていた。
アルキメデスはウインクすると一番大きなノブを回した。すると驚いた事に全惑星と月が同時に動き出した。歯車で公転周期を同期してあるのだ。この太陽模型は単なる研究用ではなく一種の天体計算機として機能するのではないか。
「驚異的な技術ですね。ギリシャの精密加工技術の精華がシラクサにあったようですね。」
アントンはうめいた、
アルキメデスは満足げに頷き、彼が苦心して改良したところと課題について話した。アントンとの技術的検討が始まった。
そして話題はアントンの装置に移る。
「バロメーターはあれは大気の重さを可視化した装置だね。しかしあなたは大気の重さの意味を理解しているかね?」
「一応は理解したつもりになっていますが。」
「大気の重さという概念は大気の存在する高さには限界がある。その上は真空だと言うことだ。」
「そのとおりだと思いますよ。」
「その論理的帰結は重力は高さとともに減少するという事になるのだよ。」
ここでアントンはアルキメデスが何を言おうとしているのかわかって驚愕した。あの太陽系模型しかり、この男は万有引力の法則を理解している。
「素晴らしい洞察力です。これを早く発表なさるべきです。」
「そうかね、はははは、とことん考えるとこの結論にしかならんのだよ。」
アルキメデスは喜色満面であった。
「これを公開実験で証明することはできないでしょうか?」
「地上でかね?そこまで我々は精密な観測能力を持っていないと思うが。」
「重力の法則とそれ伴って導かれる運動の法則が予測する結果と実験が一致すれば良いのでは?例えば球を投げた時の軌道なら?」
アントンの言葉に、アルキメデスの目が鋭く輝いた。天才はひとたび興味を抱けば、その先を瞬時に見通す力を持っている。
「なるほどな。球の軌道か。」
アルキメデスは腕を組み、何かを思索し始めた。しばらくの沈黙の後、口を開く。
「球を投げる。運動の法則、つまり軌道が正確に予測できれば、それは重力の法則をも示唆する結果となるわけだ。観測が精密でなくとも、理論と一致すればそれでよい。」
アントンは頷く。
「その通りです。この時代において、測定誤差は避けられません。しかし理論に基づく予測と実際の結果の一致が見られれば、説得力のある実証になるでしょう。」
アルキメデスは再び笑った。
「おもしろい!そうだな。重力が運動にどう影響するか、理論的には二次元の曲線を描くはずだ。つまり放物線だ。」
「放物線!」
アントンは内心、アルキメデスが放物運動にすでに思い至ったことに驚愕する。彼は未来人としてそれを知識として持っているが、アルキメデスは純粋な思考の力だけでその理論に至ろうとしているのだ。
「ならば、試してみよう。」
アルキメデスは立ち上がり、何かを指示するように部屋を出ていった。アントンも慌てて後に続く。
アルキメデスの庭の一角に、簡単な装置が設置された。木製のレールと角度を調整する支柱だ。その上に、滑らかに加工された石の球が置かれている。
「この傾斜台を使い、球を異なる角度から発射してみる。」アルキメデスが説明する。「初速を一定にして、どのような軌道を描くかを観察する。」
アントンは興奮を抑えながら頷いた。「その軌道を予測し、数値を導出しておけば、結果と照らし合わせることができますね。」
「よし、理論の確認だ。あなたが先に計算して下さい。」アルキメデスはアントンを見つめる。その目は純粋な挑戦の色を帯びている。
アントンは深呼吸をし、紙と筆を手に取る。
「放物運動の法則」を知るアントンの知識と、アルキメデスの天才的な数学的洞察が初めて具体的な形で交わろうとしている。古代と未来が、ここに交錯するのだ。
アントンは計算しながら思った。これは微積分の知識を使っているのではなかったか。そしてアントンの計算とアルキメデスの計算はピタリと一致したのである。アルキメデスの計算は微小三角形で放物線を図式解法するもので、ある意味で微積分の理解に肉薄していた。
アントンは筆を止め、紙の上に並んだ数式をじっと見つめた。自分が導き出した結果と、アルキメデスが別の手法で導いた答えが、寸分の狂いもなく一致している。
「まさか、ここまでとは」アントンは呟いた。
アルキメデスは涼しい顔で微笑む。「驚いたかね?あなたが使った計算法は確かに独特だが、わしも似たような手法を試していたのだ。」
「これが微分と積分の概念に通じるものだと、あなたは気づいているのですか?」
アルキメデスは顎を撫でながら答える。
「"微積分"という言葉は知らんが、無限に小さな三角形を考えることで、曲線の面積や軌道を解明することは可能だ。あなたが持つ方法はその理屈を簡潔に表しているようだな。」
アントンの脳裏に、現代数学の風景が鮮明に浮かぶ。微積分の体系が生まれるのは、ニュートンやライプニッツの時代、遥か未来の話だ。しかし、ここにいるアルキメデスは、それを独自に手繰り寄せようとしている。
「天才とは、時代を超越するものだ。」
アントンはようやく息を吐き出した。
アルキメデスは真剣な表情でアントンを見つめる。
「わしはまだまだ真理に到達しておらん。いや真理に到達したとしても更にその先に何かがあることが見えてくるものだ。だが理論を補うために何が必要かは感じている。」
アントンは複雑な気持ちに襲われた。このままでは、自分が未来から持ち込んだ知識がアルキメデスの手によって「過去」に芽吹いてしまう。
「私の未来の知識を期待してらっしゃるのですか?」
「いや知識ではない。理論があっても、それを証明する術が必要だ。わしの時代には観測技術や道具が未熟だ。あなたの技術、あの旋盤やボール盤、あれがあれば、より精密な機械や実験器具を作れる。わしは技術者としてのあなたの能力に期待しているのだよ。」
そしてアルキメデスはにやりと笑ったのである。
「真理は自分で発見する方が楽しいじゃないか。」
アルキメデスの言葉にアントンは感動した。この天才の探求心はアントン自身の心に火をつけたのである。
「わかりました。私の技術が役立つのであれば、あなたに協力します。」
アルキメデスはとんでもない危険人物で、小説に登場させた途端に小説を乗っ取って筆者を奇想天外な方向に引き摺り始めました。




