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物語13 紅海

 アントンは共和政ローマ大使館の要請でプトレマイオス朝エジプトの技術官僚との交流会に参加することになった。共和政ローマとプトレマイオス朝の利害は一致していてますます友好関係を深めつつあった。アントンの技術支援で両国の関係をさらに進展させようという意図である。

 エジプト側の中心人物はクセノフォンという瘦身小柄の40代の男で、混血なのかギリシャ風でもありエジプト風でもあった。プトレマイオス2世の信任も厚いと言われる実務的な人物であった。


「アントン殿、貴殿の活躍ぶりを聞いてお会いするのを楽しみにしていました。」


「クセノフォン殿、大した事をやっているわけでもありません。エジプトは素晴らしい国ですね。その歴史と文化を大事にするお国柄に大変感激しました。」


「そう言っていただけると私もうれしいですね。歴史と文化を大事にしていられるのも国力あってこそで農業は国の礎です。私が興味を持っているのはアントン殿の技術の治水への応用です。」

クセノフォンは早速、アントンのポンプの可能な性能域を聞き出してノートを取り始めた。


「現在は手動のポンプが主に使われていますが、水車や家畜による駆動でより大型化も可能かと思われます。例えば、こういう設計ですね。」

アントンは蝋板に構想図を描き始めた。


「ピストンポンプは並列でも直列でも複数のポンプを複合して高性能を実現することが可能なのですが、その動力軸として剛性の高いシャフトを用意しまして各ピストンポンプを動かします。その動力軸はこのように水車に接続するかトレッドミルで家畜により駆動するように設計できます。」


「なるほど。河川からの取水だと水車が使えるし、内陸の地下水のくみ上げだと家畜駆動が便利かも知れませんね。これは実用例はあるんですか?」


「イタリア国内でいくつかあります。」


アントンとクセノフォンは実際の制作をどのようにするかまで突っ込んで話した。


「修理補修もありますし1台2台では終わらないでしょうから、エジプト国内に工場を作るのが良いでしょうね。人材を派遣していただければローマの私の工房で制作設計について教育することはできますし、私の教え子でも誰か適当な人物を斡旋できるかもしれません。」


クセノフォンはうなった。

「随分と気前の良い話に聞こえますが、本当にそれで良いのですか?」


「ローマ=エジプト関係の発展に寄与するならば元老院も喜ぶでしょうし、技術で文明世界が発展するなら大変結構な事ではありませんか。」

アントンは利害に関しては無邪気である。


「ポンプの件も重要ですが東方の新航路開拓に関して要望がひとつございまして、天文航法に用いるという観点からエジプトで蓄積された天文記録の整理をしていただきたいのです。」

アントンは天文航法の重要性と星表整備の意義を話した。


クセノフォンの理解も早かった。

「なるほど。対インド貿易の拡大はエジプトの重点政策でもありますから、そういう協力はできると思います。少し調整させてください。そんなに新航路開発に関して熱心なら一度紅海の基地をご覧になってはいかがでしょう?コプトス=マイオス・ホルムス道路も整備されましたから、コプトスまでナイル川を遡上して20日、コプトスから陸路でマイオス・ホルムスまで10日、合わせて1か月ほどの旅程になりますが。」


「ぜひ見学させてください。お願いします。」

2か月半ほど旅行が伸びるがアントンは好奇心に負けてしまった。


挿絵(By みてみん)


*****


 ナイル川をコプトスまで遡るのは実に楽しい体験だった。上エジプトの諸都市の豊かさを実感できたし、メンフィスやテーベなど諸王朝の残した遺跡にも感嘆した。

 古王朝の遺構や立像を見ると、畏敬をもたらすような空間の創造という点ではローマにも通じるところがあるが、安定性と普遍性に関してはやはりエジプトの歴史を感じずにはいられなかった。数千年営みが続くことを当然としている文明の顔というべきか。

 上エジプトの諸都市はそれぞれに産業も発達していて市場の商品も豊富に見えた。ナイル川沿岸と言うのはオアシスが連続しているようなものではないか。初期の王朝としてはむしろナイルデルタよりも管理しやすく防衛に有利で、交易においても絶好の位置にあるのが上エジプトではなかったか。そんな事を思った。


 コプトスは上エジプトの交易の優位を象徴するような街でナイル川と紅海方面の道路の結節点である。栄えている大きな商業都市だったが、そこにはローマ海軍のドックがあってガレー船が分解梱包されているのが目を引いた。共和政ローマ本国からここまで航海してきた船を分解して、ここから陸路で紅海沿岸のマイオス・ホルムスまでラクダの背に乗せてキャラバンで運ぶのである。いかにもローマ人らしい組織性と粘り強さだったし、このような莫大な投資をしても余りあるほど紅海貿易、インド航路は魅力的だとも言えた。


 コプトスからキャラバンに同行させてもらい、ロバの背に乗ってマイオス・ホルムスへと向かった。乾燥地帯だがオアシスのネットワークが良く整備されている印象を受けた。10日ほどかかって紅海が見えた。アントンは青い海を見てびっくりした。恥ずかしながら紅海は赤い色をした海だと思い込んでいたのである。

 


*****


 マイオス・ホルムスの港は天然の入り江の良港だった。港内にはガレー船が10隻余りあり、ドックでは1隻のガレー船が組み立て中だった。そこで懐かしい人に会えた。マキシムスだった。


「アントン先生、お待ちしてました。ここもなかなか立派なものでしょう?35日で一隻組み立てるんですよ。」


「素晴らしいね。ローマ人の仕事の速さには本当に感服だ。」

アントンは素直に感心した。ローマ人のスピード感、一度やろうと思ったことはやり通すのだ。


「アントン先生の構想を参考にした探検帆船が今、次の航海の準備をしていますよ。」

マキシムスが呼び指した桟橋には全長30メートル程の黒い船体の帆船が係留してあった。二本マストでガレー船よりも乾舷が高く洗練された船体形状をしていた。名前は「ディアナ」号と言う。 


 探検帆船「ディアナ」号の乗組員を紹介された。船長は判断の早いローマ人ルフス・アエリウス、掌帆長は熟達のカルタゴ人のハミルカル、航海長は天文に造詣の深いギリシャ人ニコストラトスである。外交・通商担当のエジプト人ニコメデスは数か国語に通じアラブ商人との交渉にも熟達しているとの事だった。船匠はカルタゴ人、船医はギリシャ人、料理人はエジプト人、水夫はローマ人2人に、カルタゴ人、ギリシャ人、エジプト人ひとりずつ。見事な多国籍部隊だった。


「アントン殿、評判はかねがね聞いております。この船はアントン殿の助言を参考にしたと聞いていますが特に航洋性と帆走の性能は良いですよ。」ルフス・アエリウスは船を案内した。

「船の艤装の案内は、掌帆長のハミルカルがします。」


ハミルカルは快活に話した。

「この船は船体全体に甲板を張り水密区画を設けて堅牢な構造となっています。ピストンポンプは排水にも使えますし、これらの点でローマ海軍としてはかつてないほど沈みにくい船になっております。方位磁針やバロメーターも装備していますしね。」


「懐かしいですね。いまだにこの型が使われているのですね。」アントンはバロメータを見て目を細めた。


「やはりバロメーターがあると安心感が違いますね。天気に不意打ちされる前に一呼吸か二呼吸あるような感じです。この船はマストが高いですが船底にバラストを積み込み縦に深い船型なので安定もすぐれています。それから帆走を主とした船でこれもローマ海軍には珍しい特徴です。」


「帆はラテン帆ですか。」


「はい。メインとフォア共にラテン帆です。機動力が高く操帆に手がかかりません。しかしトップスルには横帆を張れるようにしています。」


「遠洋の高速移動用ですね。高いところの操帆は大変じゃないですか。」


「そこは滑車装置を工夫して最小限の手間で展開できるようになっています。船体側に策具の固定装置を多く設けてあるのも非常に扱いやすい点です。」


「オールは全廃したのですか?」


「いいえ。オールも用意してあります。この規模の船だと無風や入港の時など直接漕艇する方が便利です。ただし船体に開口部は設けない様に、やや高い位置ですが甲板から漕ぐようになっています。航法機器に関しては航海長のニコストラトスが説明します。」


ニコストラトスは少し堅苦しい話し方をする男だった。

「方位磁針とアストロラーベと水時計を航法装置として本船は装備しております。天文航法の準備も怠りなく十分な自信を持っております。」


「やはり太陽と北極星が基準ですか?」


「はい、太陽は南中の時間だけでなく日の出日の入りの時間も参考にしていますし高度も計測します。」


「天文航法で改善を望む点はありますか?」


「水平線に近い明るい星が観測しやすいので、できればそれらの星の位置の経時変化の表が欲しいですね。その標準からの逸脱で本船の位置を計算できますから。」


「なるほど。星表の編纂者にはそのように伝えましょう。」


「こちらは外交・通商担当のニコメデスです。」ルフス・アエリウスは紹介した。


ニコメデスは外交官らしい世慣れた感じの男だった。

「初めまして。友達をつくるのが私の仕事です。」


「シリアやパルティアやアラブ商人の妨害はあるんですか。」


「まだそこまで活発ではないようです。まだ私らの活動が良く知られていないだけかもしれませんが。海賊は一定数いるようですが、この船は機動性が良いので回避できます。アラブ人といってもそれぞれ利害があるのでそれを見極める事が大事です。アラビア半島北部でも補給に使える港があります。」


 ルフス・アエリウスは他の乗組員も紹介してくれたが実に頼もしい海の男たちだった。後でマキシムスに聞いたのだが、ローマ海軍はこのような標準化されていない船を好まず、基本的に単独航行する不正規隊として実力本位の自由な乗組員の編成をルフス・アエリウスに許したのだと言う。正しく地中海世界の精鋭たちでありインドへ雄飛するにふさわしいではないか。


「次の航海はいよいよインドのグジャラートを目指します。」ルフス・アエリウスは力強く言った。

「きっと成功するよ。この航海は共和政ローマだけでなく地中海世界全体の福音となるだろう。」

アントンは心の底からそう祈った。

ここも書いていて楽しいところでした。マイオス・ホルムスまでの旅がエキゾチックでしたし、ガレー船を分解してラクダの背に乗せたキャラバンで運ぶとか、高性能帆船を操る地中海世界のドリームチームとか。アントンをラクダではなくロバに乗せたのは、ラクダは高いところに座るので怖く乗り心地が悪いからです。

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