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物語10 揺り籠

 この頃、ルキウスは結婚した。お相手は同じローマ貴族の名門リウィウス家の令嬢リウィア・セレナである。ルキウスは新婦が気を遣わず楽に過ごせるようにと、リウィウス家の屋敷で暮らすことにした。ルキウスは元老院議員として政治的課題に取り組むうえで強力な同盟相手を必要としていた。リウィウス家は大土地所有で知られていたが、生産性の高い効率的な経営への志向でも知られており、ウァレリウス家の「技術革新によるイタリア本土の生産力の向上」政策を好意的に受け止めていたのである。


 ウァレリウス家から美しく飾られた馬車に乗って新郎新婦が新居に出立していくのを見送ってから、ガイウスはファウスタに言った。

「この屋敷はお前の取り分として残すことでルキウスとは合意してある。お前の好きなように屋敷を活用することで私はまったく異存がない。」


「それでしたら前にもお話ししたようにアントンの工房を拡張したいと思います。技術教育の拠点として整備することにより技術革新に貢献できます。それはローマの未来に投資する事であり、新技術のウァレリウス家として家名を高めることにもなります。」


「やりたいようにやるが良いよ。」

ガイウスは微笑んだ。この娘もローマ貴族の娘として共和政ローマと家門の繫栄を十分考えている。


 アントンの作業場は拡張され、講堂と応接間も用意された。学生用の寄宿舎まで整備された。

 ファウスタはアントンの講義に出席しながらノートを取っていた。蝋板から羊皮紙に清書し、蓄積していった。そして彼女はアントンの許可を受けると「機械加工の基礎」というパンフレットを発行したのだった。これは書写で共和政ローマ各地に広がっていった。


*****


 この時期に特筆すべき開発品としては温度計と風力計がまずあげられる。

 バロメーターの普及により気象への関心が高まり、共和政ローマ各地、特に軍団と海軍の艦隊で天気の記録が行われることになったのだが、バロメーターによる気圧や目で明瞭な天気と雲量の記述は良いが、風の強さと温度については体感に頼っていて、かなり大雑把だったのである。気象観察記録が蓄積し、各地の気象状況を突き合わせて興味深い結果が得られ始めると、もっと精密で比較しやすい記録にできないかという当然の要求が出てきたのである。


 ガラス管への液体封入方式はガラス管がいまひとつ精度も透明度も満足しないため放棄された。次に試したのはバイメタル方式であった。膨張率の異なる二つの金属をリベット留にして温度変化によって生じる反りにより温度を計測しようというものである。

 大きさをそろえた各種金属を沸騰する湯の中に放り込んで寸法を測定し、それぞれの膨張率を検討した。鉄と亜鉛が入手性と膨張率の違いから選ばれた。鉄の板には突起を設け軽い木で作った指針に差し込むようにした。指針でバイメタルの変形を拡大しようというのである。

 バイメタルのもう一方の端に木の取っ手と目盛り版を固定し、井戸水の温度を15度、沸騰した水の温度を100度として校正し、目盛り版に5度ごとに等分に目盛りを刻んだ。それぞれの上下にも単純に線形に外延して目盛りを刻んだ。本来は校正に氷点を使いたかったのだがローマは温暖すぎた。井戸水の温度は適当だが、比較的安定していて標準温度に近いであろう。やがて温度計産業が勃興した時にはアルプスを登って永久氷河で校正することになるだろう。


 風力計も単純な構造のものを作った。木で作った羽根を木の軸に固定し、2か所の真鍮の滑り軸受で回転軸を支持する。回転軸には左右対称に金具とピンでアームを取り付ける。アームは角度を変えれるようになっていてアームの先の錘がどれだけ上がるかで回転速度を見ることができる。重力と回転による遠心力のバランスである。回転軸に塗料で色分けして目盛りとした。この目盛りと錘の重さについては試行錯誤で決めたデファクトスタンダードであり、のちに何度か改定された。風速計は木の枠で支えるのを標準品としたが回転軸を支持する軸受け部にハンドルと石突をつけて手で支えて計測できるようなタイプも作った。


 バロメーター、方位磁針と合わせて温度、風力、風向、気圧の科学的な数値観測の体制が紀元前3世紀にして整ったことになる。取り分け温度計は好評で、農業や醸造、料理、工業等に極めて有用だとの評価を得た。山間地の氷雪による氷点を使った校正は数年のうちに事業化されたくらいである。


 アントンは「気象観測の手引き」というパンフレットを書いたし、ファウスタは「温度計の仕組みと使い方」というパンフレットを書いた。それぞれ大量に書写され普及した。


*****


 アントンの工房の拡張があって一年もたたないある日、工房に歓声が響いた。ついに、真鍮のネジが初めてネジ切り盤で製造されたのだ。アントンと助手たちは、その小さな成果に目を輝かせた。


「ついに、できたぞ!」

アントンは満面の笑みを浮かべ、まだ温かみの残る真鍮のネジを手に取った。その小さな部品が、さらなる技術革新の扉を開く鍵となることを彼は確信していた。


「今日はお祝いだ!助手のみんな、ちょっと待ってろ。」

アントンは工房の奥からワインの瓶を取り出し、大きな木製のカップに注ぎ始めた。


助手たちが驚きながら問いかけた。「先生、それ水で割らないんですか?」


「割る? そんなの時間の無駄だ!」

アントンは豪快にワインを飲み干した。その様子に、助手たちは目を丸くした。


「先生、すごい、酒豪ですね。」


アントンは笑いながら答えた。「まぁな。こんなに嬉しいことがあったら、これくらいは許されるだろう?」


 祝杯は続いた。助手たちも少しずつ杯を傾け、工房は穏やかで和やかな雰囲気に包まれていた。


しかし、さすがに飲み過ぎたアントンは、ほろ酔いどころか完全に酔っ払ってしまった。


「このネジ、いや、この子たちは、これからローマの宝になるんだ」アントンは夢うつつの状態でつぶやく。

「ふふ、ネジの未来を、祝して」

そう言いながらアントンは椅子にもたれかかり、そのまま居眠りを始めた。


翌朝、アントンは頭を抱えながら目を覚ました。

「うう、少し飲み過ぎたか、助手たちはどうしてる?」


「先生、昨日は楽しそうでしたね。でも僕たち、ちゃんと後片付けしましたよ。」

助手たちは笑顔で答えた。その姿を見て、アントンは安心すると同時に、彼らの成長を感じていた。


「ありがとうな、みんな。さぁ、今日は次の工程に取り掛かるぞ!」


 そうしてアントンと助手たちは、新たな挑戦に向けて再び動き出した。ワインの酔いも覚め、工房には再び活気が満ちていた。


*****


 アントンの工房は、単なる技術の現場ではなく、人材を育てる教育機関としての役割も果たしていた。彼の下で働く助手たちは、厳しい鍛錬と実践を通じて技術を学び、4、5年もすると独り立ちしていった。アントンは助手たちを送り出すとき、必ずこう言った。


「ここで学んだのは技術の基礎に過ぎない。世界は広い。常に新しいものを追い求め、自分だけの工夫を加え続けなさい。」


 この教育方針は、政府にも注目されていた。イタリア各地やアテネでは、新しい工業学校を設立する計画が進んでおり、そこで教える優秀な技術者が求められていた。アントンの教え子たちはその候補として名が挙がることが多く、彼自身にも教師としての役割を求める声が高まっていた。


 しかしアントンは、工房を離れて教壇に立つことをためらっていた。「私には教える以上に、技術を作り続ける役割がある」と考えていたからだ。それでも彼は、教え子たちに対しては惜しみなく知識を与え、挑戦を奨励した。


「技術は停滞すれば時代遅れになる。挑戦を恐れるな。新しい道具、新しい考え方を試し続ければ、いずれ君たちの手で未来を切り開くことができる。」


 彼の言葉は、多くの若者たちの心に火を灯した。工房を巣立った技術者たちは、それぞれの地方で新たな工房を立ち上げたり、工業学校の教師となったりして、ローマの技術力を底上げしていった。


*****


 アントンは時間を見つけて教え子の技術者たちに手紙を書いた。彼の工房でどのような研究が進んでいるか、実現までには時間がかかるだろうが目標とすべき方向性、後輩たちの近況やローマのゴシップまで。


 教え子たちも返信をくれたが、送料もさることながら紙代が高価なのでなかなか苦労しているようだった。アントンは着払いで構わないと彼らに伝えた。そして彼も手紙を書くのが大変になってきたので同窓会誌を年2回発行することにした。


 アントンとファウスタが編集して清書し、印刷技術は未発達だったので筆記工を頼んで羊皮紙の両面にびっしり、関係者の消息、研究成果の概要など掲載した。教え子たちはユリアのことを寮母さんと呼んでいたのだが「寮母さんの近況とレシピ」の欄が一番人気があると後で聞いてアントンは微笑んだ。ちなみにレシピはハーブと蜂蜜の飲み物とか干しブドウを使ったケーキとかそういったものであった。


 アントンの工房は単なる技術開発の場ではなく、ローマの未来を形作る技術者たちの揺り籠となっていた。そして、彼の教えは一人一人の弟子を通じて広がり、いつの日か新しい文明の基盤となるだろうと、アントン自身も密かに信じていた。



学会誌、同窓会誌はありがたいものであります。

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