物語9 海の向こう
戦争が終わり、町には平和が戻った。ポエニ戦争の英雄たちが凱旋し、勝利の余韻がローマ全体に漂う中で、アントンの工房にも新たな変化が訪れていた。
ポンプは軍隊での活用を経て、退役した兵士たちの間でも広がり始めた。排水や灌漑に役立つ技術を持ち帰った彼らは、自分たちの土地や村で簡易版のポンプを製作し始めたのだ。アントンが最初に考案した設計は非常にシンプルで、誰にでも真似できるものであったことが、普及を後押ししていた。
「戦争が終わって、ずいぶんと寛大になったな。」
アントンは、工房を訪れるルキウスと笑いながら話していた。
「まぁな。お前の技術は確かに軍事的に重要だったが、今はもっと広い用途があると気づいたんだよ。」
かつて厳しい態度を見せていた貴族たちも、今ではアントンの工房の支援者となっていた。戦争で得た成果を平和利用することに、彼らも価値を見出していたのだ。
さらに、工房には数人の青年たちが訪れるようになった。彼らは、アントンの技術に興味を持ち、学びたいと志願してきたのだ。
「アントン様、今日はどんな装置を作るのですか?」
「ん、今日は新しいポンプの改良だ。逆止弁をもっと長持ちする素材にしてみようと思う。」
青年たちは手際よく作業台を整え、工具を準備した。彼らはまだ経験は浅いが、吸収力は抜群だった。アントンはその若い熱意を見て、どこか安心感を覚えた。
アントンは助手たちと共に技術の伝播に力を入れるようになった。蝋板に図面を描き、それを元に簡単な講義を行う。貴族や商人たちにも、これらの技術がどのように役立つのかを説明した。
「こうして技術が広まるのはいいことだな。」
「でも、簡単に広めていいのか?」ある貴族が心配そうに尋ねた。
アントンは笑顔で答えた。「もちろんです。技術は、必要としている人たちが活用してこそ意味があります。」
アントンは訪ねてくる人にはいつも親切に相談に乗ってあげた。一日付き合って簡単な実験をやったり改善計画を作ることもあった。
ファウスタは講義や相談の場に立ち会うのを好んだ。技術で祖国ローマが確信されていく様子が彼女には楽しくて仕方がないようであった。
*****
ある日、ローマ軍の技術者がアントンの工房を訪れバロメーターの改良や工作機械については相談していった。誰あろう一緒に旋盤でピストンポンプを作ったマキシムスであった。ふたりで旧交を温めあった。マキシムスは技術部門の幹部としてかなり良いポジションまで進んでいるらしい。
マキシムスは気になる事を言っていた。エジプト領マイオス・ホルムスに新しい海軍基地を作るのだと言う。マイオス・ホルムスは紅海の中ほど、スエズ湾の出口に位置する良港で、上エジプト地域に位置するナイル川沿岸の都市コプトスから比較的近い位置にある。エジプトとは関係強化が進んでいたから兵力展開自体は不思議でなかったが紅海とは随分遠い所に思われた。彼が声を潜めて言うことには講和条約の履行の一環としてカルタゴ側が差し出してきた情報の中に紅海の向こうの未知の航路についての記録があったのだという。
アントンはその言葉に耳を傾け、思わず問い返した。「未知の航路?どこへ向かう航路だ?」
マキシムスは周囲を見渡し、小声で続けた。「東ですよ、もっと東へ。カルタゴ人は紅海を越え、その先の大海を渡る航路を探索していたらしい。海図にはその痕跡が残されている。遠くに金や香料が豊富な地があると記されていました。」
アントンは驚きと興奮を隠せなかった。「それが本当ならローマにとっては大きな可能性だ。だが、なぜその情報を隠している?」
マキシムスは苦笑しながら肩をすくめた。「上層部が慎重なのでしょう。東方への航路がどれほどの価値を持つのか、まだ判断がつかないのでしょうね。カルタゴ人がどれほど正確な情報を持っていたのかも不明です。」
アントンは考え込んだ。紅海を越え、未知の海へそれはローマがこれまで想像すらしなかった領域への挑戦だった。だが同時に、その先には計り知れない富と新しい知識が待っているかもしれない。
「アントン先生は面白がると思うのですがマイオス・ホルムスへはナイル川から船を分解して陸送する計画なんですよ。調査してみると紅海沿岸は乾燥地帯で木材の供給が難しい。それなら最短のルートで分解した航洋性のある船を陸送しようという計画です。」
「随分と遠大な計画だな。紅海とはそういうところなのか。」
アントンは続けた。
「しかし、もしその航路が実現すれば、ローマは新たな時代を迎えるだろう。だが、それにはまず航海の安全を確保する技術が必要だ。バロメーターや他の観測機器がその役に立つかもしれない。私は船については素人だがいくつか改良のアイデアはある。」
マキシムスはいぶかし気に言う。
「そういうアイデアがあるんでしたらカルタゴとの戦争の時におっしゃっていただけたら良かったのに。」
アントンは言い訳する。
「地中海での運用なら君たちのガレー船も非常に理にかなった設計で、大量生産を行ったのは大変立派なことだ。私の素人考えはもっと波の荒い長距離を航海するための船に関するものだ。例えばオールはすべて廃止して乾舷を高く作る。」
マキシムスは言う。
「風のないときはどうするんです?商船で帆船もありますが、それでもオールを用意していて漕げるようになっているんですよ。」
アントンは答える。
「そこはオールで漕げる小さいボートを船に積んでおいて、それを引き舟にするのさ。マストの滑車装置と帆桁をあらかじめ配慮しておけばボートの吊り上げ吊り下ろしも容易に行えるし、ボートは補給や偵察の時も便利に使える。」
「なるほど。さすがによく考えてますね。アイデアを全部伺いたいですね」
マキシムスに乗せられて、アントンはとうとうと話し始める。
遠距離航海になるほど漕艇より帆走の方が重要になる。より高くより大きくより数が多く帆が張れる様に船の設計を最適化するべきだ。そのためには安定性が重要であって、船体をV字型により深く作り、船底にバラストを積むべきだ。そしてマストは船体に荷重をバランスよく分散させるためにもっと固定索を増やし、操帆の容易さのために船体側に多数の索具固定用の留具を用意しておく。また滑車や軸受けを多数使ってマストや帆の操作を容易にすべきだ。船首や船尾にも帆桁を張り出させて帆を張れる様にしておく。
船体の工作も、治具と多数のクランプを使って水に浸して柔らかくした板を撓ませた後で、タールか樹脂を含侵して強度を出すべきだ。適切な治具と加工法を用いれば船体はもっと水の抵抗が小さい形状と表面仕上げでできるはずだ。船首は衝角も廃止して波を切りやすい理想的な形状を追求すべきだ。総じて戦闘用の船ではなく探検用、長距離交易用の船と割り切って、少人数で長距離を高速で航海できるようなあらゆる工夫が必要であろう。
マキシムスは微笑み、「先生の協力があれば心強いですね。今は秘密にしておきますが、いずれ先生にも実地で手伝ってもらうことがあるかもしれません」と言った。
*****
ある晩、アントンはルキウスとワインを飲んでいた。ルキウスも元老院の活動で忙しくなっていたが、時々は晩餐に誘ってくれた。
ルキウスにとって、アントンと語り合う時間は一種の癒しだった。アントンの無邪気で純粋な情熱は、政治の荒波にもまれるルキウスの心を和らげるようだった。
「共和政ローマが大好きだ」とアントンが言うたびに、ルキウスは苦笑いを浮かべながら返すのだった。「我々がそんなに立派なものだと思うか?俗物ばかりだよ。欲望にまみれた者たちがそれぞれの思惑をぶつけ合っているだけさ。」
だがアントンは怯まない。「そうかもしれない。でも、その俗物たちの中にも可能性がある。共和政ローマという国家には、もっと高いところへ行ける力があるはずなんだ。」
「高いところ?」ルキウスは眉を上げて問い返した。「何を言っているんだ?」
アントンは少し照れながらも熱を込めて続けた。「これは俺の勝手な夢想かもしれない。でも、祝福された国家としての共和政ローマ、そして国民全体がその理念を共有するような未来を思い描いているんだ。統合がただの征服や経済的な利益ではなく、精神的な救済になるような国家理念だよ。どんな民族や文化に対しても、社会階層のだれに対しても。」
ルキウスはしばし無言になった。その言葉の純粋さに驚き、同時に圧倒されていた。「つまり、国家が道徳の源になる、と言いたいのか?」
アントンは静かに頷いた。「そうだ。もし国家がただ欲望の調整だけでなく、人々の生き方や価値観を高める存在になれたなら、ローマはただの大国を超えた存在になるだろう。」
「すごいことを考えてるんだな。」ルキウスは深い溜息をつき、杯を口に運んだ。その熱意に圧倒されながらも、どこか羨ましく思ったのだ。自分にはそんな純粋さがもう残っていない、と感じたからだった。
だが、アントンの言葉には心を揺さぶる何かがあった。現実の政治は汚職や派閥争いで溢れていたが、その中にもローマという国家が持つ潜在的な力への信頼を捨てきれない部分があった。「少なくとも俺ももう少し真面目にやらないとな」と心の中で決意を新たにするルキウスだった。
ルキウスの他にもアントンの言葉をもう一人聞いていた。それはユリア・セヴェラだった。食器を片付ける際に偶然聞いてしまったのだが「精神的な救済になるような国家理念」に衝撃を受けた。全く考えた事もない発想であり「人は幸せになるために生まれてきた」という言葉とも繋がっているように思えた。「社会階層のだれに対しても、というのは私のような者も含んでいるのだろうか?」
少し長くなりましたがタ―ニングポイントです。




