6 気にかけて、頼って
太陽の光が、真琴の背中をじりじりと差す。コントラバスをあまり太陽に当てたくないので、急いで楽器倉庫の鍵を鍵穴に入れて回し、扉を開ける。
黒いソフトケースに入れたコントラバスを床に置いた後、真琴はほっと一息をついた。直後、長方形の大きな塊――アンプを持った治美が、「よいしょ」と声を上げながら入ってくる。
「マコちゃん、鍵開けてくれてありがとう!」
アンプを部屋の隅に置き、肩にかけていたエレキベースを下ろしながら、治美が礼を言う。真琴は「大丈夫ですよ」と返しつつ、治美が手に持っているそれを見て、思った。
ベースって、かっこいい。
今日に限り、虹西高校吹奏楽部はコンクールの練習を休んでいた。理由は、オープンスクールが明日開催されるからだ。
吹奏楽部は、見学に来る多くの中学生のために、歓迎演奏をする事になっている。だから今日は、定期演奏会でやったポップス曲から二曲選び、練習、そして合奏をしていた。
ポップスでは一部の曲以外、コントラバスパートの人がエレキベースを弾く。治美が今日に限ってベースを持っていたのは、上記の理由によるものだった。
「マコちゃんも、学園祭の時にはベースデビューするからね〜」
真琴ははっと気付き、慌てて治美の方を向く。恐らく、真琴のベースへの視線を感じていたのだろう。治美は微笑ましそうに笑っていた。
「そんなに早くから弾くんですか?」
「うん。コンバスの一年は学園祭で、とりあえず一曲をベースで弾く事になってんの! これ、コンバスメンバーの間の決まり!」
ここまで早い時期に弾く事になるとは思わなかった。真琴の心が弾む。だがすぐに、嫌な考えが頭の中を駆け巡った。
「……わたし、ちゃんとベースを弾けるようになるでしょうか」
不安を口にしてしまう。それから慌てて、治美から目を逸らした。
「もう、マコちゃんは心配しすぎ!」
治美は真琴の背中を軽く叩く。真琴は身体をびくりとさせた。
「マコちゃんは出来る子だから、大丈夫! あたし、きちんと教えるようにするし! それに……これからは圭吾先輩も来るし」
ぽかんとした表情をする真琴。治美は更に続ける。
「この前、智貴先輩と圭吾先輩が来たでしょ? その日のうちに圭吾先輩、メイジンに掛け合ったらしいよ〜。結果、正式にコンバス指導者として来る事になったって!」
「それ、本当ですか!?」
思わず、声が大きくなった。本気で指導者になるとは思っていなかっただけに、驚きもひとしおだ。
「ホントだよ! とりあえず夏休みを挟んで、九月から本格的に指導しに来るってさ〜」
「へえ、九月から……」
「コンバスパートには今まで指導者いなかったけど、これで安心だよね! 圭吾先輩のおかげでマコちゃん、ピッチカートが上手く弾けるように……」
そこまで話して、治美は何かに気付いたように「あっ」と声を漏らした。話を切り、考え込むようにして黙る。真琴の方を見たり視線を逸らしたりを繰り返し、何度も唸った。
自分に言いたい事があるのかも、と真琴は考えた。治美をまっすぐ見つめる。敢えて何も訊ねない。治美から言い出すのを待つ事に決めたのだ。
しばらく倉庫中に沈黙が漂った後、治美がぽつりと呟いた。
「マコちゃん。今更だけど、ごめん」
突然の、謝罪の言葉。真琴は目を見開く。謝られるような事をされた覚えは、真琴には無い。
治美は一旦、言いにくそうに口をもごもごさせるが、再び話し出した。
「この前のピッチカート……ホントはあたしが教えなきゃいけなかったのに、ここまで放っといちゃって。圭吾先輩に丸投げする形になっちゃって、申し訳ない」
真琴は目をぱちくりさせた。治美が謝る必要は本当に無いと思い、首を横に振る。
「先輩は、謝らなくて良いですよ。ピッチカートの事は、わたしが悪いんです」
治美が何か言おうとする前に、話を続ける。
「先輩は、定期演奏会前にちゃんと教えてくれたじゃないですか。だけど、六月に入ってピッチカートする機会が無くなったら、弾き方がうろ覚えになっちゃって」
「だけど……」
「そんな状態なのに先輩に訊かないで、響かせるのが難しいレのフラットを無理やり出そうとしたから、ますます間違った弾き方に」
「でも!」
治美が大きな声を出したので、真琴は肩をびくりとさせた。
「やっぱり、それに気付けなかったあたしが悪いよ」
「それは……ここ最近AチームとBチームで予定が分かれて、わたし達、あまり会えなかったですし」
「いくら会う機会が少なかったからと言っても、それは理由にならないよ」
治美はあっさりと否定した。目を伏せて、続きを語る。
「あたし、初心者の気持ちになって考えてあげられなかった。ちょっと教えられただけじゃ完全には覚えられないって事、経験して解ってたはずだったのに」
真琴はすぐに反論しようとしたが、その前に治美が呟いた。
「初心に帰って頑張ろう! って四月の時に決めていたはずだったのにね。これじゃあ、先輩失格だな〜」
治美は目線を上にし、口に手を当てていた。治美がこのような動作をする時は、何かを思い出している時だった。
何十秒か沈黙が流れた後、真琴が口を開いた。
「お互い様です」
治美は「えっ?」と口にしながら、真琴に視線を向ける。
「先輩は、気付けなかったから自分が悪いって言いました。でも……気付く気付かない以前にわたしだって、素直に分からない所を訊けば良かったんです」
治美は、今度は何も口を挟まずに、真琴の話に耳を傾けている。
「AチームとBチームで予定が違うし、先輩は忙しそうだからって勝手に思って、訊くのを遠慮しちゃった所があるので。もっと先輩を頼れば良かったなあって、今更ながら思ってます」
再び会話が途切れた。二人はお互いに、じっと見つめ合う。
(先輩、次は何を言うかなあ?)
真琴は治美がどう出るのか気にしつつ、更に眉を寄せて治美を見つめる。当の治美は、段々と顔を歪ませていった。
真琴が予想外の反応にたじろぐ中、治美は急に吹き出し、声を出して笑い始めた。一気に、倉庫から静けさが消える。
「先輩、いきなりどうしたんですか?」
真琴はたじたじとなりながら、腹を抱えている治美に訊ねる。
「ごめんごめん……! あたし、沈黙と見つめ合いには弱いの〜!」
「……もしかして先輩、にらめっことか苦手なタイプですか?」
「まさにその通り!」
また笑い声を上げる治美。さっきまでの神妙な雰囲気はどこへ行ったのだろう、と真琴は目をぱちぱちさせた。
(まあ……先輩は、こうでなくっちゃ)
いつも通りの治美。ただそれだけだが、真琴は安心感を覚えた。そして、そろそろ笑いが収まりそうな治美を見る。何となく、頬が緩んだ。
「あ〜……マコちゃん、話を脱線させてごめんね!」
真琴の前で両手を合わせ、頭を下げる治美。真琴は「大丈夫ですよ」と答える。自然と声が柔らかくなった。
「マコちゃんの言う通り、ここは『お互い様』って事にしようか! あたしが五百歩譲って」
「先輩、譲りすぎです!」
今度は真琴と治美の両方が、声に出して笑った。
「マコちゃん。約束したい事があるんだけど、聞いてくれる?」
治美は微笑んで、しかし真剣な雰囲気を醸し出しながら訊ねてきた。真琴は黙って、首を深く縦に振る。
「あたし、これからもっと、マコちゃんを気にかけるようにするし、コンバスやベース、出来る限り教える! だから……マコちゃんも遠慮しないで、どんどんあたしを頼って?」
「……、はい!」
「よろしい!」
治美は目を細めて笑った。更に付け足して話す。
「後は……もし二人ではどうしようも無い事が起きたら、智貴先輩や圭吾先輩にも頼ろっか! せっかくだから、利用出来るうちにどんどん利用しないとね~」
「先輩、最後の一言が腹黒いです」
「やだな~、冗談だって!」
二人の笑い声は、倉庫の外にまで響いた。
下校の時間が迫って来ていた。真琴と治美は倉庫の鍵を閉め、職員室に向かってコンクリートの道を歩く。
「それにしてもさ~、マコちゃんと一緒に帰るのは久しぶりだね!」
真琴は治美の方を向き、「確かに……」と頷いた。
「七月入ってAとBで分かれてからは、一度も無かったですね」
「そうなんだよね〜。だから今日、一緒に帰れて嬉しいよ!」
治美はにっこりと笑う。真琴はその笑顔を見て、暖かい気持ちになった。
「嬉しいです、わたしも」
真琴の言葉を聞いて、治美は再度笑顔になった。それから、ふと気付いたように前を向く。
「どうしたんですか?」
「あっちから歩いてくるの、確か……パーカスの美穂子ちゃんだよね?」
真琴も前に視線を移す。前方に見えたのは、ショートボブが印象的な少女――渡辺美穂子で間違いなかった。
美穂子は真琴達が歩いている方向とは逆の、倉庫、部室方面へと歩いていた。何秒も経たない内に、真琴達と美穂子の距離が縮まっていく。
距離が一メートル以内まで近づいた時、真琴と治美、美穂子は目が合った。治美が先に声をかける。
「美穂子ちゃん、お疲れ〜」
真琴も治美と同じように声をかけ、手を振った。美穂子も挨拶をし返す。
「お疲れ様でーす」
一瞬笑顔を見せて軽く会釈をした後、真琴に向かって手を振る。そのまま真琴達から視線を外し、部室方面へと歩いていった。
真琴はすぐに後ろを振り向き、美穂子を見た。いつもと様子が違うと思ったからだ。
普段は朗らかな雰囲気を持つ美穂子。だが今は、雰囲気が違って見えた。眉が下がっている、心からの笑顔では無い顔を見たから。
「美穂子ちゃん、あまり元気なさそうだよね〜」
治美も美穂子の様子に気付いたのか、美穂子を見ながら呟いた。真琴は治美を見上げて、首を縦に振ってから、もう一度美穂子の後ろ姿を見る。
真琴の目には、美穂子がどこか寂しげな様に写った。