5 見知らぬ男の指導と思わぬ来訪者
この男が信二と話す前に見た人であるという事は 外見からすぐに分かった。
左目が隠れる程伸びた明るい茶髪。染めているらしい。更にワックスを付けているのか、髪が立っている。服装は私服である。黒色のTシャツに赤系チェックの半袖パーカーを羽織り、下は紺色のジーンズを穿いている。
どう見ても、虹西高校の生徒や先生では無い。この男は一体何者なのか。真琴は訊ねようとするが、緊張で声がどもる。
「えっと、あの……」
「まだ小指の力が弱いんだよ。太い弦だから尚更、ちゃんと押さえていないと大きい音が出ないからな!」
男は真琴の言葉を遮り、コントラバスの左隣まで歩いてきた。
「試しに、一番力が強い人差し指と中指で押さえて弾いてみようぜー?」
真琴は名前を訊く機会を失い、口をつぐんだ。よく分からないまま、とりあえず男の指示に従って弾いてみる。
音は前より大きくなった。が、弦が指板に当たり、打撃音が入ってしまった。嫌な音だ。真琴は顔をしかめる。
「弦を縦に引っ張ってるから指板に当たってんだな。横に引っ張ると当たんなくなるぞー? ほれ、コンバス貸してみろ!」
真琴は小さな声で返事をし、コントラバスを男に差し出した。男は手慣れた様子でその大きな楽器を構え、真琴より太い指で弦を横に引っ張り、レのフラットを弾いた。
音が出た瞬間、真琴は鳥肌が立った。男の出した音が、真琴の身体の奥深くに染み渡ったからだ。
倉庫中に、低くて深い音が響いている。真琴の出す音とは違い、音に芯があった。聴いていて心地好い。
「すごい……!」
自然に声が出ていた。男は満足そうな顔をして真琴を見る。
「正しく練習すりゃ、あんたもこんな音が出せるようになんだからな!」
男は真琴にコントラバスを返した。もう一度やってみろ、と真琴を促す。真琴は、男が弾いた時を思い出しつつ構えて、今度は弦を横に引っ張って弾いた。
出た音は、今までより長く響いた。弾いた本人は目をぱちぱちさせる。男は「良い感じだ」と、二度頷いた。
「後はだなー。指の腹だな」
「指……ですか?」
「そうだ。今、あんたは指の端っこ等辺で弾いてたんだけど、それじゃ音が十分響いてかない!」
男が急に熱く語りだすので、真琴は身体をびくりとさせた。
「指の一番肉が付いている部分、つまり指の腹に弦を引っ掛けて弾くと、もっと良くなると思うぜ? 後、あんたはさっき指を伸ばして弾いてたから、今度は俺がやったように、指を丸めて弾いてみろ。そっちの方が弦に引っ掛けやすいからなー」
真琴は返事をした後、男に言われた事を再確認しながら構えた。まず、左手の人差し指と中指で、しっかりと弦を押さえる。次に、右手の人差し指と中指の腹を弦に引っ掛ける。最後に、その指を横に引っ張り、弾く。
男程では無いものの、レのフラットが、確かに大きく鳴った。太くて、芯のある低い音が、真琴の腹にも伝わって、響いて。その感覚が真琴にとって気持ち良かった。
男は驚いたように真琴を見やった。感嘆の声を上げる。
「こりゃ、予想以上だなー」
真琴は口をぽかんと開けた。男が「今の、すごく良かったなー!」と付け足したので、初めて誉められたと分かり、頬を赤くする。
倉庫に近付く足音が聞こえてきたのは、真琴が照れたのと同時だった。
「ただいま〜!」
黒いケースに包まれたコントラバスを担いで、倉庫に入ってきた治美。真琴と男は後ろを振り返る。
「さっきの、マコちゃんが弾いたの? すごいじゃ〜んって……」
真琴に話しかけた治美は、男に気が付くと言葉を止め、目を大きくして見つめた。そして、次に出た言葉が
「もしかして、ケイゴ先輩!?」
である。真琴は「ケイゴ」と呼ばれた隣にいる男を見上げた。
「治美ちゃんじゃん! 久しぶりだなー」
「お久しぶりです! まさか、今日来るなんて思いませんでしたよ〜」
どうやら、二人は知り合いらしい。真琴は何となく会話に入りづらくて、黙って二人を交互に見つめた。
そんな矢先、二人とは別の男の声が、倉庫の外から聞こえてきた。
「田中。オレを忘れてないか?」
聞き覚えのある、クールな声。真琴は思わず目を見開いた。
「あ、忘れてました! 入口塞いですみません、先輩」
治美がコントラバスを持ち上げ、奥に入る。クールな声の持ち主は「扱い酷いな」と冷静で、しかしどこか暖かい声色で治美に言い返しながら、倉庫に入ってきた。
「先輩、相原。お久しぶりです」
入ってきた男――原田智貴は、柔らかい眼差しを二人に向けながら、再会の挨拶をした。
「セクション練習が終わって倉庫に戻ろうとしたら、ちょうど帰ろうとしている智貴先輩に会ったんだよ〜。で、たまには倉庫に遊びに来てくださいって誘ったら、一緒に来てくれたの!」
智貴が治美と来た経緯を質問した真琴に対し、治美が嬉しそうに答えた。
「しつこく誘った割には、倉庫に着いた途端オレを忘れてたけどな」
呆れたような声を出す智貴。治美が顔を赤くしながら謝る。
「だって、まさかケイゴ先輩が来ているなんて思わなかったんですもん! びっくりして、つい忘れてしまいましたよ~」
「そうそう、俺が居たから仕方ないっしょ。智貴、もう治美ちゃんを許してやれよー」
ケイゴと呼ばれた男が便乗する。智貴は頭をかくと、「先輩には敵わないな」と呟き、観念したように微笑んだ。
「全く、分かりました。別に気にしてないし、先輩に免じて許す事にしますよ」
いつもクールそうな智貴がこんな表情を見せるのが、真琴にとっては新鮮だった。つい、智貴をじっと見つめてしまう。
視線に気付いたのか、智貴は不思議そうに真琴の方を見た。急だったので、真琴は露骨に目を逸らしてしまう。そしてまた、智貴をちらりと見る。
「相原を見て思い出した」
再び目が合った後、智貴が話し出した。
「は、はい」
「隣にいる先輩の事、知ってるか?」
智貴が言う先輩とは、ケイゴと呼ばれた男ただ一人を指している。治美が、「何でそんな事を訊くんですか?」と訊ねる。智貴が治美を見て、肩をすくめた。
「お前、一年半前の事を忘れたのか?」
治美は頭を天井に向けて、口に手を当てて唸る。すると、ふと思い出したかのように目を丸くし、真琴達に向き直った。
「解りましたよ〜! ケイゴ先輩、絶対マコちゃんに自己紹介してないですよね?」
智貴が首を縦に振った。ケイゴという男は目を泳がせ、唇を尖らせている。治美は男をじと目で見た後、真琴の方に視線を向けた。
「さっき智貴先輩の質問を遮っちゃったから、もう一度訊くね〜。マコちゃん、あの先輩の名前分かる?」
一瞬ためらったが、素直に答える事にした。
「正直、知らないです。教えてもらってないから……」
智貴と治美は真琴の言葉を聞いて、やっぱりと言った風に頷いた。
「そうだと思った。今回もきっと、仮入部でオレと先輩が出会った時に名前を言わず、いきなりコンバスの指導を始めたのと同じ類いだろうな。先輩は全く変わってないな」
「あたしの時も、智貴先輩が言ったのと同じ感じでした! 二度ならず三度も同じ事をするなんて、ある意味すごいですよね〜」
真琴は二人の話を聞いている途中、右側から負のオーラが出ているのを感じた。恐る恐る、首を右に捻らせる。
オーラを出している張本人である男は、肩を縮こませ、微かに身体を震わせていた。治美が話し終わった途端、全てをはね除けるように、声を大にして叫ぶ。
「だーっ! あんた等、人が黙ってりゃ言いたい放題言いやがってー!」
いきなりの大声に真琴達は怯み、後ずさる。男は更に、拳を握って語りだした。右目だけでなく髪で隠れている左目まで、ぎらぎらと輝いてるのが見える気がした。
「コンバスを弾こうとしてる子を見たら、つい興奮すんだよ! 自己紹介も忘れる程に! しょうがないっしょ? だいたい……」
「ちょ、先輩ストップ〜!」
ヒートアップしそうになるケイゴを、治美が慌てて止める。智貴も諭そうとして口を開いた。
「先輩、そろそろ止めた方が良いと思います」
真琴の方を向いて、何故か口角を上げる智貴。真琴は(どうしたんだろう)と思い、首を傾げる。
「今の言い方、変態に聞こえますよ? 相原だって絶対そう思ってますって。初対面の子にいきなり引かれるのはどうかと。な、相原」
智貴の言葉に、先輩二人は動きを止めた。そして治美はゆっくりと、ケイゴは慌てた様子を見せながら、真琴に視線を向ける。
急に話を振られた真琴は、一瞬固まった。口がつっかえながらも一生懸命弁解しようとするが、言う度に混乱していく。
「あの、違うんです! わたしは別に、変態だなんて思ってません、たぶん……! ちょっと、変な人だって思っただけで……」
「相原、たぶんって何だよたぶんって。それに、やっぱり変人だって思ってたのか」
智貴が珍しく声を上げて笑う。治美も笑いが込み上げてるのか、口元が緩んでいる。ケイゴはというと、口に手を当てて、我慢するように身体を震わせていた。
「うわぁ、間違えました! 面白い人と言おうとしたのに……」
大きな笑い声が真琴の言葉をかき消した。真琴、智貴、治美は目を大きくして声のした方に視線を向ける。
声の正体であるケイゴは、笑いで身体を震わせながら話し出した。
「あんた……一見気遣ってるように見えて、微妙に本音が見えてる辺り、面白いな……! 後、混乱している様子なんか最高だったぜ……」
笑いながら話しているため、声まで震えている。真琴は、(ああ、また嘘をつけなかった……)と、顔全体を赤らめながら思った。
「もう! 元はと言えば、智貴先輩がマコちゃんをからかって変な風に振るから、こうなったんですよ~」
「あー……、なんか、ゴメンな?」
智貴をじとーっと見る治美。智貴は治美の視線に負けたようで、真琴に謝る。真琴は咄嗟に「いえ、大丈夫です!」と答えながら、こんなやり取りが仮入部の時にもあった事を思い出す。
漸く笑いが収まったケイゴが、智貴と治美に向かって「ちょっと、一旦話を止めてくれよー」と頼んだ。
「あんた等二人がいると、話が進まん。とりあえず、自己紹介させてくれ!」
「え~、あたし達のせいだけじゃ無いと思いますけど!」
ケイゴは治美の言葉を「まあまあ」と受け流し、真琴に向き直った。
「俺は小林 圭吾って言います! 智貴の一年上です。大学では吹奏には入ってないけど、オーケストラに入ってコンバスを続けてます!」
思ったよりも真剣に自己紹介する圭吾。更に丁寧にお辞儀をするので、真琴も慌てて頭を下げる。智貴が治美に、「自己紹介自体は真面目なんだよな、言うタイミングが遅いだけで」と耳打ちするのが聞こえた。
「わたしは、相原……真琴です。えっと……よろしくお願いします」
やはり、自己紹介は苦手だと思う。つい言葉がつっかえてしまう。ただ、圭吾は気にしていないようだった。
「よろしくなー!」
圭吾はとびっきりの笑顔を真琴に向けた。それから後も黙って、じっと真琴を見つめる。
真琴や智貴、治美がきょとんとする中、圭吾は真琴を見て頷く。喉をごほんと鳴らして三人を見回し、続けた。
「さっき決めた事を、発表しまーす! 俺、これからはOBとしてだけじゃなく、コンバス指導者として此所に行く事にしました!」
「……えーっ!?」
真琴達三人の、驚きの叫び声が綺麗に揃い、倉庫中に響いた。