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ブルーの低音  作者: 綾野 琴子
第5章 新たな舞台と再会
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4 ピッチカートと人影

 すぅーっと深呼吸をして気合いを入れる。楽譜を一目見てから、左横に抱えているコントラバスに視線を移す。

 次に出す音――レのフラットの所を、左手全体を使って押さえる。右手の人差し指と中指を、真琴から見て二番目に近い弦へと持っていき、引っ掛ける。そのまま弦を弾く。

 レのフラットが鳴ったのは、ほんの一瞬だった。全く音が響かない。弦が振動していないという事だ。ため息をつき、肩を落とす。

「また、失敗かあ」

 打楽器が幾つか抜かれ、広くなった倉庫部屋で一人、真琴は呟いた。


 弓ではなく指で弦を弾く奏法、ピッチカート。『カンタベリー・コラール』のコントラバスパートでは、最後の音、レのフラットをピッチカートで弾く事になっている。

 最後の音が、上手く弾けない。どうやっても、先程のように一瞬鳴るだけだったり、指板(※)に当たって打撃音が入ってしまったりする。

 明日にはまた、合奏がある。それまでになるべく弾けるようにしておかないと、と思いながら、再びピッチカートに挑戦する。響くような音とは程遠い音が出た。真琴が出す音は、どちらかというと打撃音に近かった。

 二度目のため息。ピッチカートをする度に、気分が落ちていく。心なしか、部屋の空気もどんよりしている気がした。

 一旦ピッチカートの練習を中断しようと楽譜から目を離してすぐ、真琴は自分が多量の汗をかいている事に気付いた。今まで練習に集中していて気付かなかったのだ。次に、部屋の中がやけに暑いと感じた。そういえば、喉も渇いている。

 一度集中力が切れると、色んな事が気になってくる。こうなると、中々練習に戻りづらい。

 ちょっとだけ休憩しようかなあ、と真琴は思った。今のままでは、練習に戻っても集中出来ないだろうとも考える。

(暑いし、一回外に出よう)

 コントラバスを敷いた毛布の上に置き、鞄の中の水筒を取り出してから倉庫を飛び出した。


 外に出て最初に目に映ったのは、雲一つ無い透明な青空と、青空の真ん中に浮かぶ白い太陽だった。同時に、課題曲のファンファーレを吹くトランペットや後打ちの練習をしているホルンの音が耳に入ってくる。

 真琴はとりあえず日陰に入る。暑さがいくらか和らぐ。水筒のお茶を飲むと、身体の中から冷えていく感覚がした。その感覚が心地好いと思う。

 一息ついてから、またお茶を飲もうとする。水筒を傾けかけた瞬間、職員室方面へ向かう見知らぬ人影が見えた。

 真琴は思わず傾けた水筒を縦に直し、人影をじっと見る。顔は見えない。しかし、人影が男性であるという事、明るい茶髪をしている事、私服を着ている事は分かった。

 人影は一旦止まって、楽器倉庫の方を見た。両腕を組んで二回頷くと、倉庫から目を離してゆっくりと職員玄関へ歩いていった。

(何で倉庫の方を見てたんだろう)

 疑問に思いながら、人影が消えた所を見つめる。すると今度は、見知った人影が職員玄関から歩いてきた。

 その人影は真琴に気付いたようで、此方に走って向かってきた。真琴に声をかける。

「ま……相原じゃねーか。何やってんだ?」

 人影の正体は、信二だった。機嫌が良さそうだ。珍しく笑顔をしている。真琴が

「ちょっと休憩。練習に集中出来なくなってさあ。倉庫の中、暑いしね」

 と苦笑いしながら答えると、信二は同情するように頷いた。

「倉庫は暑いもんな。御愁傷様」

 手を合わせる信二。真琴は乾いた笑い声を上げる。それから訊ね返した。

「永瀬……君こそ、手ぶらで何をしてるの?」

「手ぶらは余計だ、手ぶらは! それに、これから手ぶらじゃ無くなるんだよ」

 信二は突っ込みを入れる。真琴が理由を訊ねると、笑って答えた。

「昨日、ナナコウの吹部でボーンを吹いてる知り合いの先輩から電話が来てな。十一月に定演を開催するんだけど、そこでやる予定の曲で足りない楽譜を探しているんだってよ。で、もし楽譜があったら貸してくれないかっていう用件だった」

 ナナコウとは、七海高校の事だ。七海高校吹奏楽部の面々とは何度か関わってきたから、真琴もよく知っている。

「定演の事は、確か朝倉先輩から聞いた気がする。行きたいなあ。……それで、楽譜はあったの?」

「『Masqueマスク』以外はあった。その件で、さっきナナコウの顧問から正式に連絡があって、メイジンが許可したんだよ。メイジンに楽譜を取ってくるよう言われたから、今から部室行くって所だ」

「なるほどね……。一人で大丈夫? 手伝おうか?」

 信二はしばらく唸る。数十秒後、首を横に振った。

「多分大丈夫だ。他の中学高校にも協力してもらってるらしいから、取ってくる楽譜はほんの一部でいいしな。一人で出来ると思う」

「そっかあ、分かった」

「相原、ありがとな。じゃあ俺、そろそろ行くわ」

 手を振り合って別れた後、白色の携帯電話を取り出して時間を確認する。休憩を始めてから五分以上経っていた。

「わたしも、練習に戻ろうっと」

 外に出た事と信二との会話のおかげで、大分気分が晴れやかになった。真琴は頭の上で両手を組み、同時に踵を上げて背伸びをする。完全にやる気が出たと感じながら、倉庫部屋へと戻っていった。


 コントラバスを立て、暑さで音程が低くなっていた弦をチューニングする。練習再開。明日までに少しでも出来るようにしたいので、『カンタベリー・コラール』の最後の音を練習しようと決める。

 弦を押さえ、右手の人差し指と中指をくっ付け、弦に引っ掛けて弾く。

(今度こそ!)

 しかし、音は一瞬鳴るだけに留まった。また失敗、と思いながら、三度目のため息をつく。

「たぶん、左手が押さえきれてないんだなー」

 後ろから、聞き覚えの無い男性の声。真琴は肩をびくりと震わせる。背中に冷や汗をかいたのを感じつつ、声がした方を振り返った。

 倉庫の入口に立っていたのは、信二と会う前に見た、見知らぬ男だった。

・指板……弦楽器を持つ細長い部分であるネックの表面に貼られた、薄く長い黒色の木片。この上に弦が張られる。


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