3 初合奏、偶然の提案
演奏が始まった瞬間、真琴は何があったのかとびっくりした。真琴が想像していた静かで荘厳な始まりと、現在皆が出している音が、遠く離れたものだったからだ。
オーボエ、コルネット等の旋律を担当する楽器が、いきなり音を外した。それに動揺したのか、音を伸ばしていた楽器も、一瞬音が揺れた。真琴も、思わず弓を止めてしまった。
再び弓を動かす。だが、自分の音が聴こえない。音程が合っているか、間違っているかも解らなかった。一方、真琴の右隣にいる信二は、重そうにチューバを持って、懸命に音を伸ばしていた。どこか硬い音だ。
航は、トロンボーンのスライドを動かしていた。まだ伸ばしに慣れていないのだろう。音量が大きいかと思ったらいきなり小さくなったりして、不安定だ。
オーボエの泉は、楽器の制御がまだ完全には出来ないらしく、所々音を外す。恵のクラリネットからは時々、独特の耳障りな音が出ていた。リードミスだ。
ぐちゃぐちゃとした音が周りに飛び交う。何度も不安定になりながらも、曲は進んでいく。冬馬は曲を止めようとはしない。あくまでも、最後まで振るつもりだ。
クライマックスに差し掛かる。トロンボーンの、神々しい旋律が響くはずだった。実際には、高音が全く出ずにトロンボーンパート全員が落ちてしまったため、間抜けた演奏になってしまった。
終盤。オーボエのソロは、所々音が無かったり、別の音が出ていたりした。チューバはそっと入るはずが、思い切り良く飛び出てしまい、アクセントのようになってしまう。美穂子は正確にチャイムを鳴らしたが、真琴は同時に入るはずのチャイムより、一歩遅れて弦を弾いてしまった。
最後の伸ばしが終わると、冬馬は指揮を止め、腕を下ろした。和室中が静寂に包まれる。この沈黙は心地好いものではないなと、真琴は思った。そして、皆も真琴と同じ気持ちであろう事は、先程の演奏を思い出すと容易に想像出来た。
重々しい雰囲気の中、冬馬がこほんと咳払いをし、口を開く。
「今指揮をしてみて、確実に解った事を言うぞ」
真琴は、これは怒られるだろうと考えて、唾を呑み込んだ。皆も、息を潜める。だが、冬馬が言った事は、真琴達の想像とは違った。
「お前ら今、全然楽しんで演奏してなかっただろ!」
真琴達は、面食らったような表情をして冬馬を見た。皆と比べ、冬馬の表情は明るい。
「指揮を見ないで、ずっと楽譜の方を見て、苦虫を噛んだような顔をして吹いてるんだからな。これじゃあ、全く良い演奏になんねえぞ?」
冬馬は更に、俺と目が合ってたの、美穂子ちゃんと真琴ちゃん位しかいなかったなと、付け足した。思わぬ所で自分の名前が出たので、一気に頬が火照るのを感じた。美穂子も真琴と同様に、顔が赤くなっている。
「楽譜が配られてからあまり日も経ってないし、初合奏だから、ある程度のミスは気にすんな! これから少しずつ、ミスを無くすようにしよう。後、緊張してんのか、皆身体が固くなってる印象がある。もっと気を楽にして吹いて欲しい」
真琴達は、予想とは違った冬馬の言葉を、真剣に聞いていた。それから、冬馬が話し終えると、大きな声で返事をした。
「良い返事だな! じゃあこれから、さっきの演奏について指示していくぞ。まずはチューバ!」
信二は、まさか自分が最初に指摘されるとは思ってなかったようで、切れ長の目をぱちぱちとさせながら返事をしていた。旋律担当のオーボエやコルネットが、不思議そうに冬馬を見ている。自分が最初に指されると思っていたからだろう。
「音に気合いが入っているのは分かるし、良い事だ。だけど、気合い入り過ぎているから全体的に音量が大きくなってて、他の低音どころかメロディーまで聞こえ難くなっている。チューバは、最初の方は抑えて、クライマックスの方で沢山出して欲しい」
信二は冬馬を見て、硬質な声で返事をする。すると、冬馬は
「返事も固いし、顔がひきつってて怖いぞ? そんな顔で見つめられたら、俺びびっちゃうから!」
と返す。さらに信二から遠のくように身体をよじらして、妙にひきつった変顔をするものだから可笑しくて、皆から笑い声が漏れた。普段大笑いをしない信二も、ツボにはまったのか声を上げて笑う。しばらくして笑いが収まった後は、暖かいバスの声で返事をしていた。
「そうそう、今の返事良いな! じゃあ信二、ついでだから今の感じのままで、曲の冒頭四小節を吹いてみてくれ」
信二は一瞬戸惑ったが、すぐに返事をし、チューバを構えて吹いた。先程までの硬質な音では無く、暖かくて柔らかい音が鳴る。
隣で聴いていた真琴は、数分で音が変わった事に驚き、目を丸くした。皆も、びっくりしたように信二を見ている。冬馬は満足そうに頷いて、信二に再び指示を出した。
「これからは、今のような音で吹くようにしてくれ! 分かったか?」
「はい!」
信二は、今までよりも大きく、はきはきした声で返した。冬馬は「オーケー」と一言呟き、今度は違うパートに指示を始めた。
ふと、周りを見渡してみると、さっきまで暗かった場の空気がたった数分で和やかになっていた事に、真琴は気付いた。初合奏が終わった後、緊張してひきつった顔をしていた皆が、今は真剣ながらもリラックスした表情をしている。そして、今のこの状態は、間違いなく冬馬の指示のおかげだ。真琴は思う。
(この先輩なら、安心出来るかも)
指示が一通り終わり、二度目の通しをする。まだぎこちなさがあるものの、一度目とは違う柔らかい音が、部屋中に響いた。
数時間後に合奏が終わった。真琴は茶色のローファーを履く。それから、コントラバスケースに付いている紐を肩に掛けて、持ち上げ。
虹館の玄関を出て、左に曲がろうとした所で、後ろから真琴を呼ぶ声が聞こえた。
「真琴〜!」
振り向くと、悠輔が手を振りながら向かってきていた。悠輔の後を律がついていく。二人共、重そうなケースを持っていた。
「お疲れ〜。途中まで一緒に行こうよ」
悠輔に続き、律が「お疲れ」と口にする。真琴も挨拶をし返すと、二人と並んで歩き出した。直後に、律が口を開いた。
「会えて、ちょうど良かった。……真琴に、訊きたい事があるんだけど」
真琴はどぎまぎしながらも「何?」と返した。律が真琴を名前で呼ぶのは、これが初めてだった。
「B部門の指揮者って、確か、冬馬先輩だったよな」
「うん、そうだよ」
「その……先輩の指揮、どんな感じだった?」
真琴は、どうしてこんな事を訊くのか不思議に思いながらも、答えた。
「なんかね、雰囲気が良い感じ」
「雰囲気が良いって?」
悠輔が聞き返す。
「あ、雰囲気が良いっていうか……先輩が話すと、雰囲気が変わる感じかなあ」
真琴は、合奏時に起こった事、感じた事を二人に話した。悠輔は感心したように何度も相づちを打ち、律は黙りながらも真琴をしっかりと見つめ、耳を傾けていた。
「冬馬先輩ってすごいんだね〜! A部門でホルン吹くよりB部門で指揮振る方選ぶのもだけど、たった少しの時間で皆の音が変わるなんて。一回、先輩の指揮を見てみたいな〜」
悠輔は嬉しそうに話す。律も、真顔でぽつりとつぶやいた。
「あの先輩は……流石だな」
律の言葉には、尊敬の念が込められている。冬馬を知っているような口振りだとも思えた。律と冬馬は何か関わりがあるのかもしれないと、真琴は推測した。
話しているうちに、いつの間にかコンクリートの楽器倉庫の前まで着いていた。悠輔が思い出したかのように口を開く。
「そういえば最近、B部門の人とあまり話せてなかったな〜。今日、真琴に会えて良かった!」
律は、悠輔の言葉に同意するかのように、首を縦に振る。真琴も応えた。
「昼休みの時間も、AとBとで違うもんね。会えるのは片付けの時くらいかなあ」
「少し、寂しいな」
律がぼそりとつぶやくと、真琴と悠輔は黙って頷いた。三人の間にしんみりとした雰囲気が漂う。
会話が途切れて数十秒経った後。どことなく重い空気に耐えかねたのか、悠輔が沈黙を破った。
「でもさ! ずっとこのままって事は無いし、吹コン終わったら会える時間増えると思うよ〜」
「……悠輔。吹コン終わった後は、夏休みだから、しばらく皆に会えないと思う」
律の辛辣な突っ込みに悠輔は「そうか〜」と応え、しょんぼりしたように項垂れた。
真琴は悠輔の様子を見て、何か言わないと、と思った。直後、言う内容を考えるより先に、声が出ていた。
「夏休みに、会えるようにすれば? 例えば……バスパート五人で、どこかで遊ぶとか!」
二人は目をぱちぱちさせている。これは失敗したかと焦り、次の言葉を選ぼうとする。と、悠輔が次第に目を輝かせ、声を上げた。
「いいね〜、それ! 楽しそう!」
「良い案、だな」
律も、満更でもなさそうに頷いてる。予想外の二人の返事に、今度は真琴が目をぱちぱちさせた。
「早速、信二や望実にも言わないと! じゃあ僕、二人を探すから先に行くね〜」
悠輔は真琴と律に手を振った後、重い楽器を持っているとは思えない素早さで、部室へと向かっていった。真琴は呆然として、つぶやく。
「行っちゃった。まだ、詳しい事も何も決まってないのに」
「悠輔は、あの目になったら、すぐ行動に移すからな……」
「わたし、まさかこうなるなんて思ってなかった。……ただの出任せだったのに」
律は苦笑いをしながら「出任せかよ」と突っ込みを入れた。そんな律を見て、出会った時に比べて、大分雰囲気が柔らかくなったなあと、真琴は思った。
「じゃあオレも、そろそろ行くか」
「そうだね。時間も無いし」
後少しで、学校が閉まってしまう。そろそろ会話を切り上げた方が良いだろう。
「また明日。……本当に、皆で遊べたら良いな」
律は真琴に微笑むと、部室の方へ歩を進める。真琴は律の不意討ちの笑顔に思わず、口をぽかんと開けた。何秒か経ってはっと気付き、律に向かって「また明日!」と声を上げた。
一端振り向き、黙って手を上げた後、元の方へ向き直って走る律。真琴は、律の後ろ姿を見つめる。
出任せとはいえ、提案してみて良かった。律が見えなくなった後にそんな事を考えながら、青いトタンの屋根の楽器倉庫へと入っていった。
今回は更新が大変遅くなり、申し訳ありませんでした。これから更に忙しくなりますが、細々と頑張っていきます。