2 B部門の指揮者
虹館の二階には、和室がある。真琴達は和室の隅で、畳の上に弁当を広げ、食べていた。
「それにしても、よりにもよって『カンタベリー・コラール』やんのかよ。ありえねー」
信二がため息をつき、おにぎりを口に入れる。真琴は(あれっ?)と疑問に感じて箸を止め、右隣にいる信二の顔を見た。
「この前バスパートの皆と話した時、永瀬……君、あんまり嫌がってなかったよね?」
「あー。あの時は、ただの練習曲だと思ってたからな。まさか、吹コンで吹く事になるなんて思わなかったぜ」
信二はいかにも憂鬱そうな、曇った声を出した。信二の隣で卵焼きを摘まんでいた落合 航が、からかうような目で信二を見る。
「もしかして信二、先輩や悠輔がいねぇから、びびっちゃってる系?」
「おい、うるせーぞ寝癖頭。別にそんなんじゃねーよ。ただ……」
「ただ〜?」
真琴の正面にいた恵が、きょとんとして信二を見つめる。信二は二回目のため息を吐くと、切れ長の目を伏せて話した。
「吹コンは俺にとって、良い思い出も悪い思い出も両方あるから、複雑な気分なんだよ。やるのが苦手な曲だから、余計に気分晴れねー」
以前、吹奏楽部の引退時期の話をした時。信二が、出身中学の引退はコンクール後だと話しながら、嫌な顔をしていた事を、真琴は思い出した。あれは確か、定期演奏会のリハーサルをした日だったように思う。
真琴の左隣にいるショートボブの髪型をした少女、渡辺 美穂子が信二を宥める。
「まーまー。もう決まっちゃったものはしょうがないじゃん? こうなったら一生懸命頑張ろーよ」
美穂子が微笑むと、頬にえくぼが出来た。赤色基調の眼鏡をかけた少女、桐ヶ谷 泉が続けて口を開く。
「美穂子の言う通りだと、私は思う。どうせなら、金賞を取る勢いでやるしかないよ」
確かにそうだけどよ、と信二が返す。
「B部門に出るのって、一年生だと初心者か、高校に入って楽器が変わった奴が多いだろ? ほぼ初心者集団の俺達が今からこんな難しい曲練習して、金賞取れんのか?」
信二の言葉に、真琴達五人は唸った。その中でも、特に違う雰囲気を出している者がいるのを、真琴は感じ取る。
美穂子だった。人一倍重い気を放っていた。何故いきなり空気が重くなったのかは分からなかったが、この話題を続けるのは止めた方が良い気がした。真琴は咄嗟に質問をする。
「そういえば、B部門の指揮をする人って誰か、知ってる?」
恵が訊き返してきた。
「え〜、メイジン先生じゃないの〜?」
「いや、それは無いな」
泉が否定した。赤色眼鏡をかけ直しながら説明を加える。
「基本、同じ指揮者が違う部門の指揮をするのは禁止されているよ」
「それって、まじ!?」
航が目を見開いた。恵も呆気に取られた様子だ。真琴は、思わず声を呑んだ。
一方で、信二と美穂子は驚いた様子を全く見せなかった。信二が、落ち着いた様子で言った。
「指揮者はやっぱり、副顧問になるのか? 可能性は一番高いだろうしな」
「んーん。違うよ」
美穂子が首を横に振る。先程までの重い雰囲気は無くなっていた。
「多分、指揮者はねー……冬馬先輩だと思う」
(先生じゃなくて……先輩?)
真琴は耳を疑った。他の四人も同様だ。
「確かに冬馬先輩、金管のセクション練習では仕切ってたけど……指揮までやんの? 信じらんねぇなぁ」
「そもそも、先輩は何でB部門にいるんだ? A部門のメンバーじゃねーのか?」
航と信二が、眉間にしわを寄せながら疑問を口にした。恵は冬馬が分からない様で、皆に訊ねる。
「えっと〜……。冬馬先輩って?」
「フルネームは、坂井 冬馬。ホルン担当。実力は高いそうだけど」
泉が的確に答える。食べ終わった弁当箱を片付けながら話を聞いていた真琴は、ふと、一つの疑問が思い浮かんだ。
「あの……学生がコンクールで指揮するのって、大丈夫なの?」
「確かにそうだよなぁ。それって良いのかよ?」
航が真琴の言葉を受け、首を傾げた。
「多分、心配ねーよ」
信二がすぐさま返答した。泉が続けて説明する。
「吹奏楽コンクールの規定では、『指揮者の資格は問わない』とある。必ずしも、大人が振らなきゃいけないって事は無いみたい」
「大学だと、学指揮が振ってる所も結構あるよー。……中、高ではめったに見ないけど」
苦笑いをする美穂子。真琴は「へえ」と声を漏らす。驚きと納得が入り雑じった声だった。航と恵も、真琴と同じ様に声を漏らした。
その光景を見ていた信二は、思い出したかのように切れ長の目を見開く。美穂子に向かって声を掛けた。
「渡辺。冬馬先輩が何でB部門の指揮をする事になったか、知ってるか?」
「それ、おれも気になってた。まさか、副顧問が指揮出来ないからって、冬馬先輩に押し付けたんじゃ」
航の言葉に、美穂子は呆れ顔だ。
「もう、先生に失礼な人だなー。先輩の方から、B部門の指揮をしたいって言ったんだって」
これには、五人全員が驚いた。
「何で自分から?」
真琴が訊くと、美穂子は知らないと言った風に首を横に振った。
「それは、ウチもよく分かんないけど。よっぽど、指揮をしたかったんじゃないかなー」
「何つーか……」
言葉が詰まった航の後を、恵が引き取る。
「その先輩って、変わり者なんだね~」
真琴達は、恵に同意するように頷いた。
昼食の後は、B部門チームの初めての合奏だった。
合奏体形に並んだ皆は、音だしをしながら指揮者を待っていた。
指揮者から見て右側の一番端に、真琴はコントラバスを抱えて立っている。一生懸命弦を弾くが、弦を擦る音が微かに聞こえるだけだ。
(あんまり、聞こえないな)
二十近くある管楽器が、別々の音を一斉に吹いている。たった一つの弦楽器の音が埋もれるのも、無理はなかった。コントラバスだけ、練習場所が楽器倉庫である理由が、改めて解った気がした。
弓で弾きながら左耳を指盤に近付けて、もう一度、小さな弦の音を聞こうとする。和室の襖を開けた音がしたのは、ちょうどその時だった。
真琴は真っ先に弓を止める。襖の方を向くと、肩幅が広い少年が目に入った。
見た瞬間、ほかの部員には無い、特別な雰囲気を感じた。
少年に気付いた部員が、次々と吹くのを止める。今まで騒がしかった音が、次第に静まっていく。
少年は堂々と歩く。指揮台に上がると、白い歯が見える程の笑顔を見せて、元気ではっきりとした声を上げた。
「こんにちは!」
あまりの元気良さに、一瞬ぽかんとする真琴達。すぐに気を取り直すと、挨拶を返した。少年につられ、大きな声になっていた。
「おう、元気良いな」
少年は、相変わらずの笑顔で部員を見回すと、自己紹介を始めた。
「今回B部門の指揮をする事になった、坂井冬馬だ。よろしくな!」
白い歯が一瞬光った気がしたのは気のせいかと、真琴は思った。
「もう、チューニングはやったか?」
「はい!」
部員全員が、真顔で返事をする。冬馬は「皆、顔が固えぞ~」と、苦笑いしながら言った。
「早速、合奏に入ろう。まずは一回通すぞ」
部員が再び返事をすると、冬馬は指揮棒を上げる。その瞬間、冬馬の目付きが真剣になった。
真琴達部員が冬馬をじっと見つめる中、指揮棒が静かに振り上げられた。