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ブルーの低音  作者: 綾野 琴子
第4章 波乱
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2 雨の日のオーディション

 空が灰色の雲に覆われ、人が朝から傘を差している日に、オーディションは行われた。

 多目的ホールの中から聞こえるファゴットの音を余所よそにして、真琴は、虹館ロビーの窓から外を覗いた。雨が降り注ぐ独特の涼しい音が聞こえる。コンクリートの地面も、普段の薄い灰色から、濃い灰色に変わっていた。

(なんか、憂うつ……)

 真琴はため息をつく。オーディションの順番が近づくにつれ、今見ている灰色の風景と、全く同じ気分になっていた。

「マコちゃん、大丈夫?」

 真琴の背後から、治美が話しかけてきた。振り向いて、「はい、なんとか……」と答える。本当は、大丈夫ではない。

「とにかく、リラックスだよ! 肩が固くなってるから、ほぐしてね!」

「は、はい」

 そういえば、不安と緊張で身体が固まっている感覚があった。真琴は、ゆっくりと肩を伸ばし始める。

 数分後。多目的ホールから、ファゴットの音が聞こえなくなった。

「ファゴット、終わったみたいだね〜。次はあたし達だよ!」

「そうですね……」

 真琴と治美は置いてあったコントラバスを立て、両手で持つ。それから、多目的ホールの扉に近づいた。

 あまり待たないうちに扉が開いた。中から、ファゴットの先輩と律が出てくる。すれ違った瞬間、真琴は律と目が合った。

 律は足を止め、真琴に向かって小さく口を動かす。その後再び歩きだし、近くにある階段を駆け上がった。

(頑張れ)

 微かな声量だったが、確かに律はこう言った。真琴は律の言葉を胸に止めながら、治美に続いて多目的ホールの中に入る。

 扉を閉めてから前を向き直すと、少し遠い所に明仁、理沙子、湊太、OBらしき人が座っていた。明仁達の真剣な表情を見て、真琴は、身体が再び固まるのを感じた。

 理沙子は、真琴と治美をじっと見つめる。そして、普段以上にきびきびとした声で話し始めた。

「では、これからコントラバスパートのオーディションを始めます。まず、一番の方から弾いてもらいます。一番の方は、前に出てください」

 治美が、背筋を伸ばして前に出ていく。真琴には、治美の背中が大きく見えた。

「じゃあ、最初にB♭(べー)音階を弾いてもらおうか」

 治美は明仁の言葉に頷くと、落ち着いてコントラバスを弾き始めた。

(すごいなあ、先輩は……)

 治美の物怖じしない態度を見て、真琴は思わず感心する。同時に、心臓の音が大きくなっていった。何となく、苦しいと感じた。


 約五分後、治美の演奏が終わった。治美は礼をすると、コントラバスを持って後ろの方に下がっていく。

「次に、二番の方、お願いします」

 理沙子の言葉に、真琴の緊張が一気に高まった。

「はい」

 真琴は返事をする。一生懸命声を振り絞ったつもりだったが、思ったより小さく、かすれた声になった。それから、コントラバスを持つ。コントラバスが、いつもより重くなったように感じた。

 心臓の音がバクバクと鳴る。さらに、真琴を見つめる明仁達の視線。足が進まない。

(嫌だ、弾きたくないな……)

 暗い思いが頭の中を駆け巡る。逃げたい気持ちを抑えて、重い足を引きずった。

 何とか明仁達の前に立ち、ぎこちなく礼をした。明仁が口を開く。

「田中と同じように、B♭(ベー)音階をまず弾いてくれ」

「はい」

 小さな声で答え、弓を構えた。しかし、心臓の振動がコントラバスに伝わって揺れる。手と足が震えて、体の自由が利かない。自分の身体じゃないような気がしてきた。

(早く、弾かないと)

 焦れば焦る程、身体が固くなっていく。明仁達がじっと見つめる。焦る。また、身体が固くなる。悪循環の繰り返しだ。

 なかなか弾けない真琴と、真琴を待つ明仁達。部屋中が静まり返っていた。地面に打ち付ける冷たい雨の音が聞こえる。

 真琴は、泣きそうになるのをこらえながら、やっとの思いで弓を弦に引っかけた。シのフラットが弱々しく鳴る。次に弾いたドの音も、完全に低くなってしまった。

 焦りと緊張が混ざり合って、真琴の頭の中でぐるぐると廻る。次第に、頭が真っ白になっていった。


 何もかも解らないうちに、真琴の演奏は終わった。礼をする。早く帰りたいと思った。

 湊太が「コントラバスパートのオーディションは終わりです。練習に戻っていいですよ」と言った瞬間、真琴はコントラバスを持って素早く歩き始めた。治美は目を丸くしながらも、真琴について行く。

 扉を開けて多目的ホールから出ると、悠輔、信二と鉢合わせした。

「真琴、お疲れ~」

 悠輔が手を振る。真琴は精一杯笑って手を振ると、すぐに目を逸らして、再び歩き出した。真琴の背中を、悠輔と信二が見ている気がした。

 ロビーの隅に行き、悠輔達の方を見ないようにして、コントラバスを黒いソフトケースに入れた。そして、茶色のローファーに履き替え、玄関を出た。

 急いで、濃紺色の屋根になっている楽器倉庫に戻る。毛布と傘でコントラバスを雨から守っていたため、真琴自身は濡れてしまっていた。コントラバスをゆっくり置くと、そのままパイプ椅子に座り込む。

 真琴の後を追って、治美も楽器倉庫に入る。

「マコちゃん……?」

 心配しているような治美の声を聞いて、真琴は顔をうつむかせた。同時に、目頭が熱くなり、涙が頬を伝う。

「すみません……」

 何故か、謝罪の言葉が出る。それから、雨と涙で濡れた手を、強く握り締めた。

 しばらく沈黙が続いた後、治美は黙って、タオルを真琴の肩に掛けた。

「体、冷えちゃうよ? これで吹きなよ」

 言った後、治美は近くにあったパイプ椅子に腰掛け、静かに教則本を読み始めた。


 しばらくして、真琴はタオルを手に取った。顔を少し上げ、はっきりと口にする。

「……ありがとう、ございます」

 治美は優しく微笑み、「どういたしまして」とだけ言う。冷たい雨の音は、前より小さくなっていた。


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