2 雨の日のオーディション
空が灰色の雲に覆われ、人が朝から傘を差している日に、オーディションは行われた。
多目的ホールの中から聞こえるファゴットの音を余所にして、真琴は、虹館ロビーの窓から外を覗いた。雨が降り注ぐ独特の涼しい音が聞こえる。コンクリートの地面も、普段の薄い灰色から、濃い灰色に変わっていた。
(なんか、憂うつ……)
真琴はため息をつく。オーディションの順番が近づくにつれ、今見ている灰色の風景と、全く同じ気分になっていた。
「マコちゃん、大丈夫?」
真琴の背後から、治美が話しかけてきた。振り向いて、「はい、なんとか……」と答える。本当は、大丈夫ではない。
「とにかく、リラックスだよ! 肩が固くなってるから、解してね!」
「は、はい」
そういえば、不安と緊張で身体が固まっている感覚があった。真琴は、ゆっくりと肩を伸ばし始める。
数分後。多目的ホールから、ファゴットの音が聞こえなくなった。
「ファゴット、終わったみたいだね〜。次はあたし達だよ!」
「そうですね……」
真琴と治美は置いてあったコントラバスを立て、両手で持つ。それから、多目的ホールの扉に近づいた。
あまり待たないうちに扉が開いた。中から、ファゴットの先輩と律が出てくる。すれ違った瞬間、真琴は律と目が合った。
律は足を止め、真琴に向かって小さく口を動かす。その後再び歩きだし、近くにある階段を駆け上がった。
(頑張れ)
微かな声量だったが、確かに律はこう言った。真琴は律の言葉を胸に止めながら、治美に続いて多目的ホールの中に入る。
扉を閉めてから前を向き直すと、少し遠い所に明仁、理沙子、湊太、OBらしき人が座っていた。明仁達の真剣な表情を見て、真琴は、身体が再び固まるのを感じた。
理沙子は、真琴と治美をじっと見つめる。そして、普段以上にきびきびとした声で話し始めた。
「では、これからコントラバスパートのオーディションを始めます。まず、一番の方から弾いてもらいます。一番の方は、前に出てください」
治美が、背筋を伸ばして前に出ていく。真琴には、治美の背中が大きく見えた。
「じゃあ、最初にB♭(べー)音階を弾いてもらおうか」
治美は明仁の言葉に頷くと、落ち着いてコントラバスを弾き始めた。
(すごいなあ、先輩は……)
治美の物怖じしない態度を見て、真琴は思わず感心する。同時に、心臓の音が大きくなっていった。何となく、苦しいと感じた。
約五分後、治美の演奏が終わった。治美は礼をすると、コントラバスを持って後ろの方に下がっていく。
「次に、二番の方、お願いします」
理沙子の言葉に、真琴の緊張が一気に高まった。
「はい」
真琴は返事をする。一生懸命声を振り絞ったつもりだったが、思ったより小さく、掠れた声になった。それから、コントラバスを持つ。コントラバスが、いつもより重くなったように感じた。
心臓の音がバクバクと鳴る。さらに、真琴を見つめる明仁達の視線。足が進まない。
(嫌だ、弾きたくないな……)
暗い思いが頭の中を駆け巡る。逃げたい気持ちを抑えて、重い足を引きずった。
何とか明仁達の前に立ち、ぎこちなく礼をした。明仁が口を開く。
「田中と同じように、B♭(ベー)音階をまず弾いてくれ」
「はい」
小さな声で答え、弓を構えた。しかし、心臓の振動がコントラバスに伝わって揺れる。手と足が震えて、体の自由が利かない。自分の身体じゃないような気がしてきた。
(早く、弾かないと)
焦れば焦る程、身体が固くなっていく。明仁達がじっと見つめる。焦る。また、身体が固くなる。悪循環の繰り返しだ。
なかなか弾けない真琴と、真琴を待つ明仁達。部屋中が静まり返っていた。地面に打ち付ける冷たい雨の音が聞こえる。
真琴は、泣きそうになるのを堪えながら、やっとの思いで弓を弦に引っかけた。シのフラットが弱々しく鳴る。次に弾いたドの音も、完全に低くなってしまった。
焦りと緊張が混ざり合って、真琴の頭の中でぐるぐると廻る。次第に、頭が真っ白になっていった。
何もかも解らないうちに、真琴の演奏は終わった。礼をする。早く帰りたいと思った。
湊太が「コントラバスパートのオーディションは終わりです。練習に戻っていいですよ」と言った瞬間、真琴はコントラバスを持って素早く歩き始めた。治美は目を丸くしながらも、真琴について行く。
扉を開けて多目的ホールから出ると、悠輔、信二と鉢合わせした。
「真琴、お疲れ~」
悠輔が手を振る。真琴は精一杯笑って手を振ると、すぐに目を逸らして、再び歩き出した。真琴の背中を、悠輔と信二が見ている気がした。
ロビーの隅に行き、悠輔達の方を見ないようにして、コントラバスを黒いソフトケースに入れた。そして、茶色のローファーに履き替え、玄関を出た。
急いで、濃紺色の屋根になっている楽器倉庫に戻る。毛布と傘でコントラバスを雨から守っていたため、真琴自身は濡れてしまっていた。コントラバスをゆっくり置くと、そのままパイプ椅子に座り込む。
真琴の後を追って、治美も楽器倉庫に入る。
「マコちゃん……?」
心配しているような治美の声を聞いて、真琴は顔を俯かせた。同時に、目頭が熱くなり、涙が頬を伝う。
「すみません……」
何故か、謝罪の言葉が出る。それから、雨と涙で濡れた手を、強く握り締めた。
しばらく沈黙が続いた後、治美は黙って、タオルを真琴の肩に掛けた。
「体、冷えちゃうよ? これで吹きなよ」
言った後、治美は近くにあったパイプ椅子に腰掛け、静かに教則本を読み始めた。
しばらくして、真琴はタオルを手に取った。顔を少し上げ、はっきりと口にする。
「……ありがとう、ございます」
治美は優しく微笑み、「どういたしまして」とだけ言う。冷たい雨の音は、前より小さくなっていた。