0 春の終わり、夏の始まり
六月始めの土曜日。この日の活動は、大掃除だった。いらない物を捨て、整理整頓する。更に、楽器を磨き、綺麗にする。虹西高校吹奏楽部の恒例行事だ。
晴れ渡る空の下、青いトタンの屋根の建物から、少女の声が響いた。
「マコちゃん! 布取ってくれない?」
「はい!」
真琴は、近くに置いてあった、あじさい色の絹の布を掴んだ。声の主である治美に渡す。
「ありがとう~! あと、これでコンバス磨いて!」
治美は絹の布を受け取ってから、黄土色の液体が付いているタオルを持った。
真琴は再び返事をして、タオルをもらった。タオルから放たれる刺激臭に、一瞬顔をしかめる。
気を取り直して、コントラバスの体を拭こうとする。その時ちょうど、真琴の視界に治美が映った。真琴は治美の方をちらりと向く。
治美は、智貴が使っていたコントラバスを、丁寧に磨いていた。楽器を見つめる目線は、どこか優しげだ。
真琴は視線をコントラバスに戻し、そっと拭き始める。自然と、撫でるように磨いていた。
しばらくして、コントラバスを磨き終わった後。真琴は何となく、倉庫全体を見渡した。
棚には、古い管楽器。床には、トライアングルやタンバリン等の小物に、バスドラやドラムセット。コントラバスも三つ。楽器倉庫の、いつも通りの光景。だが、雰囲気がどこか違っていた。
「倉庫が広く感じる……」
「……やっぱ、原っち先輩がいないからね〜」
いつの間にか、智貴のコントラバスを拭き終わっていた治美が、どこか寂しげに言った。
定期演奏会前、倉庫の中で三人揃って練習していた時は、倉庫が狭いと何度も感じていた。智貴がいなくなった途端、倉庫が広くなったと感じるとは、全く思っていなかった。
「なんか、寂しいですね」
真琴は思わずつぶやく。この倉庫の中のように、心にぽっかり隙間が空いたような気がしていた。
「そうだね……。でも!」
治美は微笑み、さらに続ける。
「全く会えなくなるわけじゃないから! 先輩達、結構来てくれるし〜」
真琴は「えっ?」と声を漏らす。治美は説明を始めた。
「先輩達は、受験勉強の息抜きという理由でたまに部活に来るんだよ〜。後、コンクールや学園祭にも聴きに来てくれる事が多いから!」
真琴は目をぱちぱちさせた。それから、治美が言った事を思い返すと、次第に頬が緩んだ。口角を上げながら口を開く。
「じゃあ、コンクールも学園祭も頑張らないと……ですね!」
治美も「そうだね!」と返し、にっと笑った。
太陽が真上に昇った頃。真琴と治美は扉を開け、楽器倉庫から外に出た。
「うわ、眩しい……!」
真琴は目を細め、左手で日差しを造る。
「半袖でも良さそうだね〜、これは」
治美も、長袖ワイシャツを捲った腕で目を覆った。
「春は終わりですね……」
「これはもう夏でしょ〜。暑いし!」
真琴と治美は笑い合う。その時、虹館入口の方から、きびきびした少女の声が聞こえてきた。
「おーい、そこの二人!」
真琴、治美は一瞬びくっとした。それから前を向く。
遠方にいる少女は、柔らかそうな茶髪を一つに束ねていた。少女は続けて声を掛ける。
「あと少しで、吹コンの会議始まるよー!」
「分かった〜! りーちゃん、先行ってて!」
治美が大声で返す。りーちゃんと呼ばれた少女は頷き、一つに結んだ茶髪を揺らしながら、素早く走っていった。
「部長になってから、忙しそうだな〜。……じゃあ、あたし達も走るか!」
真琴が目を丸くしているうちに、治美は駆け足をし始めた。
「ほら、マコちゃんも走る! 吹コンの会議に遅れちゃマズイし!」
「先輩、待ってくださいよ!」
陽に照らされているアスファルトの上を、真琴も走り始める。伸び始めたダークブラウンの髪が、さらりと揺れた。
夏は、まだ始まったばかり。