12 泣いて笑って
『オレンジ』が終わった。同時に、大音量の拍手が響く。中には、三年生の名前を呼ぶ者や、「おめでとう!」と言う者までいた。
真琴は、観客の大歓声を聞きながら、ようやくはっきり見えるようになった目で、舞台下手側を見る。美雪は泣いているようだった。嗚咽を漏らしているように見える。和樹は笑っていたが、一瞬、手を目に当てていた。
観客の拍手が、やがて手拍子になる。誰かが「アンコール!」と言ったのを皮切りに、掛け声がホール中に広まった。まるで大所帯の合唱だ。
しばらく合唱が続いた後、明仁がどこからともなく現れ、マイクを口元に近付けて観客に話しかけた。
「皆さん、どうもありがとうございます」
明仁が話を始めてからしだいに、客席から掛け声と手拍子が鳴り止み、静かになった。その間に、三年生がそっと舞台裏へ退場する。自分の楽器を取りに行くのだ。
真琴は、移動する智貴達を何気なく見つめる。左隣にいた治美が、そんな真琴の顔を心配そうに覗き込んだ。
「真琴ちゃん、大丈夫!? 涙が……」
真琴は手を頬に当てる。すると、手のひらが濡れてしまった。
「あれ? こんなに泣いてましたっけ? わたし……」
急いで涙を拭う。今度は右腕が濡れた。それを見た治美が困ったように眉を下げる。
「ああ〜、何か拭くものがあればいいんだけどなあ〜」
「これならあるけど」
真琴と治美の間に、紺色無地のハンカチを持った右手が入り込む。後ろを振り向くと、智貴がいた。
「ほら、受けとれ。大丈夫か? 目が赤いぞ」
真琴は紺色無地のハンカチを手に取る。
「先輩も人の事言えませんよ〜! あと、何でハンカチ持ってるんですか?」
「たまたまポケットの中に入ってた」
「本当にたまたまですか!? それって」
智貴と治美が言い合っている間に、真琴は濡れた頬と右腕を拭き終えた。
「先輩、ありがとうございました」
真琴はハンカチを渡そうとして、智貴を見上げる。智貴の顔が映った瞬間、思わず目を丸くした。
智貴の目が赤かった。さらに、顔を擦ったような跡もある。初めて見る、智貴の顔だった。
「どういたしまして」
智貴はハンカチを受け取り、右側のポケットに突っ込む。そして、目を丸くしたままの真琴と視線を合わせた。
「オレの顔に何か……付いてるか」
智貴は苦笑する。真琴は、智貴を見ているうちに目頭が熱くなり、うつむいた。
「真琴ちゃん、大丈夫?」
治美が再び真琴に訊ねる。
「大丈夫、じゃないかも……」
「……どうして」
智貴が首を傾げながら聞く。
「先輩は……もう引退するんだと思ったら、なんか……」
そこまで言った所で、涙がぽろりとこぼれ落ちた。真琴は慌てて手を目に当てる。治美も我慢出来なかったのか、目を伏せた。
「田中も相原も、そんな顔するな。むしろ笑え」
智貴の言葉に、真琴と治美は目を見開いた。智貴は話を続ける。
「最後だからこそ、二人とも笑え。それで楽しく終わらせて、オレに華を持たせてくれないか?」
二人は一瞬、口をぽかんと開けた。そして、治美が「はい!」と返事をして笑顔になった。
「ほら、真琴ちゃんも!」
治美が真琴に促した。智貴もじっと真琴を見つめる。
真琴は一回うつむいた。涙をそっと拭う。それから、意を決して顔を上げ、精一杯笑って返事をした。
「……はい!」
智貴と治美は、真琴を見て目を細めた。そして、智貴が言葉をかける。
「二人とも。最後……楽しもうな!」
真琴と治美は智貴を見て、元気よく「はい!」と頷いた。前を向き直る。明仁の話が終わろうとしていた。
明仁はちらりと部員達を見る。皆の準備が終わったのを見計らってか、再び観客の方を向き、口を開いた。
「これが、最後の曲です。kiroroの『Best Friend』、どうぞお聴きください」
言い終わると、明仁は指揮台の上に登った。部員達を微笑みながら見つめる。部員達も、泣きはらした目で明仁を見る。ホール内に、一瞬の沈黙が漂った。
明仁は、ゆっくりと腕を振り上げた。部員は一斉に息を吸う。智貴、和樹、美雪の、最後の演奏が始まった。
静かに始まった伴奏の後、優しくて綺麗な旋律が、小川のせせらぎのように流れだした。部員が旋律の小川に身を委ねて、ゆったりと動く。
真琴は弾きながら、この『Best Friend』の演奏に暖かさを感じていた。小川の流れる広々とした野原に太陽の光が降り注いで、春特有のぽかぽかした陽気が漂うような、そんな居心地の良い暖かさだった。
なぜ、この演奏に暖かさを感じるのか、真琴は分かったような気がした。皆が一音一音に心を込めて吹き、叩き、弾いているから。そう思った。
曲がサビに入ると、智貴が、和樹が、美雪が、そして皆が思いの丈をぶつけるように、懸命に吹いた。旋律、装飾、伴奏、全ての音符が歌う。
観客も、曲に合わせて手拍子をしていた。歌っている者もいた。部員の親だろうか、涙を流している者もいる。いずれの観客も、舞台を見る眼差しは優しい。
いつの間にか、ホール全体が、暖かさに包まれていた。
皆が春の暖かさを感じているうちに、『Best Friend』が終わった。最後の音が鳴り終わると同時に、大音量の拍手がホール中に響き渡る。
明仁は部員全員に目配せをする。「立て」の合図だ。部員達は一斉に立ち上がった。元々立っているコントラバスとパーカッションは、素早く観客の方を向いた。
部員が立ち上がると、拍手の音がますます大きくなった。部員達は観客を笑顔で見つめる。緞帳が下がり始めると、三年生が観客に向かって手を振った。
緞帳が完全に下がった。終わりのアナウンスが聞こえる。観客のざわめきと足音が聞こえる中、明仁が素早く指示を出した。
「三年生はすぐにホワイエへ向かえ! ちゃんとお客さんを見送ってこいよ~」
三年生は大きな声で「はいっ!」と返事をすると、舞台裏へと移動を始めた。
「じゃあ、コンバスの片づけよろしく」
智貴はコントラバスをそっと置くと、深呼吸をした。そして、真琴と治美の方を振り向く。相変わらず赤い目を細めて、すっきりとした顔で言った。
「あー、やりきった!」
智貴は思い切り笑う。それから、背を向けてホワイエに向かっていった。
真琴は、この時の智貴の言葉と笑顔を、忘れる事が無かった。