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ブルーの低音  作者: 綾野 琴子
第3章 三年生
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10 『伝説のアイルランド』

 クラシックステージはすでに半分を越え、三曲目も終わりに差し掛かろうとしていた。

 真琴はというと、まだ廊下のスピーカーから離れず、曲を聴いていた。智貴達が奏でる音楽に、すっかり夢中になっていたのである。

 天井にあるスピーカーを見つめ、耳を傾ける。すっかり、曲を聴きこんでいた。しかし、真琴は直後に、現実に引き戻される事となる。

「真琴!」

 毎日聞いている少女の大きな声が、いきなり真琴の左耳に入ってきた。真琴ははっと気付く。すぐに左を向くと、望実、信二、律が側に立っていた。

「まさか、ずっとここにいたの?」

 望実の問いに、真琴は首を縦に振る。信二が苦く笑った。

「楽屋にもテレビがあったんだから、そっちで聴けばよかったのに」

「あ……そうだった!」

 そもそも、楽屋に戻るという考えさえ思い浮かばなかった。真琴は手で頭をかく。同時に、三曲目の最後の音が響いた。

 拍手が鳴り終わった後、律が静かに口を開く。

「……よっぽど、演奏を聴くのに集中してたんだ。……すごいな」

 律は感心したように、真琴をまっすぐ見つめる。真琴は、嬉しさと恥ずかしさが入り交じって、思わず頬を赤くした。

 頬を隠そうとして手を当てた。その瞬間、疑問が思い浮かぶ。

「そういえば、何で三人でここに?」

「……鈴木を迎えるため、かな。バスパートの一年で」

 律の後に、信二、望実と説明が続く。

「鈴木は課題曲と自由曲に出ただろ? 三曲目も終わるから、そろそろ戻ってくる。だから、皆で迎えに行こうって」

「なのに、真琴が見当たらないなぁと思って。とりあえず廊下に出たら、すぐ近くにいるんだもん! しかも、全然あたし達に気付かないし」

 まさか、望実達が前から真琴の近くにいたとは思わなかった。一気に、望実達に気付かなかった事に対して、申し訳ない気持ちになる。

「ずっと、スピーカーばっかり見てたから……ごめんね?」

 ぺこりと頭を下げる真琴。信二は両手を横に振って、「別に、謝んなくていいぞ。全然気にしてないからさ」と返した。

「あ……鈴木が来た」

 律の言葉に反応して、真琴達は階段に目を向ける。階段を上がりきった悠輔は、真琴達に気が付くと、優しく微笑みながら手を振ってきた。

「ただいま〜。皆で迎えに来てくれたの?」

「うん、そう! おかえり!」

 望実が笑顔で言うと、真琴、信二、律も、それぞれ「おかえり!」と口にした。

「ありがとう! 演奏は……大丈夫だった?」

 律と信二が、真琴をじっと見つめる。真琴は二人の視線にどぎまぎしつつも、自分の感じた事を言った。

「すごく良かったよ! なんか……音、楽しそうだった」

「そうかあ。良かった〜」

 悠輔は胸に手を当て、安堵したようにため息をつく。その時、スピーカーから、司会者の女性の「最後の曲、『伝説のアイルランド』、どうぞお聴きください」というアナウンスが聞こえてきた。

 悠輔はスピーカーに目配せし、さらに続けた。

「最後の曲が始まるね。どうせなら、このまま皆で聴かない?」

 悠輔の提案に、真琴、望実、信二、律は大きく頷く。そして五人は、顔を上げて天井のスピーカーを見つめ、耳を傾けた。


 静かに始まった低音が、ティンパニと銅鑼を加えて、波のように押し寄せてきた。低音の波が最大になった所で、大地にぶつかったかのように音が打ち込まれ、同時にチャイムと鎖が響く。

 真琴は鎖が叩きつけられる音を聞いて、智貴がいつか話していたことを思い起こした。

「ここに出てくる鎖は、奴隷が引きずっている様子を表しているらしい……」

 智貴の言葉は一瞬で、真琴を曲の世界へといざなった。

 真琴は曲調の暗さからまず、夜をイメージした。星は見えなくて、暗闇である。かろうじて、月明かりがほんのりと、低音の大地を照らす。近くには荒々しい海。そして大地の上で、奴隷が、鎖につながれている足を引きずっている。真琴の中で、そのような光景が広がった。

 やがて場面は変わり、タムタムが静かに鳴る。そして、オーボエが先頭に立ち、独特の枯れた音で、どこか哀しげな旋律を奏で始めた。

 しばらくして、オーボエにフルートが重なる。それから、オーボエとフルートの下でファゴットが弾む。後から、金管が入って一気に音が増大し、軍隊の行進のようになった。

 行進とは言っても、明るいものではない。むしろ、哀愁を帯びている。だが、この軍隊の行進には、哀愁とは裏腹に、勇ましさも感じられた。

 曲は一回おとなしくなったが、再び金管が入り、行進が再開された。それから音は遠くに行き、代わりに軍隊の足音が聞こえてくる。だが、足音も次第に遠のいていった。

 軍隊が遠のく姿を見ていた真琴は、今度はハミングと、おそらく美雪であろうフルートの音に導かれ、神秘の世界へと入り込んだ。 高音から低音までの伸ばしとハミング、ウインドチャイムがなびくなか、二つのフルートが、優しく、そして寂しげな音色で歌う。幻想的、女性的といった表現が似合う場面であった。

 コーラスが、海岸にぶつかる波のように満ちたり引いたりし、後に全部の楽器が音を奏で、重厚な響きになった。真琴は聴いているうちに、神秘的な女性の、内にある力強さも感じたような気がした。

 曲は再び落ち着き、アルトサックスのソロが始まった。こちらも女性的な雰囲気を醸し出している。しかし、さっきの幻想的なイメージではなく、宮廷にいる貴族女性を思い起こさせるようなイメージだ。

 アルトサックスの貴族女性は、高貴なドレスを身にまとい、くるくると優雅に踊る。しかし、その踊りは、どこか気だるい。

 一人の女性の踊りに、周りの楽器も加わる。気だるい雰囲気を残したまま、大勢での踊りは次第にゆっくりになっていった。

 突然の打楽器の音に、真琴は宮廷から呼び戻される。そして、今度は戦場の場面なのだと感じた。

 打楽器が戦いの始まりを告げると、クラリネットが不協和音で音をぶつけ、不穏な雰囲気を作り出した。サックスによる宣戦布告。トランペットがそれに応え、意気揚々と士気を高める。

 トランペットが高らかに合図を出すと、次に低音が躍り出て、一気に攻撃的な雰囲気へと変わった。その上で、クラリネットとサックス、二つの民族が交互に仕掛ける。

 さらに場面は変わる。打楽器の音が、これから起こる悲劇を予感させるように響き渡る。

 多分和樹であったろう、ティンパニが沈黙を破って、再び戦いの始まりを告げる。金管と木管が交互に鳴り、やがて入り混じっていった。

 木管は、戦いの激化を象徴するように踊り狂う。金管は、まるで死者を弔う鎮魂歌のように、悲しく響く。二つの旋律は、螺旋のように交わっていた。

 戦いが頂点まで達すると、打楽器の力強い、息の合ったアンサンブルが展開された。そして、銅鑼の打ち込みが、戦いの終わりを示す。

 銅鑼が鳴り終わるか終わらないかの頃に、再び冒頭と同じように、低音の波が押し寄せてきた。

 真琴の中で、最初と同じ大地、海の風景が広がった。しかし、空模様が始めとは違う。真琴の目に映ったのは、夜の暗闇ではなく、水面から顔を出す太陽だった。夜明けの場面だ。

 夜明けから、いきなり場面が変わる。大地を震わせるような音が、高音、中高音、中低音、低音と重なり、さらにチャイムやティンパニが轟いた。

 一瞬だけ静まる。そこから、音が三重、四重になる。全員が勇ましく音を打ち込み、すべてが終わった。


 最後の音が響き渡った後、拍手の洪水が沸き起こる。これを聞く限り、和樹達の『伝説のアイルランド』がどんな演奏だったのか、すぐに想像がついた。

 真琴達は拍手の洪水を聞いて、さっきまでの緊張感が嘘のように身体から抜け落ち、何とも言えない虚脱感がした。スピーカーを見つめたまま、ぽかんと口を開けている。

 拍手の洪水が収まってゆく頃に、真琴がぽつんと呟いた。

「わたし達も……こんな演奏、出来たらいいな」

 望実、悠輔、信二、律が真琴の方を向く。皆、目を輝かせて、「うん!」と頷いた。

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