8 七海高校
定期演奏会本番。ついに、この日がやって来た。天気も快晴。絶好の演奏日和である。
神奈川やまゆりホールのホワイエへ、多くの人が入っていく。親らしき人や中学生高校生、お爺ちゃんお婆ちゃんや子供等、色んな人がいて、にぎやかな雰囲気だ。
そんなホワイエの入口にて、真琴は甲斐甲斐しくパンフレットを渡していた。何故こんな事をしているかというと、単にジャンケンに負けてしまったからである。
本来なら、受付は生徒会がする仕事だった。しかし当日になって、生徒会の事情により、人数が足りなくなってしまった。だから、急きょ一年生の中から、人数を補う事にしたのだ。
(一年生はたくさんいたのに、よりによってわたしが負けちゃうなんて……運悪いなぁ)
受付の手伝いを頼まれたのは、一年生二人。そのうち、望実は自分から進んで立候補したので、実質、枠は一人。その一人を選出するためのジャンケンで、真琴が負けた。だから、真琴は今、パンフレットを配っている。
かなり不服だったが、一度決まったものは変えられない。仕方がないと、真琴は諦めた。
(望実ちゃんは……)
自分から立候補して、チケットを切る係になった望実は、今どんな感じであろうか。そう思って、真琴は望実を見ようとした……と同時に、ふと、望実がいる方から笑い声が聞こえてきた。真琴は素早く、望実を見る。
望実は少年と話していた。望実と笑いあっている見慣れない少年は、真琴より年上らしい雰囲気を醸し出している。
(望実ちゃんの知り合い?)
望実の知り合いの話は聞いた事が無いが、きっとそうなのであろう。これ以上は特に気にせずに、真琴は再び、パンフレットを渡す仕事に集中し直した。
「相原さん」
生徒会の女の人に呼ばれて、真琴は顔を右に向ける。
「来客のピークはもう過ぎたし、吹奏楽部員は一回舞台に集まるんですよね? もう、戻って大丈夫ですよ。後は生徒会だけで足りそうですから」
真琴は、ホワイエにある壁時計を見た。時間は、一時四十分。確かに、そろそろ戻った方が良さそうだ。
「ありがとうございます。では、お先に失礼します」
礼を言って深くお辞儀をすると、生徒会の女の人は「定演、頑張ってくださいね」と、笑顔で返した。真琴も微笑み、軽く会釈をする。それから、振り返って歩き出した。
写真コーナーの近くまで来た時、真琴は足を止めた。
(そういえば、望実ちゃん……)
望実はまだ、仕事を終えていないようだった。こういう時、望実を待った方がいいのか、それとも先に行った方がいいのか。真琴は「うーん」と唸りながら考え込む。
しばらくして、やっぱり望実を待とうと結論づけた……その時だった。急に、関西弁が大声で聞こえてきたのだ。
「個性的すぎるっちゅーねんな!」
真琴はその声に思わず驚いた。そして、声の聞こえた写真コーナーの方に、素早く顔を向ける。するとそこには、先ほど望実と話していた、大笑いしている少年と背が高めの少年、更に少女が二人いた。
背が高い少年と、彼の隣にいた少女がクスクス笑う。だが、我慢が出来なくなったのか、少年少女はすぐに大笑いになった。こちらも、よく通る笑い声だ。
からかわれたのは、関西弁を話す少年の隣にいる少女のようだった。心なしか、顔を真っ赤にしているように見える。その少女は、思い切り関西弁の少年の背中を叩きながら、こう叫んだ。
「なっ、何よ! 人のことバカにしてぇ! ムカつくー!」
「痛い痛い! やめんか、みんな見てるわ!」
関西弁の少年の言葉にびくっとしつつも、真琴は目を離す事が出来なかった。それだけ、真琴にはインパクトが強すぎたのだ。
会話のノリと高いテンション、そしてよく通る大声、笑い声。全てが真琴とは違っていた。真琴は四人に戸惑い、こんな事を思う。
(なんだろあの人たち……。あのテンションは……うわぁ……ちょっとありえないかも)
そうして四人を見ていると、偶然、関西弁の少年と目が合ってしまった。
真琴の心臓が飛び上がる。そして気まずくなって、少年から目を逸らした。悪い事はしていないのに、何故か罪悪感にかられる思いがする。
足を動かす事が出来ずにそのまま突っ立っていると、遠くから、仕事を終えたらしい望実の声が聞こえてきた。
「まっことー!」
「あぁ、うん……」
真琴は力なく応えるが、望実は気にする様子がない。更に言葉を続けた。
「あのね、そこにいる人たち、七海高校の人たちなの!」
「ふぅん……」
「前に話した、西嶋先輩がいらっしゃる高校! 今日、全員で聴きに来てくださったんだ」
「全員なんだ」
望実が話す驚きの事実にも、真琴は心ここに非ずといった様子で返した。何となく気まずいので、早く舞台に戻りたいといった思いが強かった。
望実はその後も色々話したが、真琴はほとんど、望実の言葉が耳に入らなかった。ただ一つだけ、記憶に残った言葉がある。
「さっきチケット切ってる時に聞いたんだけど、あの関西弁を話す人、佐野 翔さんって言うんだって!」
佐野 翔。その部分は耳に入った。そして、佐野翔という人は望実の知り合いではなかったのかと、ぼんやりした頭で考えた。
(……ん?)
ふと、自分と望実以外の人の気配を感じた。恐る恐る、顔を左に向ける。すぐ近くに、関西弁の少年……もとい、佐野 翔がいた。隣には、さっき彼の背中を叩いていた少女。更に、後ろには何人かの七海高校吹奏楽部員達。
「わっ!」
思わず声を出してしまう。そして、びくびくしつつ、翔の顔を見た。
小さくはない一重の目とスッと通った鼻筋。全体的に整っていて、誰もが好感を抱きそうな顔をしていた。真琴は、そんな翔の顔を見て、少しだけ警戒心を解く。
翔はおずおずと、遠慮がちに話しかけた。
「あの~……虹西高校の人ですか?」
「はい……そうですけど」
真琴がそう答えた瞬間、翔は目を細くして笑った。
「やっぱり! いやぁ、彼女にはホンマ感謝してるんです!」
翔がそう言った後、翔の後ろにいた七海高校吹奏楽部員達が、望実に向かって深々とお辞儀した。
翔の言葉と部員達のお辞儀に、望実が照れた様子で頭をかく。
「いやぁ、そんな大したことは……」
「もしかして……チケット五十枚の話?」
真琴が訊ねると、望実は笑顔で「うん!」と答えた。そして、望実はふと、翔の隣にいる少女を見る。真琴もつられて少女を見た。少女と真琴、望実は目が合う。
二重でクリッとした、大きな目。そして、肩まで伸ばしたさらさらの髪。形の整った鼻とふっくらした頬、薄い唇。どこかで見た事があるような顔だと、真琴は思った。
少女は二人を見つつ、笑顔で自己紹介を始めた。
「初めまして。あたし、七海高校トランペットの、朝倉 陽乃っていいます」
「あたしは浜田って言います! 西嶋先輩にはお世話になりました!」
望実は、はきはきと元気よく答えた。
「あ、そうだ。彼女なんですけど、ほら、名前!」
望実がいきなり、真琴を陽乃の前に引っ張っていく。真琴は、突然の事に目を丸くした。
陽乃の正面に立った後、真琴は改めて陽乃を見た。口が乾いているのを感じながら、懸命に声を絞り出す。
「あ……相原 真琴です……」
やはり声が小さくなってしまった真琴に対し、陽乃は優しく語りかけた。
「相原さん……。楽器は何やってるの?」
「コントラバスを少々……」
翔が、大きくて茶色いその低音楽器の名前に反応し、嬉しそうに言った。
「おぉー! みーやんと貴ちゃんと同じやな」
「はぁ……」
真琴は小さな声で応えつつ、陽乃の方をちらっと見た。陽乃とは、初めて会った気がしない。そう感じていた。
真琴達のやりとりを聞きながら壁時計を見た望実が、「あっ」と声を出した。
「真琴。そろそろ行かなきゃ」
「あ、ホントだ」
時計の長い針は「49」を指していた。皆が舞台に集まり始めている頃だろう。
「それじゃあ皆さん! 是非楽しんで行って下さいね!」
「おう! おおきに!」
望実は翔の言葉を聞いてにこっと笑い、更に「それじゃ、あたしたちは失礼します」と言った。
「行こう、真琴!」
望実が真琴を促しつつ、走り出す。
「うん……」
真琴は陽乃が気になりつつも急いで会釈し、望実の後を追おうとして足を動かした。
「あ!」
後ろから、陽乃のよく通る声。真琴は思わず立ち止まり、ちらっと後ろを振り向く。
陽乃は微笑んで、真琴に向かってこう言った。
「あの……頑張ってね!」
真琴は目をぱちぱちとさせた。それから、何故か懐かしさを感じて、心が暖かくなった。真琴は自然と微笑む。今度は大きな声で、はっきりと応えた。
「はい! ありがとうございます!」
真琴は振り返り、再び走り出す。その足取りは、今までにないくらい軽快だった。
佐野翔君と朝倉陽乃ちゃん、初登場です。にっくんさんの「奏」の「虹西高校」の話とリンクしていますので、ぜひそちらも読んでみてください。