6 音楽万才
木曜日。大きな謎が残ったまま、二日が過ぎていた。
あの後、何度か智貴、和樹、美雪に訊ねようとした。しかし、和樹と美雪はパートが違うという事もあって、なかなか話しかける機会が無かった。
智貴とも、スケジュールの関係であまり話せない。たまに訊けるような時間があっても、練習に集中している智貴の眼を見ると、練習の邪魔をしてまで訊く事ではないと思って、言い出せなかった。
「結局、このまま分かんないのかも」
真琴の呟きは、倉庫中に広がっていった。よく考えると、二つの謎は、別に急いで知るべきものでもない。なら、忙しい今の時期に尋ねるのは、止めた方がいいのではないかと、真琴は考えていた。
しかし、智貴達三年生が引退したら、ますます接点が無くなってしまうという事は分かっていた。最悪、謎が解決しないまま、智貴達が卒業してしまうという可能性もある。
「それはそれで……仕方ないのかな」
真琴は、軽くため息をついた。そして、曲の練習に戻るため、気を取り直してコントラバスを構え直す。その時だ。
「真琴!」
呼ぶ声が聞こえたと同時に、倉庫の扉が勢いよく開いた。真琴は振り向く。視界に写ったのは望実であった。
右手を胸に当てて、苦しそうに息をする望実。よっぽど急いで走ってきたのだろう。
「望実……ちゃん? どうしたの? そんなに急いで」
戸惑い気味の真琴の言葉を遮って、望実はまくし立てた。
「真琴、忘れたの!? 今からクラシックステージのリハーサルだよ!」
「……あ!」
真琴はすっかり、今日の予定を忘れていた。
定期演奏会まであと三日と迫っている。だから、この日からリハーサルを重ねていき、曲の完成度を高めるのだ。
今日は、第一部で演奏する『ヴィヴァ・ムジカ!』等、四曲のリハーサルをする。一年生は、経験者以外第一部には出ないが、観客役として演奏を聴く事になっていた。
「一年で虹館に来てないの、真琴だけだよ? 早く行こ!」
真琴は、冷や汗をかきつつ、首を縦に振る。焦る気持ちを抑えながらコントラバスを置き、弓を緩めた。
虹館の多目的ホールに入ると、望実の言った通り、一年生は全員揃っていた。真琴と望実は静かに歩いて、一番端の椅子にそっと腰かける。
真琴達が座ったのを見計らったかのようにタイミングよく、学生指揮者の男子が指揮棒を上げた。智貴、和樹、美雪達三年生部員が、真剣な表情で一斉に指揮者を見る。
指揮者は、棒を力強く振った。――『ヴィヴァ・ムジカ!』の始まりだ。
ティンパニの勇ましい一発と同時に、トランペットが輝かしく鳴った。その後を追うように、木管楽器の音が上昇していく。音が一番上までいった所で、トランペットと、他の金管楽器も鳴り出した。
しばらく金管と木管のきらびやかなメロディーが続いた後、曲が落ち着いていった。真琴が好きな所だ。クラリネットや、美雪が吹くフルートの音達がなだらかに流れ、その下でコントラバス、チューバなどの低音楽器が静かに支える。
真琴は木管の掛け合いを聞いて、春風を連想していた。木管の涼しく、それでいて暖かい音色は、春が来た事を伝える、優しい風のようだった。もっとも、「音楽万才」という意味の曲を吹いているのだから、この場合、音楽の喜びを伝えるそよ風と言った方が、しっくり来るかもしれない。
低音楽器は、智貴の音を中心として、木管のそよ風に呼応するように弾んでいた。心の奥底で、静かに音楽を楽しみ、また、喜んでいる……真琴には、低音の弾みがそんな風に聞こえていた。
静かな喜びの場面が終わると、今度は金管楽器によって光が加えられた。そしてホルンの、喜びを歌う朗らかなメロディーが始まる。
再び、木管によるそよ風。途中で低音が加わり、木管と共に弾みだす。そしていきなり、トロンボーンなどの金管低音が飛び出し、さらにトランペットと木琴が出て来て、やがて金管と木管が交わっていった。
全員で喜びを歌う。それから、木管に歌が移ると、曲調は太陽のような明るさから、夕暮れのような物淋しい雰囲気へと変わった。しかし、そのすぐ後に、朝日が昇るような、眩しい金管の音が響いていく。
再び鳴る金管のメロディーに、今度は和樹が叩く鉄琴が加わった。喜びが二重に歌い上げられる。和樹が嬉しそうに叩いているのを見て、真琴は気分が高揚していくのを感じた。
曲が終わりに近づくと、全員が高らかに奏で始めた。三年生全員から、音楽を楽しむ、明るい雰囲気が出る。これには、真琴を始めとした観客達が、胸の高鳴りを抑えられなかった。
最後の打ち込みがぴたっと決まった。体の動きを止める指揮者と奏者達。真琴達も思わず、息を潜める。しばらくの沈黙。
指揮者が指揮棒を動かし、奏者達に立ち上がるよう促す。奏者が立つと同時に、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
クラシックステージのリハーサルが終わった後。真琴は、智貴と治美を待ちながら、コントラバスの体を布で拭いていた。
楽器を弾くと、当たり前だが、指紋や汗が付く。それらを放っておくと、水分に弱いコントラバスには、大きなダメージとなる。だから真琴は、丁寧に、優しく拭く。
弦に付いた松ヤニを取り、ソフトケースに入れている途中で、智貴と治美が倉庫に帰ってきた。
「真琴ちゃん! ただいま~」
中に入るなり、治美が話しかけてきた。真琴は会釈しながら、治美に「お疲れ様です!」と返す。
後から入ってきた智貴は、真琴をちらっと見た。そして、小さな声で「お疲れ」と言い、何か話そうとしたのか、口を開きかけた。しかし、すぐに口を閉じ、眼を反らす。
数十秒間、倉庫の中が静かになる。治美が、その空気に耐えられなくなったのか、沈黙を破った。
「先輩~! さっきの決意はどうしたんですか?」
「いざ話すとなると、緊張して……」
真琴は最初、智貴と治美が何について話しているのか、分からなかった。だが、すぐにある事を思い浮かべた。
「あの、先輩」
智貴と治美が、同時に真琴の方を振り向く。
「そんな……今、話さなくてもいいですよ。定演後にでも……」
「いや……」
真琴の言葉を制して、智貴が口を開いた。
「やっぱり、今話しときたい。定演後じゃ、意味ないから」
智貴は一旦話を切る。そして、意を決したように真琴を見て、少しずつ話し始めた。真琴は目をぱちぱちさせながら、智貴の意外とも思える話に耳を傾ける。
どのくらい時間が経っただろうか。話は短く感じたし、また、長く感じた気もする。
「まさか、そんな事が……」
智貴の話が一通り終わった後。しばらくしてから、真琴が思わず声を漏らした。
「驚いただろ?」
智貴が苦笑いをする。ぽかんと口を開ける真琴の横で、治美が当時の事を思い出しているかのように、腕を組んで、「うんうん」と頷いていた。
「正直……あの時期の事、後悔してる。時間の無駄だったかなって思う」
智貴は声を落とし、憂いを含んだ表情になった。しかし、すぐに「でも……」と、声を上げる。
「その分、今頑張ってるって言えるから。この仲間と音楽するの、楽しいと思うし」
言い終えると、智貴は口角を上げて、優しい瞳で真琴と治美を見つめた。
「……さっきの演奏を聴いて、その気持ちが、すごく伝わってきました」
真琴はそう返しながら、三年生が『ヴィヴァ・ムジカ!』を演奏した時の事を思い出した。
曲が落ち着き、木管のそよ風の下で低音が弾んでいた時。真琴は何気なく、智貴の方を見てみた……その瞬間、真琴は目を見開いた。
智貴は、今、真琴達に向けているような優しい笑顔をしていた。そして、身体をコントラバスに預け、自然に、ゆったりと体を動かしていたのだ。
そんな智貴を見て、きっと、心から演奏を楽しんでいるのだろうと、真琴は感じたのである。
「今の先輩は、まさに曲の名前通り、『音楽万才』って感じですよね!」
治美が、嬉しそうに言葉を弾ませた。さらに続ける。
「昔がどうであろうと、今が良かったら、それでいいんですよ~! 分かりましたか?」
真琴と治美が智貴を見つめる中、智貴がぽつりと呟いた。
「うん……そうだな」
智貴はにっと笑う。智貴を見て、真琴と治美も頬を緩ませた。
今回出てきた「ヴィヴァ・ムジカ!」の曲描写は、あくまで一人の素人から見た解釈であり、この解釈は絶対に合っている……というものではありません。そこの所、ご了承ください。「こんな見方もあるのか」位に思ってくれれば幸いです。