5 謎が増える
リハーサルから二日後の火曜日。青々しい空の下で、真琴が倉庫の扉を開けて中に入っていった。
「こんにちは!」
元気よく挨拶をする。治美と智貴がコントラバスを弾く手を止め、真琴の方を見た。
「真琴ちゃん、こんにちは~!」
笑顔になって手を振る治美。親しみやすい雰囲気が漂う彼女に、真琴はいつも安心感を覚える。
「こんにちは」
静かに話す智貴。言葉は短いながらも、優しげな瞳で真琴を見て小さく手を降っている。一見、クールな印象で感情を表に出さなそうな智貴だが、意外と感情表現が豊かだと、真琴は思っていた。
「真琴ちゃん。今日はあたしたち、四時半から合奏に行くから! ポップスの合奏は五時半からだから、真琴ちゃんはその頃に来てね〜」
「あっ、はい!」
真琴が返事をすると、治美は笑顔で頷いた。そして、コントラバスをソフトケースの中に入れ始める。
「先輩。あたし、先に虹館に行ってますから、先輩も早く来てくださいね!」
智貴に向かって言った後、治美はいつの間にかケースに入れ終わっていたコントラバスを持ち、早足で倉庫を出て行った。
治美を見送った後、真琴は何気なく智貴を見た。智貴も真琴の視線に気付いたように、真琴の方を振り向く。
「……オレの顔に、なんか付いてる?」
真琴は慌てて「いえ、何も付いてません!」と返した。素早く智貴から視線を戻し、コントラバスをケースから取り出す。
真琴はコントラバスを出しながら、もう一度静かに智貴を見る。その瞬間、日曜日に起こった事が頭の中に思い浮かんだ。
リハーサルの日の昼休み。虹西高校吹奏楽部が早く引退する理由を聞いた後、真琴は和樹と美雪に、再び尋ねていた。
「そういえば……、先輩達は何で、そんなに詳しいんですか?」
和樹と美雪は、きょとんとした表情を見せる。
「だって、虹西高校の歴史をやけに細かく話してたし、吹奏楽部の経緯も隅々まで知っていましたよね? どうしてそんなに分かっているんですか?」
真琴の疑問に対し、美雪が何かを思い出したように話し出した。
「確か……約三年前の事だったかな? 本当に懐かしいわね~」
「今思えば、すごい偶然だったよね」
和樹も感慨深そうに話す。真琴には、何の話か見えてこない。どこか置いてきぼりにされたような気がした。
「あの……?」
真琴がもう一度訊き直そうとする。しかしその直後、真琴達の後ろから声が聞こえてきた。
「話が盛り上がっている所、悪いんだけど」
三人は目を開き、同時に後ろを振り返る。階段の一番上に、智貴が左手にコントラバスを、右手に譜面台を持って立っていた。和樹が声を上げる。
「原っち!? いつからそこに?」
「確か、相原が『先輩達は何でそんなに知っているのか?』って聞いたときから。まあ、コンバスを弾いている時から、和樹達三人が話しているのは聞こえていたけど」
真琴は(やっぱり、聞こえていたのか……)と思った。
「で、さっきの話の事だけど……オレも知ってたよ、うちの吹部の引退理由」
真琴は思わず、「えっ!?」と口にした。和樹と美雪も、驚いたようにして智貴を見つめる。
「相原、最初にオレに聞けば良かったのに」
真琴は何も言う事が出来ずに、口をつぐんだ。
「んー……まあ、いいや。ちょっとそこ通るよ」
気付けば、真琴、美雪、和樹が階段の横に並んでいて、智貴を通せんぼうしているような形になっていた。三人は急いで踊り場の隅に張り付く。
智貴は「ごめん」と謝りながら、コントラバスと譜面台を持って踊り場を通り過ぎた。その瞬間、真琴の方をちらっと振り向く。何か言いたそうにしていたが、すぐに視線を元に戻して階段を降りていった。
智貴が見えなくなった後、真琴は胸を撫で下ろして呟いた。
「はあ……緊張した~」
真琴は思わず、その場に座り込む。
「……真琴ちゃん。ちょっといい?」
美雪がしゃがんで、真琴に話しかけた。
「はい、何ですか?」
「真琴ちゃんは治美ちゃんにも、虹西吹部の引退の理由を聞いてないの?」
「……いや、治美先輩には聞きました」
「じゃあ何で、原っちには聞かなかったの? 原っちには話しかけにくいとか……?」
「そういうのじゃ、ないです」
美雪が考えた事をすぐに否定した。そして、「ただ……」と口を開く。
「もしかしたら、聞いちゃいけないかもって思ったんです」
真琴は立ち上がり、この前の智貴の様子を話した。望実は智貴とあまり接点が無いので、智貴の様子を話して良いのか迷った。だが、和樹と美雪は智貴と同級生であり、気心の知れた関係である。二人なら、あの時の智貴の事を話しても大丈夫だろう。そう考えたのだ。
「……智貴先輩のどこか哀しそうな顔を見たら、過去に何かあったんじゃないかとか、色々考えちゃって。だから、引退関係の話は出来ないなぁって。考えすぎだとは思うんですけど……」
真琴の話が終わった後、和樹が口に手を当て、何かを考えている素振りを見せた。そして、ゆっくりと口を開く。
「真琴ちゃんが感じた、『過去に何かあったのか』という部分については、当たってるよ」
思わぬ返答。真琴は目を大きく見開いて、和樹を見た。
「原っち、半年前は色々あったのよね」
美雪が意味深な事を口にする。
「そうそう。原っちは昔……って、うわ!」
和樹はいきなり驚いた様子を見せた。
「和樹、どうしたの?」
「あと十五分で、『ヴィヴァ・ムジカ!』の合奏が始まる!」
「えっ、そうなの!? 話に夢中になって、時間をすっかり忘れてた!」
慌て始める和樹と美雪を見て、真琴はただ呆然とする。
「美雪、先にホールに行って、フルートの準備をしなよ!」
「分かった!」
美雪は手を振って「真琴ちゃん、またね!」と言いながら、階段を急ぎ足で降りていった。
「僕も行く前に……真琴ちゃんに少しだけ話すよ」
和樹は、細長い体を真琴と同じ位の高さまでしゃがませて、目線を合わせた。
「原っちは昔、大きな苦労をしたんだ。それは僕達や田中ちゃんも知ってるし、聞かれれば教える事は出来るよ。時間が来ちゃったから、結局話せなかったけどね」
和樹はその後すぐ、「でも」と付け加える。
「この事は本人から聞いた方がいいかもって、今思った。だから真琴ちゃん。今度、原っちに聞いてみなよ」
真琴は視線を下ろし、小さな声で「そんなの、無理ですよ」と呟いた。その事を聞いたら、智貴を苦しめるかもしれない……と思ったからだ。
「大丈夫だよ。原っち、きっと話してくれるから!」
和樹はすくっと立ち上がって、階段を降り始める。そして、もう一度真琴を見て、こう話した。
「原っちは、真琴ちゃんが考えているほど、引退を苦に思ってないよ。むしろ、前向きに捉えてる。だから、勇気を持って話しかけてみて!」
前を振り向いて、和樹は軽快に走っていった。真琴は和樹を見つめる。
和樹が見えなくなった後も、真琴はしばらくその場に佇んだ。
「相原、大丈夫か?」
真琴ははっと気がついた。視線を落とすと、コントラバスを弾く手がすっかり止まっている。慌てて智貴を見た。
「すいません! わたしったら、また……」
「いや、いいよ」
智貴は真琴を見つめた。(何かを言いたそうだな……)と、真琴は思う。
日曜日の時も、智貴は言いたい事があるような瞳で真琴を見つめていた。今の智貴の目も、二日前に見たそれと同じである。
「先輩。わたしに、伝えたい事がありますか?」
智貴は一瞬、目を丸くした。そして、首をゆっくり縦に振る。
「あのさ……オレ、昔……」
真琴の心臓が大きく鳴った。鼓動がどんどん速くなる。しかし。
「先輩!」
扉を開けながら智貴を呼ぶ治美。真琴と智貴は、同時に扉の方を振り向いた。
「もう、合奏始まってますよ! 早く来てください!」
真琴は、そばに置いていた、白色の携帯電話を手に取る。時間を確認すると、四時半をとうに過ぎていた。
「ごめん! 考え事をしてたら時間を忘れてた。すぐ行くから、先に戻ってて」
治美は「はい!」と返事して、倉庫を出ていった。智貴は素早くコントラバスをケースに入れる。
智貴は、倉庫を出ようとする前に真琴を見た。
「またいつか、話すから……!」
言い終わってすぐに、智貴は倉庫を出て扉を閉めた。真琴は扉の方を見つめたまま、ぼーっと立ち尽くす。
しばらく経った後。練習に戻る前に、独り言をぼそっと呟いた。
「謎、二つも増えちゃったな……」