0 夕食
「じゃあ、これからもっと忙しくなるっていうの?」
母の裕美が、真琴に問いただした。土曜日の夜、リビングで夕食を食べている時のことである。
「う、うん……。だから、明日ももちろん部活だし、これからも……」
真琴は、裕美にたじっとしながら応える。同時に(もっと早く言えばよかった……)と、今更ながら後悔していた。
明日は日曜日である。休みの日だから、裕美はゆっくり寝られるはずだった。なのに、土曜日の夜、娘がいきなり「明日以降は、日曜日も一日中部活だから」などと言うのだから、困惑するのは当然だろう。明日から、日曜日も平常通りの時間に、朝食を作らなければならなくなったのだから。
本入部の日に、土日も練習がある事を和樹が伝えていた。真琴はその日のうちに、裕美に話すべきだった。だが、なかなか言い出せず……今日の夜にやっと話したという訳だ。
「吹奏楽部は体育会系文化部だし、定期演奏会が近いんじゃあ、仕方がないじゃないか」
父の真一郎が、裕美をたしなめる。裕美は「そうね」とつぶやいた。
「あ……お父さんとお母さんは、寝てていいよ? わたし、自分で適当なの作って食べるから」
「お昼ご飯はどうするのよ」
「……コンビニで、パン買うとか……?」
真琴の声が段々小さくなっていく。裕美は萎縮している真琴を見て、苦笑いをしながらため息をついた。
「いいわ。私が朝ご飯と弁当を作るから」
「えっ、でも……」
「真琴、何も作れないでしょう?」
「う……」
確かにその通りだ。真琴は、自分一人だけで何かを作った事が無い。
「その代わり、ちゃんと時間通りに部屋から降りてきて。あと、あなたも明日から早起きしてね」
「お、俺もか?」
真一郎がたじろいだ。裕美は、さも当然と言うような目で真一郎を見る。
「朝ご飯を二度も作るのは、時間の無駄!」
裕美がビシッと言ったので、真一郎は「解った、解った」と慌てて応えた。そんな二人の会話を聞いて、真琴の胸がキリリと痛みだす。
――また、お父さん達 に迷惑をかけた――
「お父さん、お母さん……ごめんね」
真琴は小さな声でぼそりとつぶやいた。二人は会話を止め、真琴を見つめる。
真一郎は、明らかに戸惑っているようだった。一方で、裕美は再びため息をついた。そして真琴に言う。
「……こういう時は、『ありがとう』と言うのよ」
裕美は視線を夕食の方に戻す。残っていたサラダを一気に食べ、「ごちそうさま」と手を合わせた。
食器を片付けた後、真一郎と真琴に「リンゴ、食べる?」と聞く。真一郎が「もらおうかな」と応えるのを聞いて、裕美は素早くリンゴの皮をむき始めた。
「はい、どうぞ」
裕美はリンゴをテーブルの真ん中に置き、真琴に「早く食べなさいよ〜」と促した。真琴は、まだご飯と味噌汁を食べ終えていなかったのだ。真琴は慌てて、なんとか食べきろうとする。
「あ! お供えするの忘れてたわ……」
裕美がそう声を上げた途端、真琴は箸をぴたっと止めた。そんな真琴の様子に気付かずに、裕美はテーブルのリンゴをいくつか取って、小皿に移す。
小皿を持っていき、棚の上にある小さな仏壇に置いた。正座をし、手を合わせる。仏壇を見つめる裕美は、優しげな瞳をしていた。
真琴はそんな裕美の背中をじーっと見つめる。そして、そっと箸を置き、不意に席を立った。そのままドアの方へ向かう。
「お〜い、リンゴはいらないのか?」
真一郎が呼びかけるが、真琴はその声を無視する。裕美が気づかないうちに、静かにリビングを出て行った。
冷えたご飯と味噌汁が、半分以上残っていた。