第一章 ニッポン 四:灰色の空と夜の街(一)
ナツミは、ふくれっつらをしてゲーム機をベッドに投げ出した。その日は登校日だったが、ホームルームのあと担任に呼び出され、先日提出した課題のことで注意を受けたのだ。
「なんだ、この色は」
担任は、ディスプレイに映したナツミの絵を指さした。
「写実的絵画という課題だっただろう。変な色で空を塗るんじゃない」
その日は、友達とやっているゲームのイベントがあったから、ことさら早く帰りたかったのに、居残りのせいで一便のスクールバスに乗り損ねた。二便のバスに乗り、家に帰ると急いでゲームを立ち上げたが、もうイベントは終わったあと。友人たちはチャットを退出してしまったらしく、待ち合わせ場所には知らない人しかいなかった。
「あーあ」
このイベントを、わりと楽しみにしていたのに。
「いったいなんだって、こんな色を使ったんだ」
担任は、怪訝な顔でナツミに問うた。
「きれいだと思ったからです」
ナツミがむっつりと答えると、担任は眉をひそめた。
「ゲームのやりすぎじゃないか。空は灰色だ。空想画なら空が何色だってかまわないが、写実の課題は見たままを描け」
「空は灰色って、誰が決めたのよ」
ナツミョンに顔を埋めて、ナツミは担任に言えなかった言葉を吐き出した。
「灰色なのは、空じゃなくて雲じゃん」
ベッドサイドに立てかけていた画板を手に取る。あの日以来、ナツミは毎晩ハルトの絵を見てから眠るのが習慣になった。澄んだ青空。こんな空を見たことはないはずなのに、ナツミはなぜかひどくこの空が懐かしい。懐かしいのは、それが本当だからじゃないかとナツミは思う。ほん とうの空を描いて、何が悪いのか。
「ヨウコちゃんと遊ぼう」
ナツミは、気分を吹っ切るように立ち上がった。画板とパステルを持って、紫外線よけのストールを無造作にかぶると、夕暮れの庭に走り出て、ナツミは農場の隣にあるアパートに向かった。祖父の経営する古いアパートは八室あり、独身者ばかりが住んでいる。ナツミは外階段を軽やかに駆け上がると、二階のいちばん奥の部屋のインターフォンを押した。
「はいはーい」
中からのんびりした声と一緒に、犬の鳴く声がきこえる。
「ヨウコちゃん、ナツミ」
「おお、お入り。鍵はあいてるから」
ドアを開けると、ちいさな犬が玄関へ仁王立ちになって、尻尾を振りながら鳴いていた。入ってすぐのキッチンでは、ヨウコが、小柄な身体には大きすぎるエプロンを着けて、パプリカをカットしていた。小鍋から湯気が立って、ピクルス液の香りがする。ビネガーの香りに、ナツミは唾を飲み込み、画材をキッチンの床に投げ出して犬を抱き上げた。
「モグちゃん、元気?」
小型犬の中でもことさらちいさな種類の犬に頬ずりすると、モグと呼ばれた犬は、ナツミの頬を夢中で舐めた。
ヨウコは、焼き物の絵付けをしたり、動画を編集したり、細々としたアート関連のことをして暮らしているらしいが、たまに農場の野菜を加工して、祖父に「売ってほしい」と持ってきたりするので、どれが本当の職業なのかナツミにはわからない。農場地区のアパートで暮らしているのは、ハルトのように農場に雇われている者か、画家や作曲家の卵など、都市に暮らす必要も金もない、独身の若者たちばかりだ。
「あれ、今日は登校日?」
「そうなの。ちょっと聞いて」
「なになに、どうした」
ナツミは、口をとがらせて一気に今日の出来事を語った。
「空の色を灰色にしないといけないって、誰が決めたのよ。そんなことで呼び出されるなんて、カン、カンリカイシャよね」
「ほんと、まるで管理社会だね」
やんわりと訂正しながら、ヨウコは熱湯消毒したちいさな瓶に、野菜を詰めていった。
「ナツミちゃんの絵、見たいな」
「いいよ。でもね、あたしの絵より、ハルトの絵がすごいの」
「ハルト?去年来た一階の人?」
「うん、ヨウコちゃんに見せようと思って、持ってきた」
ナツミは、画板を開き、ハルトが描いた空と海の風景を見せた。
「うわぁ」
振り返ったヨウコは、目をまるくした。
「きれいでしょ。ハルトは、これが本当の空だっていうの」
手袋を外してキッチンから離れ、ナツミから画板を受け取ったヨウコは、そのままハルトの絵に見入っている。
「いい青だねぇ」
絵に顔を近づけたり、遠ざけたりしながら、青かぁ、とヨウコは何度も呟く。
「雲が晴れたら、こんなふうなのかなぁ」
絵に見とれるヨウコの背後から、不穏な臭いが漂ってきた。
「ヨウコちゃん、煙が出てる」
「あっ!」
振り返ると、ピクルス液が煮詰まりかけていた。ヨウコがあわてて火を止める。
「こりゃだめだ」
とほほ、と鍋をコンロからおろして、ヨウコは煮詰まった液を流しに捨てた。
「作り直しだね」
「うん」
食料棚からビネガーや塩を取り出しながら、ヨウコはナツミに声をかけた。
「あたし、ハルトくんってちゃんと話したことないんだけどさ、農場で働いてる人でしょ?この絵の話聞きたいから、ナツミちゃん紹介してくれない?」
「いいよ。でも、いまはまだ出荷とかしてると思うな」
「じゃあ、ピクルス作ったら農場に行こう」
「うん」
再度ピクルス液を作って瓶詰をし、二人が外に出ると、冬の日はもうとっぷりと暮れていた。街灯の照らす小道を通って二人が農場に行くと、ちょうど仕事を終えたハルトが出てくるところだった。ハルト、とナツミが呼びかける。
「おなじアパートのヨウコちゃんだよ。ハルトの話を聞きたいんだって」
「はじめまして」
ヨウコが、ぺこりと暗がりの中で挨拶した。
「ナツミちゃんから絵を見せてもらって、空の話を聞きたいと思って。急にすみません」
「ああ」
ハルトも頭を下げた。
「二階の方ですよね。犬と暮らしてる」
「そうです、そうです」
「じゃあ、あたし帰るね」
「うん、ナツミちゃん、ありがとね。そうだ、今度はナツミちゃんの絵も見せて」
「わかった」
ナツミは二人に手を振って、アパートの隣にある家に走って行った。ただいまぁ、とナツミがやわらかな灯のともった家に飛び込み、ドアが閉まるのを見送って、二人はあらためてどうも、と挨拶をかわした。
「あの絵、どこの風景なんですか」
街灯の下で、ヨウコはハルトに尋ねた。
「すごくきれいな青」
「あれは」
ハルトは言いよどんだ。
「どこから話せばいいのか」
「昔の画像データよりずっとリアリティがあるわ」
「あれは」
ハルトは言葉選びに迷う。
「あれは、僕の記憶の中にある風景なんです」
「ハレマ?去年の?」
「ああ、なんというか。僕は記憶障害で」
「記憶障害?」
「今までのことをなにも覚えていなくて。気がついたらライト駅前のロータリーにいたんです」
ひゃあ、とヨウコは目を丸くしてハルトを見上げた。
「そんなこと、ほんとにあるんだ」
「どうなんでしょうね。僕も、自分のことながらよくわからなくて」
ハルトは頭をかいた。
「行き先がなかったところを、病院から紹介されて、ササヤマさんに雇っていただいたんです。青い空、どうしてそういう記憶があるのか、自分でもわからないんですけど」
冷たい夜風が二人の頬を撫でて、ハルトがくしゃみをした。日が落ちれば紫外線の心配はないが、年末も近いこの時期、さすがに外で立ち話をするには寒すぎる。
「ごめん、風邪ひかせちゃうね」
「いや、こちらこそ」
「今日はもう遅いから、また話を聞かせてもらえませんか。あたし、あの青い空を自分も描いてみたくて」
「ああ」
いいですよ、とハルトが言いかけたとき、農場の入り口から車の近づく音がして、闇を裂くライトが建屋を照らした。
「あ、タバちゃんだ」
ヨウコがつぶやく。
「タバちゃん?」
「ゲーム友達。ライトに住んでるんだって」
車がアパートの隣の空き地に停まり、中からがっしりした体躯の男性が降りて来た。
「やっぱりタバちゃんだ」
「なんだ、ヨウちゃん、そこにいたのか」
あれ、とハルトは暗がりの中を近づいてきた男性の顔を見た。聞き覚えのある声。
「ヤマダ先生?」
「ん?」
市民病院に入院中、脳神経の検査を担当した医師だった。
「カンナヅキハルトです」
「おお」
夜なのにサングラスをかけたままの男性は、ハルトの顔を見ると驚きの声をあげた。
「そうか、このアパートにいるのか」
「そうです。先生は?」
「俺?俺はこれからヨウちゃんとデート」
「付き合ってもないのにデートとか言わないでよ。だいたい、今日は約束してないでしょ」
「いいじゃん。どうせ暇なんでしょ。いい感じのパブを見つけたんだ。生牡蠣が自慢なんだってさ。食べたいでしょ」
「食べる」
けろりとヨウコが態度を翻した。
「じゃあ行こう。君もどうだい?」
「いや、僕は」
「一緒に行こうよ。話の続きも聞きたいし。タバちゃんがご馳走してくれるよ」
どうしよう、と戸惑ったが、二人から誘われて、ハルトは同行することにした。ヨウコと二人でいったんアパートに戻り、ハルトはアカリからもらったおかずを冷蔵庫に入れ、普段着に着替えた。ヨウコは犬に餌を与えてくると言っていたが、ハルトが車に戻ると二人はすでに中にいて、なにやらゲームの話に興じている。ハルトは助手席のヨウコに促されるまま、後部座席に乗り込んだ。
「じゃあ、出発」
タバちゃんことヤマダ医師は、ナビをセットしてアクセルボタンを押した。




