第一章 ニッポン 五:重なりあう世界(三)
ハルトの診察を終えたあとも、ミサキは入院患者の巡回やケース会議に追われた。午後六時、ようやく仕事を終えて着替えをし、速足に通用口に向かう。おおきなスーツケースを脇に置いたリョウが警備室の前で待っていた。
「遅くなってごめんなさい」
「いや、俺もさっき来た。ほかの先生と話してたから」
「ほかにも知ってる先生がいるの」
「同じ雑誌に論文を寄稿してる先生がいて、直接会ういい機会だったからね」
「それはよかったわ」
二人は連れ立ってLRTの乗り場に向かう。ヘッドライトで舞い踊る雪を照らしながら、始発のLRTが静かなモーター音とともに乗車場へ入って来た。入院患者の家族や病院関係者が乗り込むと、ドアを閉めて走り出す。停車するごとに乗客が減っていき、終点に近い駅で二人が降りたときは、ほかに乗客はいなかった。降車場からほど近いマンションに入り、エントランスの前で靴の雪を落として中に入る。エレベーターで三階にあがり、玄関のドアを閉めると、ミサキはリョウを振り返った。
「今日は助かったわ。というより、驚いたわ」
「俺もだ。ああいうケースは珍しいからな」
「でも初めてじゃないんでしょう?」
「そうなんだ。たまたま去年、フィールドワークで同じようなケースに遭遇してね。もしかしたら、俺たちが知らないだけで、時空の移動は結構あるのかもしれないぞ」
「私には、まだ信じられないけど」
スーツケースの中から着替えを取り出すと、リョウは勝手知った様子でシャワールームに向かい、ミサキは冷蔵庫からレタスとトマトを取り出して、サラダを作る準備をした。
二人が交際を始めたのは、医学部を卒業する前の年だから、五年になる。トーキョーの医大を卒業した後、ミサキはいまの病院に勤務し、リョウはカリフォルニアの大学院に進んで、そのままそこで教壇に立つことになった。
ミサキのサラダと、リョウのコックオーヴァンでワインを楽しんだあと、ふたりはソファに並んで座り、近況を交換した。
「今年は、ライトで太陽祭があったんだって」
「そう。九月に。そういえば、今日会ってもらった患者はその日に病院に来たのよ」
「太陽祭の日に時空を超えてくるなんて、ずいぶんロマンチックだな」
「本当ね」
太陽祭か、とつぶやいて、リョウは天井を見上げた。
「俺も、一度見てみたいな」
「すごく綺麗だった。雲間から光が空から射して、スポットライトみたいに見えるのよ」
「羨ましい」
最後の赤ワインを憧れの表情になったリョウのグラスに注ぎ、ミサキは首を振った。
「羨ましいのはわたしのほうだわ」
「なにが」
「やっぱりリョウはすごいなって」
外気温がまた下がってきたのか、空調の音が高くなった。
「ハルト君があんなに自然に話すの、初めて見た」
ティーカップを両手で持って、ミサキは自嘲の笑みを浮かべた。
「ハルト君だけじゃないんだけど。患者が感情を見せたときの受け止めがうまくできなくて。精神科医としてどうなのかって自分でも思っちゃう」
リョウはワイングラスを持ったまま、ミサキの横顔に視線を移した。
「外科が苦手でサイコに進んだけど、患者に寄り添えなかったらそれも駄目よね。つくづく、自分が未熟だなって」
リョウはグラスをテーブルに置くと、ミサキの肩に腕を回した。
「俺は別に、寄り添ってないけどね」
ミサキが顔を上げてリョウを見た。
「あれは技術だからさ。寄り添ってるというなら、そんなふうに思えるミサキのほうがよほど患者のことを考えてるんじゃないかと思う」
俺なら、とリョウは笑みを浮かべる。
「一年ぶりに再会した恋人と一緒にいるときに、患者のことなんか思い出しもしないよ」
「あっ、ごめんなさい」
肩をすくめて紅茶のカップで顔を隠すようにしたミサキの横顔を、微笑を浮かべて見つめていたリョウは、ところで、とミサキの耳元でささやいた。
「仕事のオーダーもいいけど、そろそろ、結婚のことも考えてくれると嬉しいんだけどな」
ミサキの頬にさっと朱が射した。
「俺では不満?」
「そんなこと」
あるわけない、とミサキはリョウの胸に頬を寄せた。
「両親のことが気になっているだけ」
ミサキの両親はここからレールウェイで一時間ほど北のコロニーに住んでいる。
「父の具合があまりよくないから、ノースアメリカは少し遠いかなって」
「そうか」
ミサキの頭を抱き寄せて、リョウは天井を見上げた。
「なら、俺がニッポンに戻ればいいのか」
意外な言葉に、ミサキは驚いてリョウを見上げた。
「ばかなこと言わないで。研究があるでしょう」
「スポンサーになってくれる大学があれば、俺はどこだっていいんだ。どのみち今だって一年の半分はフィールドワークだし、研究拠点はニッポンでもノースアメリカでもかまわない。来期の契約はもう済ませてしまったんだけど」
その次は転職先を探してもいいかい、と尋ねたリョウの手を握って、ミサキはちいさくうなずき、ありがとう、とささやいた。
ヤマダタカユキは、シャワーを浴びて部屋着に着替えると、いつものゲームにログインした。
自分に似たアバターを操作して、人気のない広いマップの一番端に立つ。数秒待って右クリックすると、ちいさな洞窟があらわれる。管理人の隣に立って、タカユキはいつものコードを入力した。壁が開く。中に入って動かず待つと、その先の通路があらわれ、奥に酒場が出現した。壁にかけられたアルファベットのいくつかをプッシュすると、音声がオンになった。
「はーい、タバちゃん」
酒場にいた、セクシードレスを着た黒髪のアバターが話しかけてきた。女性のアバターには「グリアン」とネームが表示されている。
「デートは楽しかったか」
タバちゃんと呼ばれたタカユキが問いかけると、女性はにこりと笑って口調を変えた。
「今も隣の部屋にいる。タバちゃんには、あのかわいい寝顔が見られなくて残念だな」
「腹立つ奴だな」
タバちゃんのアバターは軽く壁を殴るふりをして、それはともかく、と話題を変えた。
「どうだい、彼は」
「とても興味深い」
「やはりな。機会を作って、俺ももう少し話をしてみる。だが、本当にそんなことがあるのか」
「わからない。だが、古くから時空移動の話は尽きない。浦島太郎や神隠しだって似たようなものだ。話が尽きないということは、なにか元ネタがあるんだろう」
「信じがたいね」
「人間は、世界の仕組みをすべて知ってるわけじゃない。それよりも、彼に見えている世界は、俺たちが望む世界に限りなく近い。これは」
グリアンが、にこりと笑った。
「天の采配だと、俺は思う」
(第一章・おわり)