「待て」のできない犬のような
「あの朝って?」と、小さく囁く声があちこちから聞こえる。あああ、私の評判が。
(食堂はさすがに油断しすぎたか)
「私は1級文官のスールと申します」
「これから私は食事をするが、スールは?」
「食べ終わってしまいました」
「明日の昼食を……いや、今日の夕食を一緒に食べないか?」
うう、抱きつぶされるまでの辛抱だぞ、私!
「ご一緒します」
……食堂中の注目を集めてしまった。
部署に戻るとトーミが「恋物語みたいね!」と弾んだ声で囁いた。
「国の宝にあんなに求められるなんて、王都中に噂が広まるわ!アルブランド様は長く想っていた方に去られて傷心なのだけれど、あなたが癒して差し上げたら」
私達のどうでもいい話がそんな立派な恋物語になっているのか。
「うーん、私には過ぎた方ですよう」
あんな猿だが国にとっては英雄である。無難な返事を返すしかない。
書類を分類している私を他の部署の人たちが見学に来ている。
「きれいだけれど、化粧が派手じゃない?」
「肌といい髪といい、素人じゃないって感じね」
明日からせめて髪形と化粧を地味にしよう。
しかし、みんな気づかないねぇ。
研修はひと月らしい。トーミの説明は丁寧で分かりやすかった。
就業時間が終わって街着に着替える。化粧は直す必要がない。書類仕事くらいでは崩れない化粧である。
きゃあっ、と文官棟の窓口で女の子たちの叫び声がした。
なんとアルブランドが文官棟に乗り込んできちゃったらしい。
「スール、夕食に行こう」
そういえば女には「待て」ができない犬のような人だったよ。
周囲の視線を矢のように感じながら曖昧に微笑むと、当然のように手をつないでくる。
「お待たせして申し訳ありません」
「いいんだ。スールを待つのも嬉しい時間だ」
嬉しそうに北門近くの高級店にまた行こうとするので慌てて止めた。
「この街着では入ることができません!」
ちょっと考えて、「じゃあ服を買うか」と言うのをまた懸命に止める。
さらに考えて、顔を朱に染めて、そっと言う。
「では、俺の家に来るか?」
「それが良いと思います!」
これ以上人に見られたくないしね!
騎士団棟に連れて行かれる。竜で通勤しているらしい。
アルブランドの黒い竜、ネルは私の姿を久しぶりに見てギググググ!と嬉しそうに羽を鳴らした。
「初めてなのにネルがこんなに懐くのは珍しい」
5年間、ずっと乗って来たからねぇ。
アルブランドがひょいとネルにまたがると、私の腰を抱いて前に座らせる。
戦場ではずっとパンツだったからまたがれたけれど、今はスカートだ。
横抱きにされて、これは不安定だな、と思っているとぎゅっと抱きしめられた。
「森の香りがする……」
騎士団棟にはまだ人がいる。竜舎はどこからでも見られるのだ。
抱きつぶされる覚悟はできているが見世物になる覚悟はできていない。
いや、これからの王宮ライフを考えたらこんな姿を誰にも見せたくないのだ。
「早くアルブランド様の家に向かいましょう」
と、言うと、我に返った顔で嬉しそうに「そうだな」と言った。
夕食を食べ終わると泊ってゆけと言われる。
「準備がないのでまたの機会に」
「いやだ」
うーん、もう仕方がない。
今夜抱きつぶされてやりましょう。
きれいな侍女達の助けを断り、またお風呂に入る。寝間着は借りた。
スキンケアができないのは痛い。明日の朝念入りに手入れして挽回しなければ。
そして、一緒のベッドで手をつないで寝たのである。