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燦燦たるアンダーグラウンド  作者: 谷尾香緒
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不夜の花園

 夢に見るほど焦がれているというわけでも四六時中ずっと彼女のことを考えているわけでもない。ただスラリとした後ろ姿と頬に触れた指先を思い出してだらしなく頬を緩めるだけ。それは恋というには淡く、きっと憧れに近い。


 平日でも夕方ともなれば架見町は休日と変わらない賑わいを見せる。マスターに頼まれた買い出しの帰り道、制服姿の集団に混じってぼんやりと足を進める。きゃいきゃい騒ぎながら歩く高校生たちとの距離は徐々に開いていった。

 歩道に突き出したガラスケースに飾られたマネキンを眺めたり、首を反らして空に目を向けてみたり。目的のない浮浪者のように視線を一通りふらふらさせてから、もう一度前を向く。

 そこで純は手にしていた買い物袋を取り落としそうになった。学生服の紺と黒。その肩越しに見えた後ろ姿に足が逸る。学生たちを追い越して、反対方向から歩く猫背のサラリーマンを半身で避けて、あと一人抜かせば肩に手がかかる、というところで歩を緩めた。

 バカバカしい。女はクスリの盗難に加担して久我組に捕まっている。生きているか死んでいるかは知らないが、沈みかけとはいえ太陽があるうちに外に出られるわけがない。それに、身長が違う。ヒールの高さはそう変わらないのに、純の記憶より数センチ低い。これでは振り向いたところで同じ高さに目線はないだろう。

 期待した分ガッカリしたけれど、まあいい。彼女かもしれないと思って追いかけている時は心が浮ついて確かに楽しかった。

 自然とまた歩くスピードが落ちていく。さっき抜かした学生たちがすぐ後ろまでやってきて先頭の子とすれ違うその瞬間、路地から伸びてきた手に腕を掴まれてそのまま引きずり込まれた。声を上げる暇もない。手にした買い物袋が大袈裟な音を立てて揺れるものだから落とすんじゃないかと心配になる。

 にぎやかな通りも一つ角を曲がればまったくの無人。架見町は裏と表の境がはっきりしている。

 誰もいないコンクリートの壁が並んでいるだけの中では、その人はあまりに眩しかった。

「久しぶりだね」

 そう言って笑いかけてきたのは、あの日純がひったくりから取り返したバッグの持ち主の女。正確にはそのバッグの中身は久我組の持ち物だったわけだが、あれからずっと脳裏に描いていた憧れを前にそんなものは些事だった。

 無造作に肩にかかっていた焦げ茶の髪が風になびく。

「なんで…」

「逃げ足は速い方なの」

 内緒にしてね、と人差し指を立ててお茶目に笑う。その笑顔を純は食い入るように見つめた。

「お姉さん、名前なんていうの?」

「時子だよ」

 時子さん、と口の中で繰り返す。彼女のことはまだよく知らないけれど、ぴったりだと思った。

「あの時はバタバタしてたからまともにお礼言えなくてごめんね」

「全然いいんだよ、僕が好きでやったことだから!」

 歯を見せて笑うと、彼女は表情を柔らかくして細い指で純の頬を撫でる。買い物袋を持つ手に無駄な力が入った。

 人混みから外れて数分にも満たない話をした数週間前とは雰囲気がずいぶん違う。あの時はもう少し気が強そうだったし、きっと純への警戒心もあった。けれど今はそれらすべてがなりをひそめて穏やかだ。

「ともかく、ありがとう」

「ううん、別に、趣味だから」

 切れ切れになった言葉に時子は、丸くて綺麗な目をきゅぅと細める。笑いかけているのかただ見つめているのかわからないが、やっぱりこの前とは違う表情がいくつも見える。この雰囲気も好きだ。

「有名なんだってね」

「え?」

「人助けが趣味の変わり者。ちょっとした噂になってるよ」

「へ、そうなの」

 ふふ、と笑った時子に純は目をできる限り広げる。できる限りの視界をその笑顔で埋めたかった。

 ずっと頬に添えられていた手のひらからは絶えず彼女の体温が送られてくる。時折指先でくすぐるように撫でられるのが心地よかった。やがてその手から意識を離して時子が腕時計を確認する。今は嫌いな仕草だ。

 案の定時間を確認した時子の手はするりと純から離れていく。

「もうこんな時間。行かなくちゃ」

 半身を翻して行こうとする。時子さん、と呼ぶ前に彼女の方から振り向いた。

「純、またね」

 さらりと空気を撫でるように手を振った時子に振り返すので精一杯だった。「またね」と後ろ姿がすっかり小さくなってから呟く。次はちゃんと聞こえるように言おうと決めた。

 笑顔を向けるだけで心が満たされる。触れられたところから温かくなっていく。これが恋というものか。きっとそうだ。憧れなんかじゃない。憧れよりも貴重な恋を得た純は、喜びで震えそうだった。

 そのまましばらく夢から覚めるのを拒むようにぼんやり突っ立っていた。すると、また突然腕を引かれる。純を夢から引き上げた手によってさっきまでいたにぎやかな往来に連れ戻された。

「えっ…だれ?」

 がっちりと腕を掴んでいるのは仁王立ちの知らない女。時子を見た後じゃ、美人だともそうじゃないとも言えない。その彼女はヒール込みで純より少し高い位置から、不機嫌そうに目を細めている。その目で頭のてっぺんからつま先までじろじろとなん往復もした後、フンと鼻を鳴らして腕を掴んだまま歩き出した。急に進むものだからつんのめる。

「ちょっと、ほんとにだれ?」

「智治さんが呼んでる」

 その一言で純を黙らせた女はさっさと歩いていく。呼ぶなら電話してくれればいいのに、と思ったところで、スマホを家に置いてきていたのを思い出した。

 女に連れていかれたのは地下のバーだった。まだ日も昇っているというのに中は人工的な光で夜のように照らされている。

 開店前なのかお客さんは少なくてカウンターの真ん中に蛇草が陣取っていた。さらさらとした真っ黒な髪は時子とは正反対で、夕陽に輝く茶髪が早くも恋しい。

 彼の周りにはいつも通り取り巻きが召使のように立ち並んでいる。今日は女ばっかりだ。

「純、久しぶり」

「全然久しぶりじゃないよ」

 昔の同級生が絡んだ件で二週間くらい前にも会っている。こういう時、この男の口から出る言葉はほとんどでまかせだとつくづく実感する。

「なんの用?」

 手招きされるまま蛇草の隣に座るが、周りの女からの視線が痛い。針の筵とはこのことだ。

「頼みがあるんだ」

 蛇みたいな目を細めて笑う。例によって胡散臭い。

「内容による」

「冷泉の店でね」

「お断りします」

 久我の店というだけで良くない内容だと聞かなくてもわかる。

 足元に置いた買い物袋を掴み直して椅子から下りようとすると、ガッと腕を掴まれた。

「話は最後まで聞いてくれないかな」

「絶対ろくでもないことじゃん。嫌だよ、犯罪の片棒なんか担ぎたくない」

「違う違う、その逆」

「逆?」

 どうせ腕を掴まれたままでは帰るにも帰れないし、仕方なくまた座り直す。すぐに出られるように買い物袋は膝の上に乗せた。

「冷泉の店で、最近お金を払わない客がいるらしいんだ」

「それはまた命知らずだね」

 冬城のメインストリートに並ぶ夜の店のほとんどは久我組またはその二次団体がケツモチであるというのは有名な話だ。しかし法外なぼったくりということもないし客として楽しむ分には害はない。けれどその店で何かやらかそうものなら、それは組に喧嘩を売ったと同義である。食い逃げなんてもってのほか。

「それで純にはその犯人を捕まえてほしいんだ」

「なんで僕?人探しなら蛇草さんの方が得意でしょ」

 けれど蛇草はふるふると首を振った。

「ああいういかがわしい店が並んでるところには出入りできないんだ」

「なんで?」

 これだけ女を侍らせていれば似たようなものなのに。

「イメージダウンに繋がるし」

「イメージダウン?」

 なんの話?とは声に出さなくても表情に出ていた。蛇草が呆れたような顔で額を抑える。その姿でさえ絵になるようで周りの女が熱い吐息を漏らした。

「純、僕の本業知ってる?」

「人たらし」

「それ仕事じゃないよね」

 すると、取り巻きの一人が肩にかけていたバッグから雑誌を取り出した。ファッション誌などというものにまったく興味はないがそれでも名前くらいは聞いたことのあるもので、高校の時の同級生がたまに買っていた気がする。それが蛇草の手を経て純の前に差し出された。その表紙では隣の男と同じ顔がこちらを見つめている。

「…モデルだったんだ」

「純には電話で教えたはずなんだけど」

「聞いたような気がする」

 残念ながら耳だけで聞いたことはあまり覚えてないことが多い。見たものなら忘れないのだが。

 でもモデルというのは蛇草にぴったりのような気がした。人たらしなんだから人気商売には向いてるに違いない。

「これでもそこそこ有名だから、夜の店とかあんまり入れないんだよね」

 それで純にお鉢が回ってきたらしい。もしくは蛇草のことだから半分くらいは嫌がらせかもしれない。

「…僕なにさせられるの」

「大丈夫だよ。純には黒服で立っててもらうだけだから」

 当然のように店で働かされることになっている。

 しかし黒服というのは少し意外だ。てっきりキャバ嬢のような真似をさせられると思っていた。

「…蛇草さんって僕のこと女だと思ってるんじゃなかったっけ」

「はっきり教えないってことは好きに解釈していいってことだろ」

 遠慮なく顔をしかめると、不細工だなと笑われた。

 結局この男も久我と似たようなものだ。ヤクザじゃないしだいぶ善良ではあるけれど、根っこの部分に同じものを持っている。

「ていうか僕未成年だけど」

「冷泉の店でそんなこと気にする?」

 もうここまでくればどれだけ文句を言ったところで無意味だ。ドナドナの仔牛のようにネオン街に出荷されていくのは変わらない。結局蛇草と久我には逆らえないようにできている。

 はいはい、とおざなりに返事をしてカウンターにだらしなく突っ伏した。時子に会えた喜びを一気に地に落とされた気分だ。

「ていうか久我さんならもう犯人わかってるんだじゃないの」

「冷泉が直接管理してたらね」

「久我さんが管理してるわけじゃないんだ」

「若頭は仕事がたくさんあるから。店の経営は別の人がしてるよ」

 近々純も会えるから楽しみにしてて、などとぬかす。自分の仕事は終わったと言わんばかりに気楽そうだ。毎度毎度貧乏くじばかりを引かされている気がするのにどうにもできないのが腹立たしい。

 その軽い口調のまま、雑談の延長だとでもいうように蛇草はその話をした。

「そういえばこの前久我組からクスリを盗んだ二人組の女の方が逃げたらしいんだけど、純知ってる?」

「ううん、知らない」

「そっか」

 表情は変えず、目線も逸らさず、靴の中で足の指の一本に至るまで動かさず、純は嘘をついた。目を合わせたままの男は疑うことすらしていないように笑っている。

 その笑顔に心の中で唾を吐いた。どうせわかっているんだろう。噓つきは嘘を見抜くのがうまい。





 数日後、黒塗りの車の後部座席から顔を出した久我によって純はネオン街へと運ばれていった。しばらくランチタイム以外での喫茶店の仕事は休みだ。

 ヤクザは今日も無邪気な笑顔で機嫌がいい。居心地の悪い車内ではできるだけ端に寄って座った。

「いきなりこんなこと頼んでごめんね」

「…まあいいよ」

 さすがにいつものように、人助けが趣味なのでとは言えなかった。ヤクザを助けるのを趣味にした覚えはない。

 久我組の若頭相手にタメ口を許されている純を運転席の男がルームミラー越しにギョッと見る。そちらと目を合わせると逃げるように逸らされてしまった。運転手をしているんだから組の人なのだろうが、案外気が小さいのかもしれない。

「報酬は何がいい?」

 銀とも灰ともつかない髪先を指でねじりながら久我が言う。これはあまり機嫌が良くない時の癖だ。昔蛇草が教えてくれた。そのくせ顔は笑ってるんだから不気味で仕方ない。

 手っ取り早く思い浮かんだのは金だった。あとはもうこういう種類の頼みごとは止めるとか。けれどどちらもいまいちピンとこない。お金には困っていないし、こういう類の頼みは止めろと言ってもどうせあの手この手で巻き込まれる。

 その時、頬に添えられた指先の感触がふとよみがえった。

「…この前峰原くんとクスリ盗んだ女の人、逃げたんでしょ?」

「智治から聞いた?みすみす逃がしたバカがいるんだよね」

 ねえ、と運転席に声を掛ける。それだけで運転手は震えて、車が少し揺れた。もしかしたら時子を逃がしてしまったのは彼なのかもしれない。よく見るとスーツの下の手首に包帯が巻かれいてる。

「探してるの?」

「一応ね。クスリを盗んだ件は峰原と上司のおっさんに責任とらせたけど、女の方も見つかったら色々しなきゃな」

 昨日食べたご飯の話でもするみたいにそう言ってから、ぐぅっと純の顔を覗き込んでくる。

「なぁに?純、もしかして居場所知ってるの?」

 目がらんらんと躍っている。蝶の羽をむしる子供と同じ目だ。

「…見逃してくれない?」

「は?」

「僕が食い逃げ犯捕まえたら、その女の人見逃してよ」

 機嫌が悪い時にする頼みごとではなかったかもしれない。けれど、いつまでも様子を伺って下手に出ているのは癪だった。

 あれだけ楽しそうに揺れていた目がフッと落ち着きを取り戻す。ふぅん、と呟いてからじろじろと純のことを観察し始めた。薄い唇がゆがんで歪な弧を描いている。

「いいよ」

「…いいの?」

「うん。あの時だけ雇われてた外部の人間みたいだし、可愛い後輩のお願いだからね」

 まさかこんなにあっさりと了承されると思っていなくて、今度は純がじろじろと見る番だった。

 何か裏があるんじゃないかと疑う目から逃げるように久我が顔を背けた先、窓の向こうにはまだ静まり返った夜の店が並んでいた。

「着いたよ」

「僕が働くお店どこ?」

「あれ」

 薄くもやがかっている窓越しに指さしたのは、通りの一番奥。まさしく不夜城と呼ぶに等しい最も大きな店だった。

 車を降りて久我の少し後ろをついていく。まだ日が沈む前の通りは人もまばらで、そのまばらに散っている人たちはみんな久我をちらちらと見ていた。やっぱり組の若頭ともなればこの街では有名なのか、久我を見る人の顔はみんな一様に強張っている。

 観音開きの大きなドアを、片側だけでも十分通れるのに偉そうに両方開けて入っていく。その先ではきらびやかな世界が準備中だった。

「おい、薔子!」

 久我はずかずかと大股で進みながら大きな低い声で誰かを呼んだ。粗雑な名前の呼び方からしてその「薔子」という人物は久我にとって身近な存在なのだろう。ビジネスの関係になればたとえ五分後に殺す相手であっても過剰なほど丁寧に接するのがこのヤクザだ。

 けれど友人の蛇草などに向けるものよりもずっと剣呑な声色で、そっとその表情を伺ってみると案の定というべきか表情までも不機嫌になっていた。髪先をねじっていた原因は「薔子」とやらにあるのかもしれない。

 迫力のある表情におびえた様子を見せながらも、派手な衣装の女や黒服たちは呼ばれた人物を探す。何人かは奥の部屋に向かっている者もいた。やがてその中から大きく胸元の空いた赤色のドレスを着た女に連れられて一人出てくる。髪はきれいに束ねて服もずいぶんおとなしめだ。どう見ても接客用の女じゃない。

 彼女はためらうことなく不機嫌な久我の前にやってきて、けれど彼を相手にすることはなく純の目をまっすぐ見た。

「いらっしゃい。あなたが純くん?」

 微笑んでうっそりと目が細められる。なんだか射すくめられた気がして、頷くだけで答えた。

「ずいぶん可愛らしい子ね」

 頬を両手で掬うように包まれて内心焦る。時子に触れられた感触が拭われてしまうように感じたから。けれど逃げるわけにもいかない。

 結局その手を払ってくれたのは、意外にも久我だった。頬の手をはがして不機嫌な表情のまま睨んでくる。

「純、自己紹介」

「…菅原純、十八歳です」

 唐突な言葉に戸惑ってはいけない。ヤクザは基本せっかちだ。殴られたくなければ言われたことにはなるべく早く反応する。これがこのヤクザと知り合ってから身についた処世術だった。思い返せば実際に殴られたことはないが、殴られるのではという恐怖は常にある。

 ぺこりと頭を下げると、薔子は口元に手をやって目を丸めていた。未成年なのね、なんて言っているが絶対気にしていない。久我のことを冷泉などと呼ぶ女に常識的な考えなどあるはずがないのだから。

「はじめまして。久我薔子、二十八歳です」

「久我?」

 思わず聞き返した純に、同じ苗字の男が吐き捨てるように答えた。

「俺の腹違いの姉貴。今の組長の愛人の娘」

「…へえ」

 そう答えるだけ精一杯だった。余計なことを言えば無事じゃすまないという感じがする。いつもは機嫌が良くても悪くても最低限語尾だけは柔らかいのに、今はそれすらもなくぶつ切りの情報だけ伝えてくる。よほど彼女が嫌いらしい。

「組でお店の管理を任されてるの。でも食い逃げするお客さんがなかなか捕まらなくてね」

 それでわざわざ若頭が蛇草を通して頼んできたらしい。

 しかし薔子は困ったような口振りではあるものの実際は全然困ってはいなさそうな表情である。ただただ機嫌の悪い弟を見て楽しそうだった。

 その不機嫌な弟は恐らく嫌っている姉に背を向けて体ごと純と向きあう。これ以上機嫌を損ねられるとこちらとしてもひやひやするのでありがたい。

「お前が働くのは二週間。それまでに捕まえられなかったら延長だから頑張って」

「わかった」

 それから耳に何かを雑に突っ込まれた。

「インカム。俺の部下と繋がってるから犯人見つけたら連絡すること。追いかけてもいいけど捕まえるのは危ないから組の奴に任せて」

 矢継ぎ早にそれだけ言って、純が頷いたのを確認してから久我は踵を返す。

「帰るの?」

「今忙しいんだよ。女狐に食われないように気を付けなよ」

 じゃあね、と言いおいて久我は本当に帰っていった。

 ぼんやりとその背中を見送りながら、視界の端で隣に立つ女を観察する。にこにこと笑みを絶やさず弟に手を振るさまは良い姉だが、なんとなく好きになれない気がした。そもそも兄の友人たちのせいで四六時中笑みを張り付けている人間にあまりいい印象がない。

「純くん」

 いきなり声をかけられても動揺を見せてはいけない気がして、わざとゆっくり横を向く。

「はい」

「仕事の説明があるから、バックヤードに来てくれる?」

 そう言ってここにいる誰よりも地味な服を着ている彼女は、誰よりも綺麗な立ち姿で歩き出した。その背中を追いながらも、純の視線は自然と派手な身なりの風俗嬢たちの方へ向く。大きく開いた胸元はやはり見せるためのもので、無遠慮な視線に文句を言われることはなかった。

 バックヤードには入ってきた純と薔子の他に一人いた。ちょうど着替え終わったところであるらしい彼女もまたキャストなのだろう。淡い桃色のドレスを着ている。

 彼女は純たちとすれ違いざまに軽く会釈して出てこうとしたが薔子によって引き留められた。

「紅ちゃん、ちょっと待って」

 その言葉に立ち止まった彼女の前に純を差し出すように肩を押す。

「この子、今日から入ってくれる新人の黒服だから、新人同士仲良くしてあげて」

「…はい。よろしくお願いします」

「…よろしくお願いします」

 紅は純を見てやや置いてから笑みを浮かべた。キャバ嬢ともなれば新人といえど愛想笑いがうまいらしい。

 それから彼女は「もう行っていいですか」と店の方へ出ていく。純と薔子はバックヤードの奥にあるテーブルを挟んで座った。

「あの子新人なんですか」

「そう。一か月前に入ってきた子でね。まだ馴染んでないみたいだから、よろしくね」

 純の方が馴染んでいないというのによろしくされても困るが、そうとは言えず曖昧に頷いて流した。

「それで、黒服の仕事なんだけど…ホールとかならできる?」

「まあ、喫茶店で働いてるんで」

「そう。じゃあよろしくね」

 薔子はそこで会話を切る。不自然なくらい間が開いてから、ようやく純の方から本題を切り出した。

「…食い逃げ犯って、どんな人かわからないんですか?」

「わかるわよ。ほらこれ」

 そう言って薔子はファイルから一枚のプリントを取り出した。どう見ても用意していたものなのだから彼女の方から出してくれればいいのに。求めた分きっちりしか出してくれないところがあの男と似ている。

 引き延ばされた画質の悪い写真がプリントされていたが、なんとなくの背格好はわかった。食い逃げするだけあって目立たない平凡な身なりをしている。

「この人がうちの系列の色んな店で食い逃げしてて、冷泉が困ってるのよね」

「…薔子さんは困ってないんですか?」

 言ってから余計なことだったと気がついた。口ぶりからして困ってないのは明らかだし、むしろこの状況を楽しんでいる雰囲気さえある。女狐という表現は案外的を射ている気がした。

「私は所詮愛人の子だから。組にそんなに思い入れがないの」

「そうですか…久我組の系列ということは、他の系列店は被害に遭ってないんですか?」

 余計な話は早めに切り上げたくて、別の話題を口にする。

 冬城は久我組の根城であるが、だからと言ってここら一帯の店全てが久我組の系列店というわけではない。僅かだが無関係の店も存在する。それらの多くは組の機嫌を伺いながらやっているらしいが、逆に組の機嫌さえ損ねなければ安心である。それも気分屋の暴君である若頭を思えば難しそうだが。

「うちの系列だけね。まあ、系列じゃない店は少ないからそうおかしくもないと思うけど」

「へぇ…食い逃げ犯はこの男一人だけ?」

 こうして質問を繰り返していると警察にでもなったような気分だ。思えばヤクザに縁はあれど警察と直接関わったことは一度もない。

「そう。この人だけ」

 一人で久我組に喧嘩を売るとはずいぶんと度胸がある。余命一か月の宣告を受けて自棄にでもなっていないと純にはできそうにない。

 それにしても薔子はずいぶんと淀みなく答えてくれる。まるでこの男を知っているようだと考えて、そこで嫌な予感がした。

「…もしかして、この男のこと知ってます?」

「名前と住所までは調べてあるわ。冷泉には言ってないけど」

 嫌な予感というのはなぜかことごとく当たるようにできている。思いきり顔をしかめた純を見て薔子は楽しそうに笑うばかりだった。

 調査がスムーズに進むのはありがたいことだが、最後の一言がこの上なく不吉である。もしこのことを久我が知ったらなんて考えたくもない。

「…なんで久我さんに言わないんですか?」

「好きなのよ」

 真っ直ぐ見つめてそう言われて、一瞬ドキリとした。客こそ取らないのだろうが、彼女も結局夜の女だ。惑わせるのがうまい。

「…なにが?」

「男を転がして遊ぶの」

 彼女がこんなに正直に答える理由はわかっている。結局のところ純は死にたくないので久我には逆らわない。そして同じように死にたくないので、久我が聞いたら怒り出しそうなことは本人に伝えないのだ。それを彼女は正しく理解している。口止めをするまでもなく、ここでの会話が久我の耳に入ることはない。

「今ただでさえ忙しいのに食い逃げ犯の対応までしなきゃならないあの子を見てるのが楽しくてね」

 純には一生かかっても理解できない趣味だ。久我が薔子を嫌っていたのもある程度合点がいく。

「僕がその男を捕まえるのには協力してもらえますか?」

「えぇ。そろそろ別の遊びが始まるから」

 なんのことかわからないがわかりたくもなかった。ただその「遊び」に純が巻き込まれていないことを願うばかりである。

「じゃあとりあえず男が来たら教えてください」

「いいわよ。今日にでも来るんじゃないかしら」

 今日は急すぎるから嫌だな、と純は思った。


 けれど嫌なこととは続くものである。久我に連れてこられてから三時間後、純は着慣れないスーツで暗い路地を走っていた。インカムからは久我が部下に指示を飛ばす声が聞こえている。近いうちに宝くじでも当たらないと釣り合わないと思いながら逃げていく男の背を追っていた。

 その男が来店したのは開店から一時間したころであった。普段の喫茶店での仕事とそう変わらないため純はあっという間に慣れてきた。二週間くらいなんてことなさそうだ。

 そんな風に能天気にしていた純のそばに静かに薔子がやってくる。

「あの男よ」

 少し固い声に純も警戒しながら店の入り口を見た。

 くたびれたシャツにスラックス。背は普通で体型も顔立ちも普通。年齢は二十代後半から三十代前半くらい。どこをどう切り取っても普通でしかなく、こんな男少し探せば五人は余裕で見つかりそうだ。

 けれど逆に平凡すぎる。ここは冬城の一番奥。愛人の子とはいえ久我組の組長の娘が経営に直接関わっている店である。揃えている女のランクも値段も他の店を優に超える。そんな店にこんな平凡な男は逆に目立つというものだ。他の客から明らかに浮いている。

 そんな食い逃げ犯のテーブルについたのは、新人だという紅だった。緊張した面持ちでテーブルに向かう彼女にあいさつ程度に笑いかけると、向こうも同じように笑って返してくれる。

「入店から店を出るまではいつもだいたい一時間くらい居座ってるわ。念のため三十分前から注意しておくといいんじゃない?」

「ありがとうございます」

「頑張ってね」

 どこまでも他人事だ。薔子が知っていることを久我に全部教えてくれいていたら純はこんなことをしなくてもよかったのに、と少し悔しくなる。この感覚は蛇草や久我といる時とよく似ていた。結局彼らと同類なんだろう。

 薔子が言った通り、男が席を立ったのはそれから一時間をしたころだった。まるでそうするのが自然であるかのように、お会計をしようとする紅と近くの黒服を押しのけて出口へまっすぐ走っていく。

 男が出口に向かい始めたのとほぼ同時に純は走り出した。男がかき分けてできた人の隙間を通って夜の街に飛び出す。よれたシャツの背中を追っていると、タイミングよくインカムから久我の声がした。この男どこからか監視してるんじゃないだろうか。

『今どこ?』

「店を出てメインの通りを走ってる…横道に入った、東の方」

 返事代わりに久我が部下に指示を飛ばす声が聞こえる。

 この男はどこに行くのだろうか。このまま真っ直ぐ行けば純の住む透目に出る。まさか純が追ってきてるのに気付いていないわけはないだろうし、後ろに純をくっつけて家に帰るとは思えない。

「…あっ、曲がった。透目に入る手前で北に折れたよ」

『わかった。絶対追いつくなよ、捕まえるのは俺の部下がやるから』

「わかってるよ」

 ここまでくれば華々しかったネオン街もずいぶん遠くの楼閣のように感じる。透目とぎりぎり境になっているこの場所は純でも来たことがない。街灯は薄暗く、遠くにあるぎらついたネオンの方が明るく感じるくらいだった。

 あと一歩横に入れば透目だが、両側にはアパートが続いていて入れそうな道はない。まるで冬城に閉じ込める塀のようだった。

 二階建てのアパートは横に長く、部屋数だけで言えば高層マンションとたいして変わらないかもしれない。けれど、そのどれも窓は真っ暗で人が住んでいそうな気配はなく、ただいくつかのドアの前に住人の残り香のようにごみ袋やひびの入った植木鉢が置かれている。しかしその窓によくよく目を凝らせば、カーテンがぴったり閉じられているだけだった。

 暗い路地で男を見失わないように追い付かないように走っている純は、冬城の裏に来てしまったように感じた。ここは外の世界と一線を画している。その点だけでいえば秋継と変わらないが、傍観という姿勢を徹底している兄とは違って、この場所は殻に閉じこもっているようだった。

「…久我さん、ここさぁ」

『見えた』

 純が言い切る前に久我がそう言った。それからすぐに真正面から強烈な光で照らされる。車のハイビームだ。目が奥の方まで眩んで立ち止まった。

 手を前にかざして光に慣れるのを待っている間に足音がばたばたとやってくる。きっと先回りをしていた久我の部下たちのものだろう。純の仕事はここで終わりだ。

 道の真ん中でぼんやりと立っている純に場違いにゆったりとした足音が近付いてくる。この状況で場違いが許される人間なんて一人しかいない。その後ろではスーツを着た男たちが慌ただしく動いていて、彼らに取り囲まれた中心で抵抗する声が上がっている。それら一切に背を向けたまま久我は純を見下ろして笑っていた。

「お疲れさん」

「ねぇ久我さん」

 ここって何?と続けようとした言葉は遮られた。

「食い逃げは捕まえたけど、純の仕事はまだあと十三日残ってるからね」

「…最悪だね」

 その返事に笑みを深くした久我は「今日はもう帰りな」とだけ言い置いて、今度は純へと背を向けた。その背中を見て、いっそう強く最悪だと思った。この男が笑みを深くしたのは結局、純が追及を止めたからだ。ここはきっとあまりいい場所じゃない。

 その晩、久我に尋ね損ねた問いを世界一の天才に投げたが、冬城を囲む塀のようなあの場所について知らされることはなかった。曰く、「知らなくていい」と。





 順応が早い方だという自覚はある。なんせ兄の友人とはいえ胡散臭い男ともヤクザとも最初からそれなりに上手くやっていたのだから。

「今日もいつものとこでお願いね」

「はぁい」

 出勤して早々の薔子からの指示にももう慣れたものだ。キャストや他の黒服とも馴染んできて、ここが夜の店でなければもう少し長居してもいいと思えるくらいには居心地がよかった。

 純がいつもつくのはあの日「仲良くしてあげて」と言われた紅のいるテーブルで、基本的には眺めたり給仕をする程度しかやることはない。働き始めて一か月経ってもあまり馴染めていないらしい彼女はなぜだか純とはよく話していた。

「今日もよろしくね」

「うん、よろしく」

 すると紅はちらちらと純と目を合わせては逸らすを繰り返す。いつもならこれでどうして店に馴染めないのだろうと思うくらいよく喋っているというのに。珍しいその様子に尋ねざるを得なかった。

「どうかした?」

「あ、いや…純くんが初めて店に来た時に一緒にいた人ってさ、偉い人なんでしょ?」

 他の人が噂してたよ、とぎこちない笑みを浮かべながら言う。

 本題を切り出されていないとは感じながらも頷くしかなかった。

「うん、久我組の人だよ」

「若頭って聞いたけど」

「そんなことまで噂になってんの?」

 人の噂は特に女性が多い場所だと広まりやすい。特にこんな店なら街中の噂が闊歩しているだろう。

「そんな人と知り合いなんてすごいね」

「別に。兄の友人ってだけだよ」

 実際ヤクザと知り合いなんていいことはあまりない。こういう街では後ろ盾になると思われがちだが、困った時にあの男が本当に手を貸してくれるかどうかはわからない。

 そっか、と零してそれきり黙ってしまった紅は、数秒ほどしてからまた恐る恐る口を開く。

「あのさ…」

「なに?」

 ひそめるような声色に、いよいよ本題かと構える。秘密話のように話す彼女に合わせてその口元に耳を寄せた。

「…実は最近尾けられてる気がして」

「ストーカーってこと?」

 純の言葉にこくりと頷く。その横顔は可憐で愛らしく、どこもかしこも華やかな店の中だとそこまで目立たないが外に出ればかなり人の目を引く容姿をしている。おまけに彼女はそこまで気が強いわけではない。他のキャバ嬢たちはストーカーなんて吹き飛ばしそうな勢いだけれど、彼女なら標的になるのも頷ける。

「それで、しばらく一緒に帰ってほしくて」

「それくらいなら全然いいよ」

 むしろそれだけでいいのだろうか。ストーカーなんてどう解決したらいいか分からないけど、期間限定の黒服に送ってもらうだけでは心もとない気がする。

「ありがとう」

 紅はそれだけのことなのにひどく安心したように笑う。守ってあげたくなる笑みだと思った。

 それから夜を通して彼女の仕事が始まる。純はただそれを眺めているだけ。ストーカーなんて言われたから客にそれっぽいのが来るかとも思ったが、怪しい客はおらず彼女が誰かに怯えている様子もない。

 最後の客が帰った後になってようやく彼女の表情は不安げな色を取り戻した。

「着替え終わったら外で待っててくれる?」

「うん」

 さっさと更衣室に向かう後ろ姿を眺めてから純も着替えに向かう。手早く支度を済ませたところで、ノックもなく更衣室のドアが開いた。

「お疲れさま」

「…薔子さん、ノックはしてもらえます?」

「ごめんなさいね。もう帰るの?」

「はい。紅ちゃん送っていくんで」

 そう言うと、薔子は大きな瞳を見開いてからグゥッと一気に細める。妖しいその表情が笑みだとわかるまでに少しかかった。

「あら、そう」

 よろしくね、と店のオーナーらしいことを言っているが、どうにもこの人は純のことをおもちゃのように思っている気がしてならない。もしかして紅のストーカーのことも何か知っているんじゃないだろうか。

「…紅ちゃんがストーカーに遭ってるって聞いてます?」

「初耳ね」

 とぼけた顔で言う。けれど、口元に指を添えて「そういえば」と続けた。そらみろ。

「最近店の周りをガラの悪い男がうろついてるわ」

 気を付けてね、と手を振って薔子は出ていく。彼女は結局純で遊ぶために来たに過ぎなかった。

 しかしガラの悪い男というのはどうにも嫌な感じがする。ヤクザでなければいい。この店での勤務もあと一週間を切った。できれば何事もなく終わりたいものだ。

「お待たせ、帰ろっか」

 更衣室を出ると紅はもう着替えを終えて待っていた。てきとうに他の店員に挨拶しながら店を出る。深夜の街はそれでもネオンで明るかった。

 薔子の言っていたガラの悪い男を気にして視線を少し巡らせるが、街の特性ゆえにそういう男は多い。けれど誰も純たちを気にしている様子はなく、ストーカーだとは思えなかった。もしくは純が気付いていないだけなのか。

「紅ちゃんってどこに住んでるの?」

「冬城町の端っこだよ」

「…もしかしてアパートがいっぱい並んでるとこ?」

「うん。お店の他の子とかも住んでるよ」

 家出してきてたりそもそも家がない子もいるから、と紅は声を潜めて教えてくれる。そういう子のために用意されたアパートらしい。それならそうと教えてくれればいいのに、久我も秋継も意味深な誤魔化し方をする。

「でもそれだけじゃなくて、ヤクザの人がクスリとか隠してる部屋もあるって噂があるんだよね」

「…なるほどね」

 二人が誤魔化した理由はこれか。下手すればクスリよりやばいものもあるんじゃないだろうか。

 明るいメインストリートを抜けて、街灯がぽつぽつと数メートル間隔で照らしているだけの通りに出る。夜通し明るいネオン街と大して離れていないのに、この街はどうにも光と影の境界がはっきりしすぎている。

「もうすぐ着くよ」

「ほんと?ストーカーっぽい人はいなかったね」

「純くんがいてくれたからかも」

 そんなことを言って微笑む彼女に、リップサービスだとはわかっていてもどきどきしてしまう。

 そういえばこの辺で食い逃げ犯が捕まったな、なんてぼんやり思っていると隣で紅の足が止まった。

「ここだよ」

 紅が指さしたのは連なるアパートの一室。どこも同じような見た目なのによく見分けがつくものだ。

「じゃあ、ここで…」

「それで、もう一つ相談があるんだけど」

 別れようとした純の言葉を強気に遮って、紅は真剣な面持ちで言う。あまりいい話が続かないことは予感できた。

「実は私久我組に借金があって」

「借金…」

 嫌な切り出し方だ。先日の元同級生を思い出してしまう。

 お金を貸してと言われたら断って、連帯保証人になってと言われたら断って、とにかく何を頼まれたって断らないといけない。静かに決意を固めた。

「それでこの前取り立ての人が来たんだけど…」

 ドアの鍵を開けながら手招きする彼女の元に仕方なく近寄る。薄っぺらいドアは純の力でも無理矢理破れてしまいそうで鍵の意味はなさそうだった。

 ギィッとドアが開く。中を見せるように体をずらした紅に合わせて中を覗き込んだ。

 まず目に入ってきたのは玄関先に置かれたごみ袋。いらない服を捨てたのか、濃い赤色が袋越しに見えた。どうせ出すんだからごみ袋なんて中じゃなくて外に置いておけばいいのに。それから廊下へと視線を滑らせれば、そのまま狭い室内は大体見渡せる。思っていたよりも汚くなくて、綺麗なわけではないが物自体は少ない。ただ、部屋の真ん中に異様なものが一つだけ横たわっていた。それが目に見えた瞬間を計ったようにちょうど異様な匂いが鼻を掠める。

「返せないって言ったら掴みかかってきて…」

 紅が何か言っている。その全てが耳の表面を滑っていくばかりで何もわからない。ただ純の目は床に臥しているものに釘付けにされていた。

 下半身は壁に隠れていて見えないが、見えている部分の肌はすっかり生気を失くして何か赤黒いものがこびりついている。

「それで抵抗してたら夢中になって植木鉢で殴っちゃって…」

 死んだように眠る、なんて表現があるが、眠っているだけなのと死んでいるのとでは明確に違う。何が違うかはハッキリわからないが、体の具合が決定的に違って見える。

「純くん、これ隠すの手伝ってくれないかな?」

 紅が何を言っているのかは相変わらずわからない。そんなことどうだってよかった。

 死体はダメだ。他の人が見慣れないようなものも散々目にしている純だが、これだけはどうにもいけない。目を逸らせば楽になるかもしれないのに視線が動かない。なんとか瞬きを一つしたところで胃から何かがせり上がってくるのを感じて、一歩後ずさった。

「…純くん?」

 名前を呼ぶ紅の声が耳に張り付いて頭を振った。

 また一歩下がると、背中に何かがぶつかった。純が振り返ると同時に、紅が怪訝そうに「誰?」と声を上げた。

「…蛇草さん」

「冷泉が探してるから迎えに来たよ」

 いつもと変わらない胡散臭い笑顔に初めて安心した。

 蛇草は確かに紅の部屋の中を一瞥して、けれど中に倒れてるものに興味なんてないようにあっさり目を逸らして純の腕を掴む。そのまま容赦のない広い歩幅で歩きだして、それに合わせて純は小走りになった。「ちょっと待って!」と縋るような紅の声に小さく振り返る。

「警察には言わないから…また明日」

 蛇草が小走りになる。そうなれば純はもう本格的に走り出すしかなかった。紅に名前を呼ばれた気がしたが、後ろ髪を引かれるような思いもなく足をただ動かし続ける。

 冬城を出て透目を通り抜けた。夜の人出がそこそこある架見町でも、一つ路地裏に入れば閑散としている。

 人が二人横並びになるので精一杯なコンクリート壁の間でようやく立ち止まった。すると走っている時は感じなかった吐き気がまたぶり返してくる。壁に手をついてしゃがみこむと、同じように隣にしゃがみこんだ男に背を撫でられた。嗚咽を漏らしてせり上がってきたものを素直に吐き出す。独特の酸っぱい匂いに顔をしかめていると、蛇草は純の背をさすったままどこかに電話をかけ始めた。

「…冷泉?純見つけたよ、店の裏にいる」

 手早くそれだけ言うとさっさと電話を切ってしまう。その様子を横目で眺めながら、以前蛇草が女をたいそう侍らせていたバーが地下にある建物の裏路地だと気がついた。

「災難だったねぇ」

「…マジで最悪だった」

 思い出すとまた吐きそうになるが、ひとまずは全部吐ききった。口元を拭っていると近くにあった無粋なドアが開いて久我が顔を出す。純の吐いたものを見て器用に左眉だけを上げてみせた。

「お疲れ、入りな」

 半ば蛇草に支えられるようにして中に入る。飾り気の一切ないドアとは裏腹に、薄暗い室内はお洒落な雰囲気だった。

「ここなに?」

「地下のバーのVIPルーム」

「バーにVIPルームとかあんの?」

「ここはちょっと特別だからね」

 お茶目に笑う久我にろくでもない店なのだと察する。この二人に関わるとつくづくろくな場所に出入りしない。

 先頭に立つ久我が入っていったのは、真ん中にローテーブルとそれを囲むようにソファが置かれているだけの部屋だった。

「とりあえず座りなよ。何か飲む?」

「水が欲しい」

 口の中の不快感をどうにかしたい。

 遠慮なく三人掛けのソファのど真ん中に陣取ると蛇草にずらされて隣に座られた。壁についている固定電話で注文を済ませたらしい久我は一人がけのソファに座る。

「で、何を見た?」

 躊躇いのない質問に思わず眉を寄せる。けれどさっきまで吐いてた人間に対する気遣いがこの男にあるはずがないと諦めた。

「…死体、だと思う」

 部屋の空気に一瞬の緊張が走った。しかしそれは所詮一瞬で、純を見つめていた蛇草と久我が視線を交わすとすぐに解ける。そしてまた何事もなかったように純に向き直った。

 この二人は時折こうして言語外で通じ合う。その内容を純が知ることはない。

「誰だった?」

「知らないよ。でも久我組から借金の取り立てに来た人を殺しちゃったって言ってたから久我組の人なんじゃないの?」

 なるべくあの部屋の中に倒れていたものを思い出さないようにしながら答えていく。久我はそれにある程度満足したようだった。

「ていうかなんで久我さんは僕のこと探してたの?」

「部下から純と紅が一緒にいるって聞いてね。紅のことは見張ってたから何かあるんじゃないかと思って」

「見張り?なんで?」

 薔子の言っていた「店の周りをうろつくガラの悪い男」は久我の部下たちのことか。ということは紅の言っていたストーカーも組員による見張りということになる。

 純の問いに身を乗り出した久我はグゥッと目を細める。笑っているのだと気がつくまでに少しかかる。薔子と同じ笑い方だ。

「お前が捕まえた食い逃げ犯がね、紅の彼氏だったんだよ」

 その言葉に驚くと同時にどこか納得してもいた。そういえば食い逃げ犯を捕まえたのはちょうど紅の家の前辺りだった。食い逃げ犯が彼女の彼氏だったのなら、逃げる先として恋人の家を選んでもおかしくない。

「それと、紅は確かにうちに借金があるけど取り立てなんてしてない」

「は?」

「借金返すためにあの店で働いてるんだから、抵抗して殺されるほどの厳しい取り立てなんて必要ないんだよ」

 横からにやにやと眺めているだけだった蛇草も純の方へ身を乗り出してくる。

「じゃあ、なんであの子はヤクザなんて殺しちゃったんだろうね?」

 久我の言うことを信じるなら、紅は嘘をついている。そして多分久我は嘘をついていない。だとすれば紅は自分の意志で久我組の人を殺したことになる。おまけにその死体を純に見せた。純と久我組の若頭が知り合いだと知っているのに。それは、なぜだ。

 頭を働かせるのは向いてない。

「…わかんない、なんで?」

 正直に返すと、蛇草まで久我と似たような表情で笑い出す。

「もうすぐわかるよ」

「そう。だから大人しく待ってな」

 両側から一緒くたに頭を撫でられる。この無遠慮で横柄な兄の友人たちが彼らなりに一応は純を慰めようとしていることはわかったが、脳裏にこびりついたあの部屋の光景は残念ながら忘れられそうになかった。





 次の日の夜、今までと同じように店に出かけようとした純を呼び止めたのは秋継だった。

「純、待って」

「なに?」

 早く行かないと薔子に怒られてしまう。首だけをねじって振り返ると、秋継は長い髪をなびかせてこちらに歩いているところだった。窓から入ってくる街灯の光が後光に見える。

「昨日の夜どうだった?」

「なにが?」

「死体。見たんでしょ?」

 当然のように言い放つ兄に、純は勝手に嬉しくなった。どんなに些細なことであっても秋継の天才性を感じられる瞬間を純はこよなく愛している。

 なんでわかったの?なんて訊かない。そんな質問意味がない。純には感じられないものがたくさんあって、秋継はそれを感じられる。ただそれだけだ。それだけのことがあっさりと秋継を天才たらしめている。

「見たよ」

「何も思わなかった?」

 その言葉は純にとって意外だった。

 秋継は久我や蛇草のように冷酷非道というわけではない。どちらかというと優しい兄である。それと同時に純の強かさをよく知ってもいる。今更死体を見たくらいでどうこうなると思われているとは思わなかった。実際純自身も死体を見てショックを受けたことに内心驚いていたくらいだ。聡明であらゆる物事において効率を重視する兄が、死体を見た純を慮るような発言をするなんてまったくの予想外である。

「びっくりはしたけど、それだけかな」

「…そう。無駄な質問だった、ごめんな」

 無駄な発言なんて秋継の人生においてあるものか。答えた純の顔色をじっと観察するような視線に、本当は無駄な質問ではないと知る。けれどその意図は凡人にはわかるはずがない。

 やがて安心したような表情を浮かべてから「いってらっしゃい」と柔らく言った秋継に手を振る。彼の考えていることなんてわからない。今までならそれで構わなかった。秋継の言動で何かひっかかるようなものが残されたのはこれが初めてだった。


 店に行くといつも進められているはずの開店準備はなされておらず、それどころかキャストはほとんど出勤していなかった。だだっ広く感じる店内にいるのは、薔子とそれから紅だけ。その二人を確認した時、事の次第を聞かされるのだと察した。

「薔子さん、今日は臨時休業ですか?」

「賢い子は好きよ」

 真っ赤な唇が弧を描く。

「もしかして全部知ってました?」

「全部って?」

「全部は全部ですよ」

「んふふ、どうかしらね~」

 ひょうひょうと楽しそうに言う。言葉遊びでもしているかのようだ。そういえば、「新しい遊びが始まる」と言っていた。その遊びとやらがこの一件のことならば、弟に負けず劣らずの性格をしている。

 恐らく事情を把握していないのは紅だけで、彼女は奥の方で戸惑っていた。所在なさげにたたらを踏む。

「あの…臨時休業ならあたし帰ってもいいですか?」

「ダメよ。仕事はないけど用事はあるの」

「用事…?」

 紅の視線が一瞬こちらを向く。何を心配しているのかはわかっていたので軽く首を振ってあげた。薔子には言っていない。

「冷泉があなたに会いたいって」

「…そうですか」

 紅は思ったより冷静だった。

 これでも純は紅の件を久我に言ってしまったのを少し申し訳なく思っていたのだ。「警察には言わない」としか言っていないからウソはついていないにしても、紅からすればあまりいいことではないのは明らかだった。激昂して掴みかかられるくらいは覚悟していたのに拍子抜けするほど乾いている。

 すると、純の後ろから足音が近付いてきた。二つ。誰と誰なんて振り返らなくてもわかる。

「こんばんは」

 軽薄な声とともに肩を組まれる。スラリと伸びた鼻筋の向こうに機嫌の悪い久我が立っていた。

「…蛇草さん、こういうお店に入ってるとこ見られたらやばいんじゃないの?」

「頑張ったから大丈夫だよ」

 何をどう頑張ったのか知らないが、特に知りたくもなかった。

 重たい腕を肩から退けて隣に立つ男たちを見上げる。

「久我さんはともかく、そんな頑張ってまで蛇草さんなにしに来たの」

「つれないね。純に本当のこと教えに来たっていうのに」

 そう言われては文句は出せない。

「じゃあ早く教えてよ」

「待ちなよ。冷泉の話が先」

 せっかちな女の子はモテないよ、などと言ってくるがせっかちな人間は男でも女でもモテない。

 蛇草を挟んで横並びに立っていた久我が一歩前に進んで純たちの視線を集める。その足先は真っ直ぐ紅に向いていて、当の紅は逃げるように奥へと一歩下がった。そうしてしまえば暗がりに表情が隠されてしまう。

「葛木紅里」

 鋭い声が飛ぶ。迫力のあるそれは久我のもので、暗がりにいても紅の体に緊張が走ったのがわかる。

 葛木紅里というのは紅の本名か。紅という名前の方がもうずいぶんと彼女に馴染んでしまっている。

「俺が会いに来た理由はわかってるな?」

「…私が久我さんの部下を殺したからですよね」

「ああ。残念ながら警察には駆け込みづらい身分だからな、お前は俺たちのやり方で罰することになった」

 一緒に来い、と低い声で言った久我に紅はあっさりと従った。法の下で裁かれるよりも酷い罰が待っているのは明らかで、それなのに抵抗することもなく一歩踏み出したのは予想外だった。

「素直だね」

「本当にそうかな?」

「え?」

「純、女は大概強かで狡猾だったりするもんだよ」

 蛇草は映画の上映前のような、何かを楽しみに待っている様子だった。思わず蛇草を見上げた途端に視界の端で何かが煌めいて、慌ててそちらへ視線をやった。

 光っていたのは暗がりから飛び出した紅が握っていたナイフの刃先で、大ぶりなそれは真っ直ぐと久我に向かっていく。蛇草が楽しみに待っていたのはこれだったのだ。これを楽しむなんてこの男もどうかしてる。

 煌めいた光は真っ直ぐと久我の腹に埋もれていき、代わりにじわりと液体が滲みだす。それが元から黒いスーツをさらに黒くしてシャツの白を真っ赤にした。その光景から視線を外すと、今度は紅の強い目とかち合った。

「…純くん、慌てないんだね」

「そりゃあ、久我さんだし」

 一般人が相手ならともかく久我冷泉だ。それに隣で微笑んでいる蛇草や少し離れたところで傍観を決め込んでいる薔子だって、さすがに久我が致命傷レベルの傷を負えば焦りの一つでも見せる。それがないということはこの展開は想定内。想定できていなかったのは純だけ。けれど大事でないなら慌てる必要はない。

 純の返事に眉をひそめた紅の肩を大きな手が無遠慮に掴む。その手に紅の強い目が揺らぐ。

「…バケモンでしょ」

「よく言われる」

 久我が腹を刺されたまま耳に手を当てて何か言う。インカムで指示しているのだと合点がいった瞬間、外から大量の男たちが雪崩れ込んできた。久我と揃えたような黒いスーツの男たちは誰も久我を心配することはない。その代わり刺した紅を取り囲んで逃げられないように連行していった。

 腹を刺されてもなお自分の二本足だけで立つ久我はその黒い集団の後に続いた。それからこの街を仕切るバケモンが振り返る。

「純、ご褒美上げるから智治とうちにおいで」

 その言葉のせいで、純も後に続かざるをえなくなった。

 黒塗りの車の後部座席に蛇草と並べられる。運転手は初日にここまで送ってくれた人だった。

「で、蛇草さん」

「ん?」

「本当のこと、まだ教えてもらってない」

「あぁ、そういえば」

 すると蛇草はとぼけた返事を零す。純が切り出さなければ何も教えることはなかったかのような言い草が損をしているように感じさせる。

 詐欺師のような男なのだからもう少しはぐらかされるかとも思ったが、存外すぐに蛇草は話し始めた。

「事の発端は彼女の借金なんだよ」

「借金ねぇ」

 借金をする人間にいい印象がないのはどう考えても先日の元同級生のせいだ。

「彼女の借金、父親のものだったんだよね」

「うわ」

 純に親はいない。正確には生まれた以上両親は存在するのだろうが、今の純は親と言われてパッと思いつく顔はなかった。家族なら秋継がいる。

「で、父親が逃げて肩代わりした母親が風俗で働き始めたけど数年前に自殺。両親のいなくなった二十歳の女の子に借金が回ってきた」

「さすがに可哀想じゃない?」

「可哀想な人間からも金をむしるのがヤクザだよ」

「…確かに」

 そういうものだと割り切っているからか、久我が組の人間として行っていることに嫌悪感はそれほどなかった。麻痺しているのかもしれない。自分の道徳観が心配になる。

「彼女は確かに可哀想だけど、強かでもあった」

 先ほどの紅を思い出す。久我を刺す動作に迷いはなく、強い目をしていた。そもそもあのナイフは店の備品ではない。ということは自分で準備してきたことになる。それは確かに強かだ。

「借金は取り立ての度に最低限払いながらも、きっちり復讐することを考えてたんだよ」

 その復讐というのが久我を刺すことだったのだろうか。刺された久我は平然としていたが、連れていかれる時の紅も同じくらい平然としていた。

「まぁ復讐というより嫌がらせに近いけどね」

「嫌がらせ…」

 あれだけピンピンしている久我にとって嫌がらせになっているかはわからない。

「彼女は自分で直接仕返しがしたかったんだろうね」

 食い逃げ犯も冷泉の部下を殺したのもそのためだよ、と蛇草は言った。だとしたら随分と余計な被害が大きい。

「食い逃げ犯が彼女の恋人だったのは教えたよね」

「うん。そのせいで紅ちゃんに見張りがついてたんでしょ」

「そう。恋人に久我の店で食い逃げを繰り返させて冷泉を引きずり出したかったみたい」

 けれど、久我が店に顔を出したのはほんの一瞬で、その代わりに来たのは純だった。

「だから予定変更。冷泉の部下を殺して、おびき出そうとした」

 しかしそれも失敗。死体が発見されたのならともかく、いなくなっただけでは若頭がわざわざ出てくることはなかった。

「そしてまた予定変更。これはうまくいった。純を使ったんだから」

 あの日、ストーカー被害に遭っていると純に打ち明ける前に、紅は純と久我の関係を知った。つまり純に死体をバラせば自動的に久我に話がいく。久我に死体の話をしても怒らなかったはずだ。それが目的だったんだから。

 それなら今日、紅は事情も知らず店に来たのではなく望んであの場に立っていたのか。一応は彼女の思惑通りにことは進んだ。予定外だったのは久我がバケモンだったことくらいだろう。

「あとは純の知る通り。冷泉に話がいって、部下を殺した罰を彼女は受けることになった」

「じゃあ部下の人は特に恨みも何もなく殺されたってこと?」

「女って怖いよね」

 純はああなるなよ、と言われたが死体には異様なまでの嫌悪感があるからそれはないだろう。

「そういえばなんで蛇草さんはあの時来たの?」

 話では見張りの部下がいたというからその人に任せそうなものだが、あの時はなぜか蛇草が来た。

 蛇草が来なければ純はどうしていただろうか。死体を一緒に隠すなんてできるわけがないから、情けないもつれ足で逃げ出していたかもしれない。

「知らない人より知ってる人の方が安心するでしょ。それに…俺はあの場所詳しいから」

 入れ込んだ風俗嬢でも住んでいるのかとからかい半分で口に出そうとして、止めた。蛇草はヤクザではないが一般人でもない。どちらかというとあちら側だ。ラインは常に見極めておかなければ。


 久我からのご褒美とやらは一枚の封筒だった。書類とかを入れるような大きなものではなく、友人に手紙を送る時に使うような、何の変哲もないシンプルな白い封筒。

「中は帰ってから見るんだよ。持っておくなら誰にもバレない場所に隠しな」

「わかった」

 てっきり金でも渡されるかと思っていた。しかし中身もわからない上に久我がやけに慎重な態度なのが不気味である。まさか違法なものではないかと疑うが、この薄さと感触的に紙切れ程度しか入っていない。違法な紙切れに心当たりはなかった。試しに蛇草の表情を伺ってみたけれど、この男の真意など上っ面でわかるわけがない。

 久我の家を出るとちょうど日付が変わったころだった。玄関先まで見送りに来た久我を振り返る。蛇草は周囲の目をかわすためにまだ残るらしい。

「じゃあね、純。また頼むよ」

「…もう死体とかは勘弁だよ」

 柔らかい表情で久我は手を振る。しかし、純の後ろに何かを見つけてその表情は固くなった。

「…秋継、久しぶり」

「兄ちゃん?何しに来たの?」

「迎えに来たんだよ」

 無愛想にそう言って純の隣に並んだのは間違いなく秋継だった。もう何年も外に出る姿を見ていない兄がこうして月の光に照らされているのを見ると、初雪が踏み荒らされるような感覚を覚える。

 しばらく久我と秋継は何も言わず見つめ合う。純はただそれを傍観していた。やがて、その沈黙を破ったのは久我の方だった。降参するように手を上げて軽薄に言う。

「何もしてないんだから、そんなに怒らなくていいだろ」

 やっぱり怒っていたのか。だったらさっきも見つめ合っていたのではなく睨み合っていたのかもしれない。

「…冷泉は嘘つきだからな」

「それは智治でしょ」

「二人ともだよ」

 軽口の応酬は仲のいい友人のようでもあり、因縁の宿敵同士のようでもあった。

 すると二人の間の会話が急に的を逸れて純に向かってくる。

「あぁそうだ、純。封筒の中身は薔子からの手紙だから、帰ってゆっくり読みな」

「そうなの?」

 なぁんだ、と手にしていた白い封筒が途端に軽くなったように感じた。また黒服として働いてくれなんて書かれていたらなんて断ろうか。

 興が削がれたのか溜息をついた秋継は「帰るぞ」と呟いて踵を返した。その背中に久我は平然と話しかける。

「ちょうど秋継に話があるから近いうちに智治と行くよ」

 秋継は背を向けたまま「わかった」と呟くように返事した。遊びに来るということはやっぱり仲がいいのか。

 そのまま兄が歩き出してしまうので、純は慌てて後を追った。

「兄ちゃんなんで迎えに来たの?」

 純はもう子供ではない。大人でもないが、だからと言って迎えが来るような年齢ではないと思っていた。第一、今まで薔子の店で働いていた間迎えが来たことなんて一度もなかった。

「…あんまり冷泉とは仲良くしない方がいい」

 返事になっていない。

「ヤクザだから?」

「そこは関係ない。嘘つきだからだよ」

「僕からしたら蛇草さんの方が嘘つきだけどな」

「智治の嘘はわかるからまだいい」

 その言い草に純は久しぶりに心臓が跳ねるほど驚いた。

「…久我さんの嘘はわからないってこと?兄ちゃんでも?」

 秋継は何か反論するでもなく、頷いてあっさり認めた。何でもないような顔をしているが純からしてみれば大ごとである。兄の絶対的な天才性に初めて揺らぎが見えた気がした。

「それより、純」

「ん?」

「死体見た時、本当になんともなかった?」

 家を出る前と同じ質問だった。秋継の人生に無駄などない。だから繰り返された質問も無駄ではないのだ。たとえ純の返事が同じものであろうとも。

 死体を見た純をどうしてそこまで気にかけるのか、純にはわからなかった。ただわかるのは、彼は純の見えないものをたくさん見ているということだけ。

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