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燦燦たるアンダーグラウンド  作者: 谷尾香緒
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透目の相談屋

「高校を卒業したら喫茶店を手伝うんだ」

「…へえ」

 まだ寒い冬の終わりに交わした言葉。記憶にある限りでは菅原純との最後の会話がそれだった。

 そこそこの私立高に通っている俺たちが進学やら就職やら言っている中で、やけに不安定な将来設計で少し面食らったのを覚えている。聞けば、今手伝いをしている喫茶店にそのまま居座ることに決めたらしい。そんなふんわりした取り決めを将来にしてしまっていいのかとも思ったが、そこで説教をするほどこいつの未来図に興味はなかった。

 どうして今になってとっくに卒業したはずの高校の同級生を思い浮かべているのか。その答えは、純がいつも楽しそうに言っていた台詞にある。

「人助けが趣味なんだよね」

 おかしな奴だと思った。純の兄である菅原秋継は天才であると有名だったから、その天才と血を分けたきょうだいともなれば頭のねじが緩んでいるところもあるんだろう。

 この時、ハッキリ言って俺はこいつを見下していた。そこそこ勉強して中堅の私立大学に合格した俺とアルバイトもどきの純なら、俺の方が立派に決まっている。兄貴は優秀だというから余計に惨めに見えて、同情さえ湧いてきそうなほどだった。

 では、なぜその純の台詞が今になって頭をよぎるのか。

 簡単である。大学に入ってから知り合ったある人のせいで少々物騒な事件に巻き込まれているからだ。

 ようするに、風変りな元同級生に人助けをお願いしたい。



 東には活気あふれる若者の街。対して西には夜に輝く歓楽街。その間に位置する透目町は、名前の通り華やかな街と街の透き目のような場所だった。休日ともなれば人でごった返す架見町と、ぎらついたネオンが並ぶ冬城町。その両方からあぶれた人が流れ込むせいで、コンクリート製の透目の街は人の流れが多く常にじんわりと賑わっている。

 その透目には親切な変わり者が住んでいた。

「ひったくり!」

 ウィンドウショッピングも満足に楽しめないほど歩道を埋めつくす人混みの中で、異質な金切り声が上がった。直後、その声から逃げるように人をかき分けて男が走っていく。かき分けられた人は、しかし男が通り過ぎると元の形に戻ってしまう。伸縮するゴムでできた雑踏は、一瞥を与えることはあれど助けてはくれない。金切り声を上げた女はゆったりと前に進む集団の足取りに阻まれた。

「お姉さん、もしかして困ってる?」

 不意にかかったのは男とも女ともつかない声。胸がドキリと鳴った。この騒がしい往来の中でも耳元で囁かれたようにはっきりと聞こえて、声と同時に肩に軽く置かれた手に振り返る。

 数センチのヒールで盛った女とそう変わらない高さで目がかち合った。目も頬も丸く、にこやかな表情は金切り声など聞こえなかったようにあどけない。まだ大人と呼ぶには早い年齢の子供。そしてその子供のまんまるな目は声を掛けた瞬間こそ女を見ていたものの、次の瞬間には逸れて人混みを裂いていく影を追っていた。下手すれば実年齢よりも下に見られそうな見た目のくせに、やけに落ち着いている。

「困ってるに決まってんでしょ」

 金切り声の勢いのまま剣呑に返すと、「ふぅん」と静かな声を返された。これではまるで女の方が子供みたいだ。

 その子供がまんまるの目をさらに丸くして小さく声を上げる。男が路地に入ったのだ。距離はもうずいぶん開いていて、普通なら諦めるしかない。しかし、そうはいかなかった。あんな男に渡すなんてもったいない。

 すると、女の目の前にずいっと食べかけのソフトクリームが差し出される。渦巻きはならされて円錐の白い山がコーンに乗っていた。

「これ持ってて。取り返してくる」

 端的にそれだけ伝えた有無を言わさぬ口調に圧されてソフトクリームを受け取る。すると、彼か彼女かもわからない子供はすぐそばの路地へ駆け込んだ。その路地はさっき男が入っていった場所と繋がってるのだろうか。

 路地を通った向こうに何があるか女は知らない。ここは架見町の端だ。少し向こうにはいかがわしい歓楽街があるが、その間に何があるのかなんてここを歩いているほとんどの人間が知らないだろう。ちらりと覗いた先に見えた薄汚れたコンクリートの壁に大衆の興味を惹けるものなんてあるはずがない。

 ソフトクリームを持たされたままの女は往来から弾かれてぼぅっとつっ立っていた。ソフトクリームが売られているような季節でソフトクリームが溶けないはずがない。徐々に形を変えていく白い山を眺めながらさっきの子供を思い出していた。

 自信満々に走り出していったが、あんな子供にバッグを取り返せるとは思えない。きっと追いつけないだろうし、追いつけたとして揉みあいになったらひとたまりもない。そんなことがわからないほどの子供でもないだろうに、どうしてためらいなく路地に飛び込んだのかがわからない。

 わからないといえば、そもそもあれは彼なのか彼女なのか。一目ではさっぱり判別がつかなかった。貧相な体つきの女にも見えるし、筋肉のない男にも見える。まあ戻ってきた時に訊けばいい。

 そこまで考えて、女は呑気な思考をはたと止めた。けれど、女の心地は呑気なままであった。

 果たして戻ってくるのだろうか。運よくあの子供がバッグを取り返したとして、それから持ち逃げされる可能性だってある。物騒な世の中だ、子供だって犯罪を犯すし、子供だからこそ興味本位のいたずらで悪いことをしてしまう。ただ、あんな男に盗られるくらいならあの子供に持っていかれる方が気分としてはいくらかいい。

 しかしそうなったらこのソフトクリームの行き場がない。熱気にあてられたソフトクリームがコーンの淵から溢れそうになっている。これはどうしようか。道に捨てるわけにもいかないし、かといって知らない子供の食べかけを食べる気もない。たかだかソフトクリーム一つで大の大人が困ってしまうことがわかった。

 溶けたソフトクリームが手についたら帰ろうと決めてコーンを流れ出した乳白色を見つめていると、ひょこっと顔を覗き込まれる。

「お姉さん!」

 戻ってきた。この子供は持ち逃げ犯にはならなかったようだ。

「お姉さんのバッグこれ?」

 掲げられたトートバッグは確かに女の持っていたものだった。これで溶けたソフトクリームが女の手を汚すことはない。

「そう、それ。中身見た?」

「いや、見てないよ。あぁ、でもお姉さんは確認したほうがいいかも。ひったくりが何か盗ってるかもしれないし」

「そうね」

 トートバッグを抱えてそっと中身を確認する。問題なし。だが、たとえ盗られていたとしても取り返す術はなかった。

「大丈夫だったわ。ありがとうね」

 あと、最初きつく言ってごめんなさい。ひったくりに遭った直後の苛立った気性を謝る。その台詞には持ち逃げを疑ったことも含まれていたが、声には出さなかった。

 少し汗ばんでいる頬を撫でると嬉しそうに上気させる。弟か妹がいたらこんな感じだったかもしれない。

「いーよ。また何か困ったことあったら助けてあげる」

 不思議な言い回しだった。まるで助けることが生業であるかのように言う。

「…どうして?」

「趣味なんだ」

 訝しむような女の様子に気付いているはずなのに、なんでもないことのように答える。「そう」と頷くだけの返事をした。

 親切な子供に別れを告げて、女は往来に乗って歩き出す。数歩行ってから、男か女か訊くのを忘れたことを思い出した。けれど、わざわざ踵を返すほどのことではない。


 人混みに消えていく女の後ろ姿に手を振り終えて、純はさっきまでいた路地に戻っていく。溶けかけのソフトクリームが垂れる前に慌てて舐めとった。

 架見から透目に入って三つ目の角を右に行く。そのまま真っ直ぐ行けば左手に喫茶店が見えた。

 透目のちょうど真ん中辺り、背の低いビルの一階で半分地下にもぐるようにしているその店に入る。

「ただいまぁ」

「おかえり、店を開けるから看板出しておいてくれるかい」

 店内の冷気に目を細めていると、カウンターの中から声がかかる。四十代半ばくらいのマスターは喫茶店がよく似合う。逆にここ以外の職場は似合わなさそうだ。

「はぁい」

 ソフトクリームで若干べたついた手のひらを洗ってから、入り口の近くに置いてある看板を引っ張り出す。半地下の店から階段を五つ上がった先の道路に置いて一息つく。それから角度の調整なんかをしていると、二階の窓がカラカラと開く音がした。

 ただでさえ三階建てで周りのビルに埋もれているというのに、一階が半地下になってるせいで二階から上もずいぶん低い。その低い窓から痩せて尖った白い鼻を突き出して顔を出す。窓枠にもたれかかったその人が垂らす長い髪に男っぽさなんてないのに、その髪が揺れるついでに撫でていった顔の骨格は角ばっていて、男か女なんて訊くまでもなくわかる。けれど、そんな性別の枠組みなんて関係ないかのように超然とした風体でそこにいた。

「純、電話鳴ってる」

 初夏の暑さなんて感じてないような涼しい表情でそう言って、純の返事も待たずすぐに引っこんでいく。その様子は外を嫌う厭世家そのものだ。

 純は調整の終えた看板を残して小走りで店に入った。それからマスターに断って、奥の階段から二階に上がる。

「兄ちゃん、僕の携帯どこ?」

 窓際でぼんやりと座っている兄である男は、どう見てもてきとうに置かれたソファの上の携帯を指さした。それから「携帯の場所くらい把握しておきなさい」と小言を零す。無駄を嫌う性格のくせに、何度言っても聞かない純への小言はなくならない。

「はいはい…もしもし?」

 電話の相手は非通知だった。それでも構わず出ると、「相手がわからないのに簡単に出るんじゃない」と窓際からまた無駄な小言が零れた。ほぼ部屋の対角にいるのに非通知なのがわかったのは、コール中の画面でも見たのかそれとも兄の天才性ゆえか。

 変な奴だったら切ればいいだけだろと心の中で反論しながら相手の返事を待つ。数秒して聞こえてきたのは男の声だった。

『もしもし、菅原か?」

「そうだけど…」

 どこかで聞いた声だ。でも名前がすぐに出てこない。電話越しにそれを察したのか、相手が口早に名乗る。

『俺だよ、峰原』

「峰原…」

 そう聞いてようやく思い出した。高校最後の席替えで隣になった男子だ。そこまで仲良くはなかったが、時期が時期だったせいでよく進路の話をしたのを覚えている。喫茶店の手伝いをすると話した純を冷めた目で見ていたことまでハッキリ。

 純とは違いそこそこの大学に進学した元同級生が何の用だ。卒業してからまだ四か月も経ってないのにもう同窓会でもするんだろうか。

「峰原くん、どうしたの?同窓会なら出ないよ」

『違うよ、頼みがあるんだ。お前、趣味が人助けだって言ってたよな?」

「うん」

 その趣味の話をした時の峰原の白けた顔を思い出す。自分ではうまく隠しているつもりだったのだろうが、わりと思っていることが素直に顔に出る子だった。

『だったら俺を助けてくれないか』

 真剣な相談事なのだと声だけでもわかる。よほどの事情があるのだろう。しかし、どんな事情があろうとなかろうと純の答えは決まっていた。

「いーよ」

 僕のこと馬鹿にしてたくせに、とは席が隣だったよしみで言わないでおいた。


 兄の秋継は世界の外側にいるのだと純は思う。

 両親はとっくに死んだ。彼らと過ごした記憶はあまりに希薄で、葬式が一番濃い二人の思い出になっている。だから純にとっての家族はずっと秋継ただ一人だった。

 たった二人のきょうだい。しかし不思議と苦労のある生活ではなかった。それはひとえに秋継が天才だったからだと今ならわかる。詳しい仕組みはよくわからないが、優秀な頭脳は金を生む。詳しいことは教えてもらっていないが、警察に協力することもあるらしい。シャーロック・ホームズを読んで「兄ちゃんと一緒」と呟いた幼い純に、秋継は珍しくケラケラと笑っていた。

 そして、世界一の天才は外の世界など眼中にない。天才とは往々にしてそういうものだ、と秋継以外の天才を知らない純は思う。凡庸な人たちが努力してようやく到達できる場所の何段階も上のステージに生まれ落ちたのが天才だ。俗世なんてわざわざ関わるわけがない。だからずっと低層ビルの二階の窓際で外側から世界を眺めている。

 そんな天才を世界とつなげるのが純なのだと自覚していた。

 朝ひったくりから荷物を取り返したその日の夕方に人を助けに行く純に、秋継は「それはもう趣味というより仕事にした方がいいんじゃないか」と言った。いつもの小言に近いものなので聞き入れる気はない。

 そういうわけで電話があったその日の夕方、純と峰原は架見で最近流行っているというカフェのカウンター席で並んで座っていた。挨拶に次いで出てきたのは近況に関する話題で、喫茶店の手伝いという半ばフリーターのような純の話を聞いている峰原はおとぎ話でも読んでいるようだった。

「僕の兄ちゃんは頭良くて、それだけでめちゃくちゃ稼いでるから僕はそんなに働かなくていいんだ」

 言葉にしてみれば自分の恵まれた立場がよくわかる。だからこそ、人助けなんてものを趣味にしているのだ。天才の恩恵を受けている子供だからこそ、その恩恵を直接受けることのできない外の世界に何かしてやらないといけない。ある種の贖罪のようですらある。

「でもすごいな。頭がいいってだけで稼げるなんて」

「兄ちゃんはそういうレベルなんだよ」

 秋継は頭がいい。けれど、外の世界からひきこもっているせいで彼の優秀さを評価する人は少なく、幼い頃からそれが惜しくて仕方なかった。だから、自分よりも兄がたった一言でも褒められる方が気分がいい。

 鼻高々な純に、峰原も満足そうにいる。こんなにいい人なら高校の時にもっと仲良くしておけばよかった。兄を褒めてくれる人なのにどうして何の印象もなかったんだろうか。

「それで、頼みごとなんだけど」

 言い辛いことのように声を落とすので、彼の方に耳を寄せる。進学したくせにわざわざフリーターになった純を頼ってくるくらいだから余程の事情があるのだろう。少しドキドキしながら耳元に集中した。

「実は、借金の連帯保証人になっちゃってさ」

 よくあるようで実際にはあまり聞かない話だった。

「それでその人がどっか逃げたとか?」

「…うん」

「うわぁ」

 いくら?と訊くとピースサインが返ってきた。

「…二百?」

「二百ならよかったな」

 二千万。それはずいぶんと大きな借金だ。

「誰の借金?親とか?」

「いや、大学の先輩」

「先輩の保証人になったの?」

 バッカだなー、と素直にこぼしてしまった。フリーターを見下していた進学組の峰原は怒ってしまうかもしれない。しかし峰原は意外にもきまり悪そうに俯くだけだった。

 高校の時とは違うチャラついた明るい髪でつるんでる先輩の素行の悪さが知れるというのは偏見だろうか。ともかく借金を作って逃げるようなろくでもない先輩とのお付き合いがあるのは確かだ。

「そういうのは法律事務所とか、あとはなんだっけ、国民生活センターみたいなのに行けばいいんじゃない?」

 確かに純は秋継のおかげで不自由ない経済状況ではあるが、二千万をポンと貸せるほどじゃない。

「無理なんだよ」

「なんで?」

「先輩が逃げたのが昨日なんだけど、今日の朝書類と一緒に家族の写真が入った封筒が送られてきて」

 今日の朝といえば、純がひったくりを追いかけていた頃だ。まさかその時昔の同級生がそんなことになっていたなんて。

 家族の写真というのはわかりやすい脅しだ。しかもそんなことをするということはまともな金融業者ではない。

「もしかして先輩が金借りてたのってさ、久我…」

「久我組じゃない」

 食いつくような否定だった。しかし、慌てて否定したくなるのも無理はない。久我組と言えばここらで最も大きな暴力団だ。この前も発砲事件が起きたとニュースでやっていた。関わりがあると思われたくない気持ちもわかる。

「そんなところから金を借りる勇気がある人じゃないんだ」

「でも久我組って知らなかったのかもよ?傘下の組の金融だったとか」

「絶対違う」

 確信があるような強い口振りだ。そこまで否定するということは峰原の方でも少しは調べているのかもしれない。

「とにかく一緒に何か手立てを考えてくれないか。金を貸せとは言わないから」

「全然いーよ」

 手立てなんて、純の頭では大人しく金を稼ぐかその先輩を連れ戻すしか浮かばないが、もしかしたらあの天才の頭なら何かいい対策が浮かぶかもしれない。話してみるのもアリだ。

「ありがとう。じゃあ、俺バイトあるから」

 お礼にここは払っておく、と言う峰原の背中を見送ってから、純はメニュー表を手に取った。

 ここへ来たのは峰原の話を聞くためともう一つ。店のメニュー開発の参考に、とも考えていた。

 なんせ喫茶店の似合うあのマスターはコーヒーこそ美味しく淹れるが、コーヒー以外は全て不味く作ってしまう。おかげで昼時の純の仕事量は通常のカフェ店員のそれではない。いっそのことメニューを全部コーヒーに変えてしまうかとも思ったが、それでは店が立ちいかない。仕方がないからマスターでも美味しく作れる簡単なメニューを考えなければいけないのだ。

 メニューをパラパラめくってパンケーキにしようかパフェにしようか迷っていたところで、後ろからトントンと肩をつつかれた。

「純、久しぶり」

「蛇草さんじゃん、久しぶり」

 細い三白眼を更に細めて笑っているのは、兄の数少ない友人の一人だった。

 柔和な表情を常に浮かべていて、優しそうなそれは他人の警戒心を簡単に萎めてしまう。しかし純にとっては優しそうというだけの単純な人ではない。いい人か悪い人かといえばいい人に寄るが、善性の隙間にある悪質な部分が時折見えて引いてしまう。けれど善良な仮面を被るのが上手い彼は、華やかなわけではないがモテそうな雰囲気があるし実際男女関わらずモテる。

 彼の後ろに目を遣ると、連れだと思われる男女が数人ほど固まってこちらを見ていた。遠慮なく刺してくる視線がチクチクする。

「また取り巻きぞろぞろ連れてるね」

「友達って言ってくれないかな」

 蛇草はその友達の方を振り向いてどこかてきとうな席に座っているように指示を出すと、純の隣、さっきまで峰原がいたところに腰掛けた。

「友達はいいの?」

「ただの取り巻きだからね、どうでもいい」

 二枚舌の男は純の手元のメニューをちらっと覗き込んで、それから純の横顔を見つめた。

「それより聞きたいんだど」

「なに?」

「さっきまでここに座ってた男、彼氏?」

「えっそう見えた?」

 純だってまだ年頃の若者である。三月に高校を卒業してから四か月、心は依然ピチピチのまま。色恋には敏感でそういう話題には嬉々として食いつく。高校時代もよく友人と恋バナに勤しんだものだ。恋人どころか片想いの相手も見つからなかったが。

 しかし、蛇草はそんな純の期待をポッキリ折るように首を振った。

「いや?こそこそ話してる友達同士って感じだったね」

「なぁんだ」

「純の格好が男っぽいからだよ。もう少し女の子らしい服を着たら?」

 くいっとTシャツの裾が引っ張られる。女の子らしい服といえば、さっきの蛇草の取り巻きの一人が着ていたようなひらひらしたものが思い浮かぶが、あれは疲れそうだ。

「蛇草さんは僕のことほんとに女だと思ってる?」

「女の子だったらいいなとは思ってるんだけど…どっち?そろそろ教えてくれるの?」

「どっちでもいいじゃん。ていうか聞きたいことってそれだけ?」

 結局一番安くてシンプルなパンケーキにしようと決めたところで、蛇草の話が本題に入った。

「さっきまでここにいた男がどんな奴か教えてくれない?」

「峰原くんのこと?なんで」

「冷泉に言われてちょっと調べなくちゃいけなくてね。純と話してるところを見つけられてラッキーだよ」

 まるで店に入ったら偶然見かけたとでも言いたげな口振りに、ウソつけと腹の底で呟く。

 蛇草智治という男は世界一の人たらしである。一目見ただけで好かれることも少なくなく、心酔の域に達している人も多いと聞く。さっきの取り巻きもどうせ似たようなものだろう。そして、町のいたるところにいる彼の信者は歩く監視カメラのようなもので、この町の近辺で探し人がいるなら彼に頼ればいい。純と峰原のことも信者からの報告があったに違いない。それで取り巻きをぞろぞろ連れてご来店したわけだ。

 しかし、そんな見え透いた虚言より蛇草の口から冷泉の名前が出たことが気になる。

 久我冷泉。兄の友人の一人であり、指定暴力団久我組の若頭だ。次期組長なんて言われている男である。つまるところ生粋のヤクザ。秋継とは違う意味で、他とは異なる世界に生まれた男。

 そんな久我が調べさせているということは、やっぱり峰原の先輩は久我の組から借りていたのだろうか。

 いつもなら何も考えずに素直に話すのだが、ヤクザが関わっているとなると口も重たくなってしまう。まるで級友を売るかのような罪悪感があった。

「その峰原くんのことを教えてくれたらお礼に…」

 スッと蛇草の細い指が純の前で開かれたままのメニュー表に伸びる。

「好きなものなんでも奢るよ」

 トンと指されたのは値段の都合で諦めかけていたチョコレートパフェ。口にかけたおもりが軽くなっていくのがわかる。

「それから今朝のひったくりのことも教えてくれるとありがたいな」

 ついでのように追加された要求に目を丸くする。峰原の件を聞きたがるのはまだわかるが、それとひったくりがどう関係するのだろうか。

 首を傾げる純に、蛇草は誰もが魅了されてしかるべきの、純にとってはもう見慣れた柔和で綺麗な笑みを浮かべた。

「全部解決したら教えてあげるよ」

「…ふぅん。別にいいけど、帽子被ってたからひったくりの顔とか見てないよ」

 通り過ぎざまの店員だって見惚れてしまうような美丈夫を、純は胡散臭いなと眺めていた。こう言った蛇草が教えてくれた試しは一度もないことは身をもって知っている。

 何も教えてくれないのにパフェ一つで峰原のこともひったくりのことも喋ってしまうのは、いいように使われている気がしてならなかった。


 純が自宅のドアをくぐったのは日が暮れかかる頃。まだ看板は出たままだから営業時間内だ。

「ただいま」

「遅かったね。夕飯は食べる?」

 カウンターの中でいつもと変わらず迎えてくれたマスターの前には猫背の兄が座っていた。他にお客さんは見当たらない。

 ナポリタンに見えるものを頬張っている秋継は帰ってきた純を見ると「おかえり」とソースのついた口で言った。彼の性質とあまりに不釣り合いで輪をかけてまぬけに見える。

「純も食べる?宇多さんのナポリタン」

「美味しいの?」

「めちゃくちゃ不味い。宇多さんやっぱりセンスあるよ」

 不味い不味いと言いながら純の料理を食べる時と変わらないスピードで口に運ぶ。不味いことで有名なマスターの料理をこのペースで食べられるのは秋継だけだった。

 やっぱり不味いですか、とマスターは呑気に呟いているが喫茶店のマスターであることを思えば呑気にしている場合じゃない。

「キッチン借りていい?」

「構わないよ。ついでに私の分も作ってくれるかい」

 自分で自分の料理が不味いことをしっかりわかっているマスターは、絶対に自分の食事は用意しない。ちゃっかり頼まれた二人分の食事は、材料が残っていたので秋継が食べているのと同じナポリタンになった。

 カウンターのマスターに一皿渡すと、隅に置かれている丸椅子に腰をかけて食べ始める。端っこが落ち着くのだと言っているのを聞いてからなんとなく彼には小動物ぽいイメージを抱いている。

 自分の分を持って兄の隣に座ると、もう食べ終わったはずの兄からフォークが伸びてきた。器用に巻いて取られてしまう。

「宇多さんの後だと特に美味しく感じる」

「それはよかった」

 食べ終わったにも関わらず席を立つ気のなさそうな兄の隣でナポリタンを巻いては食べていく。半分ほど食べ進めたところで、一旦手を止めた。

 秋継が食事を終えてもずっと座ったままなのは何か話がある時だけだ。そうでなければさっさと二階に上がっている。水を飲みながら目線だけを向けると、薄っぺらい唇が開いた。

「純がいない間に冷泉が来たよ」

「久我さん?」

「うん、お前のことを探してた。ひったくりがどうとか言ってたけど」

 今朝女の荷物をかっさらっていったひったくりはずいぶんと大物のようだ。ヤクザの荷物でもかっぱらっていったのだろうか。結局事情を話してくれなかった蛇草も用があるというような口振りだった。

「そういえば蛇草さんに会ったよ」

「そう。厄日だね」

 外の世界に対してどこまでも冷たい秋継と友達でいてくれているのだから、あの二人は存外優しいのかもしれない。

 そこでふと、蛇草と会う前に同級生と交わした約束を思いだした。兄に話すべき本題はこちらだ。

「兄ちゃんさ、二千万の借金の連帯保証人になってその借金を急に背負うことになったらどうする?」

「…今日会ってた昔の同級生の話?」

「うん」

 この兄ならそもそも借金の連帯保証人になんてならないだろうから先の質問は無意味だったかもしれないと思いながら何の気なしに頷くと、横に座っていた兄がわざわざ座り直して体ごとこちらを向いた。

「今日のことを教えてくれない?」

「え?」

「まずは朝のひったくりから」

 いったいそのひったくりが何をしたっていうんだ。





 秋継はシャーロック・ホームズではないと教えてくれたのは、喫茶店のマスターである宇多さんだ。話を聞いただけでわかってしまうのだからどちらかといえば安楽椅子探偵じゃないかな、と言われた幼い純は大いに不貞腐れた。その時の純にとっては漢字の並んだ名前よりカタカナの方が外国っぽくてかっこよかったから。

 その兄は今、安楽椅子ではなく開店前のカウンターの前に腰掛けて朝食のサンドイッチを頬張っている。ばたばたと慌ただしく階段を駆け下りてきた純に目を遣って、まだのみこみきらないくぐもった声で「どこ行くの?」と言う。相変わらず口の端のソースが似合わない。

「峰原くんから連絡あって、お金借りてるとこの事務所。冬城町の近く」

「そう。気を付けてね」

 まだ咀嚼も終わらないうちに尋ねてきたわりにはあっさりとしている秋継は、また正面に向き直って手元のサンドイッチを食べ進める。今度はその正面で食器を拭いているマスターが純に微笑んだ。

「お昼までには帰ってくるんだよ」

「わかってるよ。行ってきます」

 ランチタイムには戻らないと、マスターの料理で客がさらに減ってしまう。それだけは避けないといけない。

 足早になった純はそのまま駆け足になって、峰原から伝えられた住所までまっすぐ向かう。

 場所は冬城町の大歓楽街の近く。メインの通りから少し離れているせいか、看板の傾きかけた夜の店が並んでいる。昼でもある程度人通りのある大通りとは違って、こちらは人も車も見当たらない。昼は静かな夜の街。その背後にいるのは大体が久我組だと決まっている。

 無料案内所が子供っぽい字体で旗を掲げる隣のビルの前で言った通りに峰原は立っていた。電話口ではすぐ来てくれなんて焦った口調で言っていたけれど、本人は思ったより平気そうな顔をしている。

「急に呼び出してごめんな」

「いいよ。どうかしたの?」

「いきなり事務所に来いって連絡がきて、一応持ってる金は全部持ってきたんだ」

 掲げてみせたトートバッグはそこそこ詰まっているように見えたが、二千万がまるまる入っている風ではない。多くて五百万くらいだろう。ただの大学生がすぐに五百万用意できただけでも上々である。

 行こう、とためらう様子もなく純の手首を掴んで中に入っていく。あまりにあっさり入っていくのでたたらを踏んでしまった。階段を上りながら握られた手首を見て、そういえばこの男は純のことを男と女どちらだと思っているのだろうと考える。少なくとも女の手を引く力ではない。純がもし峰原の立場ならもっと優しく握るはずだ。

 事務所は二階にあるらしく階段を上ってすぐのドアを開ける。中は誰もいなくて、安っぽいデスクと椅子が隙間を開けて置かれているだけだった。街と同じく動き出すのは夜なのかもしれない。窓の外も同じように閑散としていて、二つ先のここと似たようなビルの前に車が一台停まっているだけだった。

 峰原は奥の部屋に向かって不思議なくらいにずんずんと進んでいく。純はただ引っ張られるだけ。これでは呼び出されたのがどちらかわからない。

 一番奥の部屋をノックした彼は「失礼します」と言った。その様子を見て、純はすべてのことに合点がいった心地になった。蛇草が峰原について訊いてきたのも久我が純を訪ねてきたのも、なんだか至極当然のことのように感じた。

 ドアを開けた先の真正面で、小太りのおじさんが偉そうに座っている。峰原に引っ張られるがままその部屋に入っておじさんの汚い笑顔を眺めていると、後ろで鍵の締まる音がした。隣を見あげると峰原もおじさんと同じ顔で笑っている。それを見てようやく純は、騙されたんだと安心して確信できた。

「ごめんな、菅原」

 微塵も申し訳ないと思ってなさそうな顔で言う。けれど構わない。なぜなら純の方が先に峰原のことを蛇草に売っているので。なんならこれで引き分けだ。罪悪感がなくなって良かったとさえ思う。

 騙されたのは大いに結構。しかし、その背景がわからない。なんせ蛇草も秋継も何も教えてくれなかったのだ。これでは道化同然に巻き込まれているだけである。

「えっと…峰原くんに借金はないってことでいい?」

「借金はないけど、金は必要なんだ」

 二千万、とピースサインが添えられる。

「それでなんで僕が連れてこられたの?」

「菅原に返してもらうためだよ」

「なんでだよ」

「お前のせいで金が必要になったからだよ」

「あほらし。僕もう帰るね」

 責任転嫁もいいとこだ。こんな場所さっさと離れるに限る。

 振り返って鍵を開けようと手を伸ばしたところで、視界がぶれた。ゴッという生々しい音が他人事みたいに聞こえる。顔全体を襲った衝撃が体の芯まで揺らして、そのまま床に倒れ込んだ。飛びかけた意識を奮わせて顔を上げると、拳を握ったかつての級友に見下ろされていた。

「すまないね、うちの若い者が血気盛んで」

 ただ見ているだけのおじさんが声を掛けてくる。鼻をすするとねばついた液体が奥を塞いだ。鼻血が出てるかもしれない。

「峰原くんヤクザだったんだ」

「自分の状況わかってんのか?呑気だな」

 その言葉に純が返事をする前に、コンコンとドアを叩く軽い音がする。返しそびれた言葉が口の中でまごついた。

「誰だ?」

 急な訪問にはさすがに顔色を変えたおじさんはそう尋ねる。しかし戸口の向こうが答えることはなく、もう一度コンコン叩くだけ。急かすようなその音にドアを開けるはずもなく、また同じ問答が繰り返された。そして薄戸の奥から若い男の声がする。

「さーん、にぃ」

 いち、と言われる直前に耳を塞いだ純の手のひら越しに、鋭い破裂音が心臓を揺らす。何度か聞いたことのあるそれは、しかし何度聞いても慣れないものだった。

 鍵を銃でぶち抜いて入ってきたのは、背の高い若い男。顔面に乗せた笑顔はどこか蛇草に似ていて、ぎらつくような圧があるのにその圧さえ呑みこんで穏やかに見える。その左手に銃が握られていなければ。

「初めまして」

 呆然と固まっているおじさんに挨拶をした男は部屋をじゅんぐりに見回して、それから床に座ったままの純を見て笑顔の色を変える。一気に子供っぽくなった表情で眼前にしゃがみこんできた。

「純、久しぶり」

「…久しぶり」

「鼻血だしてるなんて珍しいじゃん。後で写真撮らせてよ」

「やだよ」

 初めて会った時には黒かった髪は根元だけ残してあとはグレーに染まっている。すっかり馴染んでいるその派手な髪色を揺らして血を流す純の顔をじろじろ見てくるので、手の甲で雑に拭い取った。

 スーツをしっかり着て一般人のふりをしたヤクザは、銃をしまうと代わりに胸元のポケットから名刺を取り出した。最初胸元に突っ込んだ手で何を取り出すのかとびくついていた峰原とおじさんも、ただの紙切れであるそれを見て胸を撫で下ろす。けれど、その名刺を差し出されたおじさんの方はすぐに顔色を変えた。

「私はこういう者でして」

「…久我組の」

 さっきまでの汚らしい笑みが消えたということは、ここは久我組の傘下ではないらしい。そこは嘘をついていなかった。

 おじさんの目がじろりと純を見つめて、それから峰原を睨みつける。拳を叩きつけてきたさっきまでの威勢は青ざめた表情に変わっていた。「なんで久我組のガキを連れてきたんだ」と見当違いなことを言い出したおじさんに峰原はぶんぶんと首を振る。水しぶきを飛ばす犬みたい。

 二つ先のビルの前に窓まで真っ黒な車が停まっている時点でこの乱入は予想できていた。それに蛇草に喋ったのだから久我のところまで話は届くに決まっている。あの男は久我の優秀な情報源なんだから。

「久我さんなにしに来たの」

「可愛い後輩を助けに来てあげたんだよ」

「絶対ウソじゃん」

 ため口を許されているとはいえヤクザである。ただ助けるために来るわけがない。他人の利益のためという大義名分を掲げて結局は自分たちが一番得するように立ち回る連中だ。

「ほんとだよ、純のためだって…一割くらいは」

 付け足された言葉がなければただの優しい先輩だった。だけど、ここで純のためだと言い切られる方がより怪しい気もする。

「じゃあ残りの九割は?」

「どうしたの?今日はやけに知りたがるね」

 完全に峰原もおじさんも無視して純と話している久我がおもむろにしまっていた銃を取り出した。そして、そのまま自分の斜め後ろに向けて引き金を引く。放たれた鉛は出口に向かってにじり寄っていた峰原の足先数センチに穴を開けた。

「今この子と話しているので待っていてもらえます?」

 久我が仕事をしている場面に出くわしたことは何度かあるが、その度に純や友人である蛇草などといる時と違いすぎて二重人格ではないかと思ってしまう。口調から表情に始まり仕草や利き手まで、何から何まで全く違う。

 峰原に向けたハリボテの笑みが純に向く頃にはすっかり子供っぽくなっていて、これでも気に入られているのだという実感はあった。

「で?なんでそんなに知りたがるの」

「蛇草さんも兄ちゃんも話聞くだけ聞いて何も教えてくれないんだよ」

「あー、それは酷いねぇ」

 可哀想に、なんて思ってもないことを言う。

「じゃあ代わりに俺が教えてあげるよ」

「ほんと?」

「もちろん。今回純には世話になったからね」

 微笑んだ久我が隣にしゃがみこむ。ドカッと肩を組まれた。のしかかる腕が重い。優男の皮を被っていても所詮は荒くれ者のこの男は他人の扱いが雑だった。

 貧乏ゆすりみたいにぐらぐら揺れながら、まず、と純の前に指が一本立てられる。

「うちの組が扱っていたクスリが盗まれた、二キロ」

 立てられた指がまっすぐおじさんを指す。その指先で震えあがっている彼の仕業らしい。おびえているところを見れば意外に愛嬌のあるおじさんだ。

「そのクスリは質が良い上に貴重でね。二キロでなんと二千万」

 立てられていた指が二本に増えて、今度はそのピースサインが峰原に向けられた。血気盛んだった若者は怯えた目をカタカタ震わせてその指を見つめている。

 違法薬物の相場なんて知らないがずいぶんといいものだそうだ。今度純もやってみる?と言われたので急いで首を振った。

「うちもバカばっかりじゃないからさ、盗んだ奴の見た目くらいはすぐにわかったんだよ」

 それがこれ、と差し出されたのは久我の携帯で、荒い画質で小さく二人組が映っている。かろうじて男女のペアらしいというところまではわかった。

「人探しってなれば適任は智治でしょ?それで頼んどいた」

「え、この画像で人探し頼んだの?」

「さすがに解像度上げたやつ渡したよ」

 街の全体に放たれている蛇草の監視カメラはものの数時間で目当ての片方を見つけ出した。

「そしたらびっくり。純と話してるって言うんだもんな」

「もしかして、ひったくりに遭ったお姉さん?」

「そう」

「…マジか」

 首を落として項垂れる。ひったくりに遭ったスレンダーで綺麗なお姉さん。一目惚れ、とまではいかないが立ち姿が凛としていて去っていく後ろ姿も堂々としていてなかなか好みだった。頬に触れてくれた手も優しくて暖かかったし。

「えっ、もしかしてストライクだった?」

「大丈夫。今ストライクゾーンから外した」

 肩にかけられた手で頭を撫でられておざなりな慰めを受ける。好みの娘揃えとくから今度うちがやってる店においで、という申し出は断っておいた。昔からこの男はどうも自分と同じ場所へ純を引き摺りこもうとしている節がある。

「まぁ女の方はすぐ捕まえたし、おまけにクスリは全部女が持ってた」

「…そのクスリが入ってたのって」

「そう、純が取り返した女のバッグ」

 お手柄だね、と褒められるが犬のように撫でられてもそんなに嬉しくない。

 それよりも薬物がパンパンに入ったバッグを手にしていたということがわかって、手をめちゃくちゃに洗いたい衝動に駆られている。

「でもクスリが取り返せたらオッケーってわけじゃないんだよね。純も知ってるでしょ?メンツが大事なんだよ、俺たちは」

 それはもうよく知っている。なんなら今回だって大切だったのはクスリそのものよりも、うかうか二キロ分も盗まれたせいで潰されたメンツだろう。でなきゃ組の若頭がわざわざここまで来るわけがない。

「だから盗んだもう片方の男も見つけなきゃいけなかったんだけど、そしたら純がその男の方とも会ってるって言うからさ」

 それまで黙って青い顔をしているだけだった峰原の表情が僅かに強張る。

 なんだか純は虚しい心地だった。かつて机を並べていた友は別人になっていたのだから。高三の冬に進路の話をした峰原はもう死んでしまっていたのだ。秋継を褒めてくれる峰原をどうして忘れていたのか、なんて覚えているはずがない。だって級友だった峰原は兄を褒めたりなんてしていなかった。

「二人だけでうちの組のクスリを盗むわけがないからね。純から詳しく聞けて助かったよ。後ろにいる奴もすぐに見つけられた」

「…そりゃよかった」

 先輩の役に立ったというより、いいように駒として使われたという感じがする。相手がヤクザだからだろうか。

 久我の話を頭の中で繰り返しながら整理していく。時折ちらつく芯のある綺麗な後ろ姿に集中力が途切れそうになりながら反芻していると、ふと思い当たることがあった。

「あれ?峰原くんさっきお金がいるって言ってなかった?」

 金額からしてクスリの損失額だろうが、久我組に取り返されただけなら峰原くん一人が負う必要はない。

「ああ、それは…」

「あの女が盗んだからだよ」

 久我が言うより先に峰原が口火を切る。なんだか怒っているような口調だった。

「盗んだ?」

「二人で盗んで事務所に置いてたのをあいつが一人で盗んで逃げたんだ。だから連帯責任で俺がクスリ分の金を払わなきゃいけなくなったんだよ」

「そもそもうちから盗むのが悪いよね」

 それならクスリを売ろうとすること自体が悪いのだが、口には出さないでおく。この場において堅気は少数派だった。

 それにしても盗んだものをさらに盗むとは、美人だったのになかなかの悪女である。純のささやかな憧れは儚く散った。

「取り返そうとしたんだけど失敗してな」

 バツが悪そうに純から顔を背けた峰原にハタと思い当たる。俯いて目元が隠れたその顔つきはどことなく見覚えのあるものだった。

「あのひったくり…」

「俺だよ」

 溜息をついて項垂れた純の肩を叩きながら隣のヤクザがさも愉快そうに声を上げて笑う。この男の幸せは他人の不幸でできている。

 後付けの言い訳のようだが確かに違和感はあったのだ。純だって何もわからないバカじゃない。最初に変だなと思ったのは蛇草にひったくりの話をしている時。その時のことを一つ一つ言葉にしてみると、荷物を取り返すのに夢中で気がつかなかったことが見えてきた。

 ひったくりの進路を塞ぐようにして走っていた純は、当然正面から鉢合わせた。そして、目深に帽子をかぶっていた男は道路の真ん中で手にしていたバッグを落としてしまい、それから背を見せて走り去っていった。

 結果として置き去りにされていたヤクでいっぱいのバッグは取り返せたわけだが、ひったくりの挙動が少しおかしい。しかし、あれがかつての同級生を見つけてしまっての反応なら納得できる。揉みあいにでもなって顔を見られれば一発で名前までバレてしまうのだから、目当てのバッグより保身に走るのも当然だった。

「だから僕にお金払ってもらおうとしたんだ」

 クスリが結局女の手に渡って最終的に元あった久我組に戻ったのは、純がひったくりから取り返したからである。言いがかりも甚だしいが、理解できない話じゃない。

「知りたいことはもうない?」

 床に座っていた状態から立たされて、真正面から顔を覗き込まれる。大きな目をぎょろりとさせている無邪気な表情には迫力があった。

「…今のところは」

「じゃあ、はい」

 そう言ってハンカチでも渡すかのように差し出されたのは黒い塊。どう見ても拳銃のそれをグリップが純に向くように差し出している。

「なにこれ」

「ウソつかれて騙されてたんでしょ?腹立つよね」

 空いている方の手で純の手を掴んでグリップを握らせる。思ったよりも重いソレを取り落とそうにも、握っている手ごと包まれてどうにもできない。

「一発くらいぶちこんどきな」

 目の前の男に向かって心の中で思いきり顔をしかめた。

 嫌になる。秋継の友人で仲良くしてくれている男といえど、結局はヤクザなのだ。そしてこのヤクザは、冗談のような口調と無邪気な笑みで誤魔化しながら本気で純を自分の方へ引き摺りこもうとしてくる。似たような経験がこれまでに何度もあった。

「いらない」

「そう言わずに」

 きっぱりと断ってもどこ吹く風。たとえ助けてくれたとしても、純にとって久我が世界一の悪党であることに変わりない。この男がどこまで本気なのかは知らないが、たとえここで本当に引き金を引いたとしても、彼にとってはただの余興に過ぎないのだろう。それをわかっていてなおピエロを演じるつもりはない。

 引かずにじっと睨みあっていれば、やがて抑え込んでいた手のひらが離れていく。純の体温に馴染んだ拳銃もするりと抜かれた。危機が去って肩の力が抜ける。

「撃ちたくなったらいつでも言いな」

「そんなの一生言わない」

「男の人生は何があるかわからないよ?」

「久我さんはほんとに僕が男だって思ってるの?」

 似たようなことを先日蛇草にも訊いた。あっちは純が女だと思っている。本当の性別を教える気は今のところない。

 久我の顔から笑みが消えて、キョトンと丸められた瞳だけが残る。あまり見ることのない顔だ。蛇草も久我も、兄の友人は揃いも揃っていつも笑顔ばかり浮かべている。

「…女の子だったら困るな」

「なんで?」

「女の子が殴られる前に助けられない男なんて最低じゃん」

 女が腹から血を出していようと見捨てるような男のくせによく言う。

 また垂れてきた鼻血をすすると、今度はハンカチが差し出された。真っ白なそれを受け取るのをためらってしまう。鼻血を拭うにはもったいない。

「使いなよ。そのまま帰ったらお兄ちゃんに心配されるだろ」

 そう促す声は優しい。しかし、もう片方の手に握られているのは拳銃で、指先はしっかり引き金にかかっていた。

 アンバランスなのに絶妙にバランスをとって上手く立ち回っている。純を自分の方へ引きこもうとしているのだって、隙を見てきっかけを与えているだけだ。それ以外の時は基本的に面倒見のいい先輩である。ただその絶妙なバランスの振る舞いが奈落を深く覗いているようで不気味だった。

「…ありがとう」

 さっきまで拳銃を撃たせようとしてきた男に言うべきかは迷ったが、一応礼を口にしておく。久我は満足そうだった。

「じゃあ、純はもう帰りな。あとはこっちの仕事だから」

 さっきまで純が握っていた拳銃を構えて、その先を峰原に向けている。さっきまでの良い先輩の毛色はすっかりヤクザになっていた。

「殺すの?」

「殺してほしくない?」

「その人、腐っても僕の同級生なんだよね」

 峰原の瞳が一瞬揺れる。だましたことを後悔したのか、情の深さに感動したのか。どちらであるにせよ、意味のないことだと知っていた。

「うん、わかった」

 だからお前は帰りな、とまた促されて鍵の壊れたドアに向かう。歩いて帰ってもランチタイムには間に合う時間だ。部屋を出る直前に見えた久我はいつもみたいに笑っていた。

 悪党は世間話と同じ口調で嘘をつくし、笑いながら人を殺す。そう純に教えたのは他ならぬ悪党その人だった。

 じきに聞こえるだろう銃声から逃げるように薄汚いコンクリートの間を走り抜ける。渡されたハンカチから血に混じって甘い柔軟剤の香りがするのがおかしくてしかたなかった。

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