お姫様と初恋
彩女が席を立ち、二人きりになった姫美は重い口を開いた。
「吉祥寺さん、ちょっと聞きたいことがあるんですが」
「...私?彩女じゃなくて良いの?」
彩女が姫美には少なからず心許し、姫美も彩女にはただの上司以上に懐いているのは春奈にはこの少ない時間で何となく気付いていた。だからこそ、わざわざ彩女が席を外した今、今日会ったばかりの春奈に何を聞こうというのか訝しんだ。
何よりわざわざ彩女がこの場に招待したのだ。
二人は多かれ少なかれ本音で話せる信頼が築かれている筈。
故の春奈の返答。
「別に構いません」
姫美のそんな突き放す様な答えに、自分が席を立った数分で一体何があったのかと春奈は頬を引き攣らせる。
(何々~?姫美ちゃんなんで不貞腐れてるの~、恨むわよ~彩女~)
春奈は心の中で不貞腐れるような物言いの姫美を押し付けた彩女を内心恨みつつ、目の前の荒んでいるお姫様を何とかしようと小さくため息を吐く。
「それで、姫美ちゃんは何を聞きたいたいの?」
「…吉祥寺さんはせんぱ…神崎さんと付き合い長いんですよね」
「うん、赤ちゃんの頃からの付き合い」
「なら、茜って方を知っていますか」
「っ!?……彩女に聞いたの?」
まさか姫美の口からその名前が出るとは思ってなかった春奈は、予想外の問いに動揺したが、その問いを彩女の預かり知らぬ所で答える事は出来ないと思い答えた。
「直接は。でも、先輩が私に誰かを重ねてるのは分かります。これでも自分への視線には鋭いので」
「そう。そこまでなのね」
姫美の口から発せられた言葉が、嘘ではないと悟った春奈は深いため息を零す。
春奈は諦めた様に壁にもたれ掛かり、空を仰ぐ。幼馴染の春奈は勿論その質問への答えを持っている。
が、それを春奈が一から十まで答えるわけにはいかない、それは彩女自身の口から伝えられるべきことだから。
それは彩女にとって傷であり、大事な思い出だから。
「姫美ちゃんは彩女の事どう思ってるの?」
「質問を質問で...」
「大事な事だから、答えて」
はぐらかされる、と思った姫美が反論しようとしたが、春奈の真剣な表情を見て言葉を募らせる。
「大事な先輩で、人として尊敬出来て、それで...嫌われたくはない人ですかね」
「ふーん、それだけ?」
「は?」
春奈から言われた言葉に思わずイラっときたが、その顔が決して馬鹿にしたようなモノではなく、どこか寂し気な様子を浮かべていたことで溜飲が下がる。
「別にバカにしてるわけじゃないんだよ。ただちょっと本当かな~って訝しんだだけ」
「...本当ですよ」
姫美は嘘はついていない。ただ彩女へ向けた綺麗な感情だけを口にしただけ。
それを見透かすかのように薄らと笑う春奈を、姫美は今まで抱いた印象を一転させ、やりにくいと言った苦手意識を抱いた。
春奈は煙草を取り出し、言葉なく仕草で許可を取ると火を付け紫煙を吐き出す。
紫煙は換気扇に吸われ、対面の姫美に届く事は無く。姫美はもったいぶる春奈をじっと見つめる。
「茜はね、彩女の初恋相手だったの」
「はぁ」
「ふぅー。今の姫美ちゃんあげる答えはこれだけ」
「え?いや、もっと教えてくださいよ!その茜さんの事とか先輩の事とか!」
春奈のもったいぶった答えに、なにより気になる事が増えた答えに不満を感じ声を荒げる姫美だが、春奈はそれを笑顔で躱し、それがバカにされているように思った姫美が詰め寄ろうとした瞬間。
「ただいまー」
「!?」
彩女が帰って来たことで姫美は一瞬で腰を落とし、何食わぬ顔で氷の溶けたグラスを煽る。
「おかえりー、遅かったね」
「店前で吸ってたらナンパされてね、しつこくてダルかったよ。あ、すいませーん」
春奈も特に何もなかったように振舞い、三人分の追加のビールを頼む。
彩女は特に何があったか気づくことが無いまま、「高城さん、春奈に相談出来たかなー」と姫美を見つめる。
姫美も何もなかったかのように笑顔を浮かべているが、時折春奈に視線を投げるも、意味がないと悟ると諦めのため息を吐く。
そこから三人は酒を肴に、様々な話に花咲かせた。
仕事の事、プライベートの事、これからの事。唯一、恋愛関連の事だけは誰も口にしなかった。
◇◇◇◇
時刻は22時を回り、三人とも泥酔とは言わないが気持ちよく酔った辺りでお開きの声が上がる。
「そろそろ帰ろっか」
「だね、春ねぇ旦那さんは?」
「駅に迎えに来てくれるって」
「ならそこまでいこっか」
三人は会計を済ませ、駅へ向かって歩む。
酔いが回って気分の良くスキップ混じりに歩く彩女を先頭に、後続の二人は苦笑しつつ付き従う。
「姫美ちゃん」
人の波が切れ、彩女が少し距離を開けたタイミングで話し出した春奈に、姫美は春奈の顔を見るも、その表情からは笑顔以外読み取れない。
「もし、彩女に対して抱いたモノが恋心以外なら、これ以上彩女に踏み込まないでね」
「え?」
姫美は笑顔の春奈から発せられた、警告の様な拒絶の言葉に言葉を失い立ち止まった。
春奈はそれ以上何を言う事も無く、立ち止まる姫美を放置し少し先で手招きしている幼馴染の元へ駆け寄った。
呆然としていた姫美も、彩女に呼ばれ急いで駆け寄る。結局、春奈がそれ以上言う事は無く駅にたどり着いた。
「それじゃ、私はここで旦那を待つから」
「ん、おやすみー!」
「おやすみなさい」
電車に乗る必要のない春奈はそこで迎えを待ち、二人と別れる。
春奈と別れた二人は帰りの電車に乗り込む。幸いにして車内は程よく空いており、人に揉まれる事も無く帰路に着く。
その間気分の良い彩女は姫美に幾つも話を振るが、直前に春奈に言われたことが頭から離れない姫美は何処か上の空で生返事を返すばかりで、反応の悪い姫美に飽きて自宅最寄り駅に着く頃には話しかける事も無かった。
(茜って初恋の人と私を重ねているのは分かった。でもそれだけで関わるなって言われるほど?)
どうして春奈が姫美に踏み込むなと言ったのか、どうしてそこまで言われなくてはいけないのか。そして自分が彩女に抱いている独占欲は恋心から派生したものでは無いのか、と思考の沼に嵌っていった。
(別に先輩が誰と私を重ねようと、ただの先輩なんだし良いけど。だからと言って関わるな見たいなこと言われてはいそうですかって言う気にはならないんだよね)
姫美は気づいていない。
こと対人関係において、姫美は徹底的に浅く広く、そして誰からも悪感情を向けられない様にしていた為、自身も誰かに悪感情を向ける事を決してしなかった。
にも関わらず。彩女にだけ仄暗い感情を向け、あまつさえ彩女が関わると良い子の仮面がドンドン剥がれている事を姫美自身が気付かない。
それでいて本当の自分を見て欲しいと、愛してほしいと思っているのだから姫美もある意味では歪んでいると言える。
姫美にとって真の恋人とは、カエルになった王子の呪いを解く王女的存在にまで偏屈化されてしまい、本当の自分を見つけ出し愛してくれる絶対的存在だと思っている。
だからこそ、良い子の仮面の下を暴いた彩女に執着を見せているのだが。その様な歪んだ恋愛観を自覚しない姫美にとって恋とは異性にするものという普通の恋愛観で考えてしまいそれを恋心だと気づかない。
(幼馴染だかなんだか知らないけど、先輩は私の先輩なんだから。近寄るな?茜だか何だか知らないけど、先輩から私に近づかせればいい話だよね)
自分が仮面をかぶらなくて済む相手、それを受け入れてくれ心地の良い相手であり居場所を、半年かけて気づいた信頼関係。それをぽっと出の幼馴染に奪われてたまるかと、姫美の可愛らしい唇が三日月を描いた。