お姫さまは帰らない
「今日も先輩の家に行きますね」
上司に押し付けられた書類を手にデスクに戻ると、定時を迎え帰宅の準備を済ませた姫美が笑顔で彩女に話しかける。
「は?帰りなさいよ」
しかし残業が確定した今、些か棘のある声で拒絶する彩女に姫美はへこたれることなく、寧ろ怒るかのように眉を寄せ可愛く睨みつける。
「先輩の家汚いですし、なによりちゃんとご飯食べてるか心配ですから!」
彩女は、お母さんかよ。と喉元まで出かかった文句の言葉を飲み込んで、作業の手を止めることなく横目に睨みつける。
「余計なお世話、それに私は今日残業だから時間会わないわよ」
「大丈夫です、一旦家に帰って準備するんで!」
「だから...」
何故か引く気配のない姫美の態度に、些か苛つきつつ作業の手を止めて向き合う。
「昨日は遅かったし貴方も酔ってたから仕方なく泊めたけど、私と貴方は上司と部下。それだけの関係なのよ?」
対して仲良くないんだから来るな。と怒気混じりに伝えるも。
「別にいいじゃないですか、今は上司と部下。でもそのうち親友にだってなれますよ私達」
(親友...)
親友と言う言葉と彼女の態度に胸が痛む。彩女はそれを押し隠し、それでもと声を上げようとすると。
「それに、今は誰かと一緒に居たいですし...」
(...ずるい子)
俯きがちに語る姫美に内心感心しつつ、呆れるが、その儚い姿に思わず手が伸びかける。
「...そんなに誰かと一緒に居たいなら他の友達の所に行けばいいでしょ」
それでも手は伸ばさない、傷つくのが、傷つけるのが分かっているから突き飛ばすかの様に拒絶する彩女に姫美は尚縋りつく。
「そんなこと言わないでくださいよぉ!先輩~......(それに、彼氏に浮気されたなんて今先輩以外に相談出来ないんですよ)」
「...貴方の友達大丈夫なの?」
小声で心許せる友人がいないなんて言う姫美に、流石に心配になる。
「まぁ、正直辛いっちゃ辛いですけどね、だから...尚更寂しくて」
明るく笑う姫美は一転悲し気に目を伏せる。そこまで来てようやく。
「はぁ...仕方ないわね」
「!!先輩!」
彩女が折れ、姫美は嘘だったのでは?と思う程の満面の笑顔を浮かべる。
「とりあえず、私は残りの仕事を急いで終わらせるから。2時間で終わらせるわ」
「はい、私もいったん帰って準備するんで!携帯無いんで駅前のスタバで待ってますね!」
元気よく手を振りながら去る姫美を見送り、重なった書類を前に気合を入れる。
「ちゃちゃっと終わらせますか」
そう呟けば、やけに軽快な指がキーボードが奏でていた。
◇◇◇◇
「確かに泊まっていいとは言ったけど...何日泊まるつもり?」
約束通り2時間で書類を片付け、更なる仕事を押し付けようとする上司から逃げるように退勤し、彩女が息を切らしながらカフェにたどり着いて見たのは、まるで家出少女と見間違えるような大荷物を掛けた姫美の姿だった。
「しばらくお邪魔します」
へへへと頭を掻きながら笑う姫美が抱えるのは、キャリーバックとボストンバック。服装は黒のニットを被り、水色のパーカーに黒いスキニーでカジュアルに纏められていていた。
「まぁokしちゃった訳だし、仕方ないか...」
その姿を見ただけで疲れがどっと沸きだす。
「とりあえず行きません?さっきから神待ちかなんかだと勘違いされまくってるんですよ」
「図々しいわね」
催促する姫美を胡乱な目で見るも、確かに夜間に駅前のカフェにいつまでも居座るのも居心地が悪い。ため息を吐きつつ、帰りの電車に向かう。
「そういえば、良く私があそこに住んでるって覚えてたわね。教えたの大分前な気がするけど」
「あぁ、あそこら辺度々友達住んでて。度々行くんですよ、ほら、あのマンションでかいから目につきますし」
「友達ねぇ」
弱った所も見せられない友達は友達なのか?なんて訝しげに視線で問えば、姫美は困った様に笑うだけ。
『錦糸町~錦糸町~』
電車が来て、沢山の仕事帰りの人たちが詰め込みながら乗り込む。
「狭い~先輩~」
「我慢して、少しだけだから」
ぎゅう詰めになりながら数分。
『次は新小岩~新小岩~お降りのお客様は~』
「ほら、降りるわよ」
「ちょ!待って!先輩!」
人の波に流されつつ、急いで降りるも姫美が大きい荷物の所為か上手く出れず、押されたか何か体勢を崩す。
「危ない!」
彩女が間一髪手を伸ばして腕を引き上げたお陰で転ぶには至らなかった。
「ありがとうございます」
「っ!..気を付けなさい」
しかしその所為か、二人は身体を密着させ、お互いの息が掛かってしまう程の顔を近づかせる。そしてそんな距離で見つめあい、ゼロ距離で笑いかけられた彩女はその破壊力に身悶え、ぶっきらぼうに顔を背けた。
「先輩?」
「...行くわよ!お腹空いた!」
「え?そ、そうですね。晩御飯は楽しみにしててくださいね」
赤くなった顔を隠すように背を向け突然大声を出した彩女に、姫美は驚きつつ、帰りの脚を早める。
(くそっ!ほんと顔が良いんだから)
内心悪態をつく彩女の耳が真っ赤に染まっていたのは、人でごった返す改札に呑まれ姫美が気づくことは無かった。