お姫様の元カレ
工藤 真尋は人生で一番焦っていた。
「真尋君。その子誰?」
予定していた来客の為、残業を早めに切り上げ自宅に帰り来客の少女をもてなしていた真尋に、連絡なく自宅の扉を開けた彼女は、驚愕の表情を浮かべながらそう聞いてきた。
「姫美?こいつは……」
「どうも~千尋で~す」
説明しようとする真尋を遮って顔を出し真尋に身体を寄せる千尋に、真尋は眉を顰め、姫美は小さく「やっぱり」と呟く。
「浮気……してたんだね」
そう呟き俯いた姫美に、真尋は驚き慌てて弁明を図る。
「は!?あ!違う!それは誤解だ!俺は浮気なんてしていない!!」
しかし突然の姫美の言葉に度肝を抜かれた真尋は、初めての事にテンパってしまい、言うべき言葉を間違えてしまう。
ここで真尋が落ち着いて千尋の事を説明すれば、もしくは違った言葉であればこの後姫美の口から出る言葉は違ったかもしれない。
「もういい……もう別れる!」
「ちょっ!待てよ!!」
玄関を飛び出す姫美を追おうと、真尋は一歩踏み込んだ瞬間段差に躓いて顔面から派手に倒れ込む。
痛みに悶えながら立ち上がろうとする真尋の背後から、クスクスと小馬鹿にするような笑い声が届き、苛立ちと怒り織り交ぜながらその笑い声の主を睨みつける。
「何笑ってんだよ」
「別に~情けなくてどんくさいお兄様を笑ってなんてないですよ~?」
睨みつけられた少女は、真尋の怒りなぞどこ吹く風とばかりに小馬鹿にしたようなにやけ面を浮かべる。
「そもそも!お前が俺の紹介を遮ったからこうなったんだろうが!なんで名字を言わなかった」
馬鹿にされた真尋は元彼女の後を追いかける事も忘れ、一年付き合った彼女に別れを告げられる原因となった少女に食い掛る。
真尋に詰め寄られた少女は、つまらなそうにため息を零すと座椅子に深く座り呆れた様な目を真尋に向ける。
「いや、私は悪くないでしょ。確かに妹ですとは名乗ってないけど、冷静に弁明できればまだ良かったのに、テンパってきちんと伝えられなかったのがだめだよね~」
妹と口にした少女。工藤 千尋からの容赦ないダメ出しに怒りは鎮火し片膝を尽かんばかりに心を抉られる真尋。
千尋は、そんな真尋の様子を尻目に先ほど真尋の彼女が出ていった玄関に視線を向ける。
「それに彼女さん。やっぱりって口にしたって事は浮気疑われてたんじゃない?」
「は?」
千尋からの言葉に顔を上げた真尋の顔には疑問譜が幾つも浮かび、その言葉の意味を理解しきれていなかった。
「だって兄貴ここ暫く残業しまくってたじゃん」
「なんでお前がそれ知ってんの」
「お母さん愚痴ってたよ」
「……それで」
「どうせ兄貴の事だから、大して彼女さんに説明したりしてないでしょ。今日も残業です。みたいな報告ばっかで」
「まぁ」
ふてくされた様にそっぽ向く真尋の様子に、自分の考えが正解だったと確信し、そんな真尋に尚呆れが募る。
「2か月?位忙しくしてたよね、その間彼女さんに会った?」
「いや、忙しくて。偶に電話するくらいで」
「それにヘタレな兄貴は普段からきちんと愛してる。とかきちんと好意を伝えてなかったでしょ」
「……はい」
真尋もここまで言われて、漸く気づく。
確かに真尋と彼女は一年近くの付き合いだ。が、好意を口にするのを照れた真尋は直接彼女に愛を囁く事が上手くできなかった。
態度やプレゼント等で好意を伝えているつもりではあったが、明確な愛の言葉を伝えられないまま、一定期間会う事もままならず、連絡も素っ気ないなんて浮気を疑われても仕方がない事だと。
「それにさっきのも最悪だよね。まんま浮気男のセリフじゃん」
「いや、それは……テンパって」
「はぁ……そのテンパると語彙力死んで最悪のセリフチョイスする癖直した方が良いよ。マジで」
兄のあまりの情けなさに呆れを通り越して悲しくなってくる千尋は、俯く真尋を見つめる。
「それになんで今すぐ追いかけないの?彼女なんでしょ?今すぐ追いかけて誤解解きなよ」
「あっ!」
「あって……マジでバカ」
「ちょ!いまから行ってくる!」
急いで立ち上がり、上着を羽織る真尋を見ながら、この調子では誤解を解くのは難しいのでは。と内心心配する千尋は憐みの視線を真尋に向ける。
真尋がそんな視線に気づくことは無く、携帯だけを手に玄関を飛び出す。
「まぁ、面白がって黙ってた私も悪いし。帰ってきたら兄貴のハーゲンダッツで慰めてあげるか」
一人取り残された千尋は、しょうもない兄を思いながら若干の申し訳なさとリアル修羅場を目の当たりした愉悦を覚えながら自分用のハーゲンダッツを口にする。
真尋と千尋は確かに兄弟だが、一見して兄弟と分かる程似る事は無かった。
真尋は特別顔が良いわけでも悪いわけでもない、良くて中の上な特徴の無い容姿に対して、妹の千尋は誰もが認める美少女に育っていた。
22歳を迎えた千尋は、小悪魔的な笑顔がよく似合う猫目の美少女で。
ミディアムボブの黒髪に前髪の一部を青く染め、ハートの細工が施されたレザーチョーカーを付け耳には幾つものピアスが刺さっており、サブカルチックな派手さを身に纏いながらそれがよく似合っていた。
快楽主義者で愉悦に浸るのが大好きな千尋は、兄である真尋が美少女である姫美と一年の交際を経ている事は真尋伝手に知っており、直接面識はない物の真尋や母親伝いに姫美の惚気を聞かされていた。
そんな千尋が最近の兄の現状、そして性格を考え。もし姫美の前で真尋と仲良くしていたら修羅場に直面するのでは、と最低な暇つぶしを思い付き、同棲はしていないと聞いていたため、その準備の為兄の家に泊まりに来ていた。
それがまさかその日に姫美が真尋の家を訪れるとは思ってはいなかったが、千尋を目にしたときの姫美の反応を見て姫美が真尋に猜疑心を抱えていると見抜き。
真尋の紹介を遮って敢えて名前だけを伝えた。
「にしても姫美さん、あっさりと別れたな。もしかしてあんまり兄貴に固執してないのかな?」
結果はおおむね成功。
が、千尋が望むような修羅場に発展することは無く、あっさりと身を引いた姫美を見て真尋の後を付けて真尋と姫美の会話を盗み見る気が失せてしまった。
それも仕方ない事ではあるのだが、姫美の無意識化には彩女と言う避難先が既に存在していて、姫美にとって彼氏とは無意識的に彩女より下の存在になっていた。
だからこそ姫美は、裏切られたと思いつつも彩女と言う避難先がある為真尋に言い募る訳では無く、諦めるという判断を下せた。
当然それを知らない千尋は、姫美の真尋への愛が薄いと解釈し兄を憐れんだ。
「あ、もうないや。……もう一個だべちゃお」
千尋は既に姫美への興味無くしていた。
◇◇◇◇
工藤 真尋は内心怒っていた。
浮気を疑われる要素はあったかもしれない。
確かに普段から明確に好意を示すことは無かったかもしれない。
だが、だからと言ってあんなにあっさり別れを切り出されるものなのか?普通、一年付き合った彼氏が家に女を連れ込んでいる場に遭遇したらもっと激昂して詰め寄る物なのでは無いか?
なのに姫美はあっさりと身を引いた。
その事実に真尋は実は愛されていなかったのでないかという不安を覚えた。
「くそ、電話繋がんねぇ」
真尋はひとまず電話を入れて、落ち着いて話をしようと考えた。しかし姫美が電話に出る事は無く、仕方なしに姫美の済むアパートへ足を運ぶ。
「確かに俺も悪かったけど、だからって潔すぎだろ。遊びだったのか?」
真尋は自分で呟いた言葉を否定しきれなかった。
真尋が姫美と初めて出会ったのは友人に誘われた合コンだった。
当時は現役の大学生と呑める!と豪語する友人に人数合わせで嫌々参加した合コンだったが、姫美を一目見て一転した。
はにかんだような笑顔に、細かい気遣いの出来る姿勢に、自然に場を回せる社交性に。その全てに惚れた。
が、奥手な真尋が友人たちの様にガツガツ行けるわけもなく、姫美と一歩距離を開けて接していた。
それが結果的に姫美の琴線に触れ、連絡先の交換に至れりそこから姫美と真尋は友人として交流しだした。
姫美は当時既に就職は決まっていたが、仕事への相談や日々の愚痴など話題を振り。
真尋はそれに丁寧に答え、女性の愚痴にアドバイスを挟むことなくひたすら共感しよいしょしてあげた。
そしてそんな真尋の優しさに触れた姫美が、卒業前に交際を切り出し一年間付き合いだした。
真尋にとって女友達は多かったが、どれも友人どまりだった事で人生初の彼女に有頂天になったが、恋人に対しての経験の無さと元来の奥手で受け身な性格が災いして積極的に愛情を口には出来なかった。
が、それでも真尋と姫美の交際した一年は肉体関係こそ多くは無かったが上手くできていたと真尋は信じている。
だからこそ姫美の反応に腹を立てていた。
どうしてもっと怒ってくれないのか。
どうしてもっと悲しんでくれないのか。
どうしてあっさりと諦めてしまったのか。
そんな姫美に対して失意と怒りが湧きながら、仲直りしたらせめて一言物申してやろうと考えつつ姫美のアパートの扉の前に立つ。
「流石に、帰って来てるよな?」
真尋の家を飛び出したとは言え、そこら辺を歩くような危険な真似をせず姫美の自宅に帰っている事を願いインターホンに指を掛ける。
「……でねぇ」
2,3鳴らすも反応が返ってくることは無く、渋々ノックし内心近所に謝罪しつつ声を張る。
が、それでも返事が返ってくることは無く、渋々ドアノブに手を掛ける。
「おーい。姫美~?……まさか」
真尋はそこで姫美が自宅にいない事に気付き、まだ外をブラついてるのではと思い立ち、かつそんな姫美がよからぬ輩に声掛けられる光景を幻視し居ても経っても居られず飛び出す。
◇◇◇◇
結論から言って真尋が姫美を見つける事は無かった。
当然ながらその間姫美は彩女の自宅に向かっており、何かトラブルに巻き込まれる事は無かったが。そんな事を知らない真尋は戦々恐々としながら、自分のベットで眠る妹にイラつきソファで一晩明かす。
◇◇◇◇
「はぁ」
「どうしたよ真尋、元気ねーけど」
「あぁ、文則か。いやなちょっと彼女と喧嘩して」
翌日。出社早々に陰気な顔でため息を零す真尋に声を掛けた、姫美と出会うきっかけになった友人に軽く愚痴をこぼす。
「まぁ、お前みたいなヘタレいつか飽きられるって思ってたしな!」
「てめぇ」
「よせよせ!顔は辞めろ!仕事に影響出る!」
「うるせぇ!なら煽るんじゃねぇ!」
二人は姦しく騒ぎながらデスクに着くと。文則と呼ばれた友人は神妙な顔を浮かべる。
「まぁ失恋には新しい恋が一番だ」
「んなこと言われても姫美以上の女と付き合えねーだろ」
その真尋の返答を聞き、文則はにやりと口を歪める。
「それがよ。今日うちの部署に超美少女が来るらしいぜ」
「何処情報だよ」
「人事の子が教えてくれた」
「お前それ……」
良いのか?と言いそうになったが、友人のこういった可愛い子関連に情報網は今更な事に気付いて諦めのため息を零す。
「あー、皆ちょっと良いか」
そこでオフィスの入り口で部長職の男性が声を張り、皆の視線が其処に集まる。
「今日からうちに中途で新しい社員が入る事になった。と言っても転職してきたからある程度は問題ない筈だ、それじゃ挨拶よろしく」
部長職の男性が背後に声を掛け横にずれる。
文則はそれをワクワクした顔で眺め、真尋はこの時期に転職とか珍しいなと冷めた目で眺める。
「おはようございます。縁あって今日からこちらで働くことになりました四条 茜と申します。前職ではシステムエンジニアとして働いていました、こちらでもその経験を生かしていけたらと思っております。至らぬところも多いですが、ご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願いいたします」
そう言って茜は顔を上げて、はにかんだ笑顔を浮かべた。