01. 採取家のナギ - 1
―――ここではないどこかへ行きたい、と。
漠然とそう夢想する機会は、誰にでもあるんじゃないかと思う。
少なくとも、僕にはあった。それも、かなりの頻度で。
別に生活に不満があったわけじゃない。
テストで酷い点を取ったわけでも、傷心するような失恋の経験もない。
ただ、理由も無く。そして、どうしようもなく。
心が本来の在処を離れて、何かを求めるかのように彷徨うことがあった。
『ここではないどこかへ行きたい』
もしかするとそれは、願望というより、郷愁に近い想いだったのかもしれない。
後から思えば―――。
きっと、その『想い』が。僕を異世界へ導いたのだろう。
[1]
玖島凪は、普通の男子高校生―――だった。
少なくとも一時間前までなら、間違いなくそうだった筈だ。
年齢は最近十八歳になったばかりで、趣味は読書と簡単な料理。
特技は小器用なことで、勉強でも運動でもゲームでも、大抵のことならば他人よりも少しだけ要領よくこなすことができることが小さな自慢だった。
とはいえ、それは『小器用』止まりであって、あくまで『一応は上手にできる』という程度でしかない。つまり本当に才能のある人とは較べるまでも無いのだ。
性別は間違いなく男だが、小学校低学年の頃から背丈の成長が止まってしまい、また運動をしても筋肉が付きにくい身体のせいか、友人から『男らしくない』とよく言われてしまうのが、ここ数年の悩みだった。
運動は苦手ではないが、かといって好きでもない。凪は専らインドア寄りの生活を好み、自宅から進んで出掛けるのは学校に行く時ぐらいのものだ。
両親は仕事の都合で殆ど自宅に居ないけれど、自分ひとりの生活を満たすだけなら、食料や生活用品、衣類などの買い出しは学校帰りにする分だけで事足りる。もしそれで不足するものがあっても、現代生活にはネット通販という便利なものがあるのだから。
そんなインドア生活が主体である筈の凪が―――けれど、今は森の中に居た。
凪の周りを取り囲むものは、見渡す限りに溢れる無数の樹林ばかり。
木々の高さは、大体10メートル弱といった所だろうか。結構な高さの樹林が多く、よほど木登りに長けた人でもない限り、これを登ることはできないだろう。
深い林冠に閉ざされた森の中は、鬱蒼としていて薄暗い。林冠の向こう側から、透けるように射し込んでくる陽光がある今でさえそうなのだから、これから時間が経過して太陽が傾いてくれば、森の中はより暗さを増していくことだろう。
森は動物の領域だ。
熊や鹿、猪や蛇。時に人間を襲うこともある、そういった動物の姿が周囲に無いことを入念に確認しながら、凪は森の中をゆっくりと彷徨い歩く。
「どうして、こんなことに……」
はあっ、と深い溜息をひとつ吐いてから、凪はひとりごちる。
―――『気が付いたら森の中に居た』
自分でもおかしなことを言っていると思うが、そうとしか言い表しようがなかった。
凪にとっての最後の記憶は、学校の帰りにコンビニへ立ち寄ったことだ。
まだ六月も半ばだというのに、その日は随分と気の早い猛暑日で。学校から帰る夕方頃になっても、外の気温は30度を越えていた。
一人で暮らすことに慣れている凪は余計な買い物を好まない。生活に必要な品を買い込むために学校帰りにスーパーやドラッグストアに立ち寄ることはあっても、コンビニへ立ち寄ることなど滅多に無いのだが。
それでも―――その日はきっと、暑すぎたのだ。身体が疲労を覚え、喉は猛烈に渇き、凪にしては珍しく冷たい飲み物かアイスのひとつでも欲しくなった。
だから凪は、学校帰りの途中にあるコンビニに立ち寄って―――。
そうして気がついたら、この森の中に居た。
コンビニの自動ドアを潜ったその先が、この森に繋がっていたのだ。
もちろんすぐに凪は背後を振り返ったが、そこにはただ暗い森が広がるばかり。
理由は全く判らないが―――何故か自分の全く知らない場所に転移してしまったのだと。
この森に来て、かれこれ数十分は彷徨い歩きながら考えた結果。ようやく凪が出した結論がそれだった。
(ここは、日本ではない……ような気がするんだよね)
森の中の植生を眺めながら、凪はそんなことを思う。
今でこそ海外を飛び回る両親の留守を預かり、二階建ての一軒家に一人きり暮らしている凪だが。小学校を卒業するまでの幼い頃は、長崎にある実家で祖父と共に暮らしていた。
祖父は地元で『山菜採りの名人』と呼ばれている有名な人で、山菜や茸の類にはとにかく詳しかった。
当時はまだインドア嗜好に染まっていなかった凪は、育児放棄も同然の両親よりは自然と祖父を慕い、山菜採りに同行して教えを受ける機会も多かった。
なので山野や樹林に生える植物に限れば、凪にも幾許かの知識はある。
―――筈なのだが。
けれどもそんなナギの知識が、この森では全く活かせそうには無かった。
付近一帯に生えている植物のあらゆるものが。樹木にしても、草花にしても……何もかも全てが、凪にとってまるで見覚えの無いものばかりで溢れていたからだ。
だから凪には―――この場所が『日本』ではない、国外にあるどこかの森のように思えてならなかった。
「……っ!」
凪がちょうど、そんなことを考えていた瞬間のことだった。
唐突に森の奥側から姿を見せた4体の何かと、思わず目が合ってしまったのだ。
(………………ゴブリン?)
それは、ファンタジー小説や漫画などによく登場する、いわゆる『ゴブリン』と呼ばれるモンスターであるように見えた。
全身が濃い緑色の肌に覆われており、その容貌には、どこか人間の姿を歪に変形させたかのような醜さがある。
とりわけ、体躯自体は矮小なのに腕だけは異様に長い辺りなどが、醜さを際立たせるのに一役買っているように思えた。
恐ろしいことにゴブリンと思わしき4体の集団は、いずれも短剣や片手剣といった、金属製の武器を手に携えていた。
しかもその4体のゴブリン達は、凪の居る側へ向かって、じりじりと距離を詰めてくるではないか。
「ま、まさかコレ……異世界転移、なのか……?」
ゴブリンだなんて。―――こんな奇妙な生物、国内だろうと国外だろうと、地球上に存在していよう筈も無い。
国外に転移した可能性は考えていたが。まさか昨今のライトノベルによくある『異世界転移』だなんて展開は、流石に想定もしていなかった。
(―――どうする!?)
今更ながらに、ここが凪の持つ常識が通用しない世界である可能性こそ理解したものの。このままではゴブリン達に殺されて、最悪の結末へ一直線だ。
ゴブリン達が手に持っているのは、遠目からでも全く手入れされていないことが一目で判る、錆び付いたボロボロの片手剣だ。切れ味は皆無だろうし、殺傷力はそれ程高くないかもしれないが―――。
とはいえ丸腰のままで、四体もの武器を持った相手と戦えるかと言えば別だ。
(一か八かやるしかない……!)
こんな醜い魔物達に一方的に殴られて死ぬぐらいならば。せいぜい抗うだけは抗ってみよう―――。そう意志を定めた凪は、都合よく近くの地面に落ちている、手頃な長さの木の枝の存在に気付いた。
武器としてはあまりに頼りないが、こんなものでも無いよりはマシだろう。
それに凪が愛読している、よくある異世界転移モノの小説のように。もしも自分に、神様から何らかの異能が与えられていたりするならば。こんな枝切れひとつでも、ゴブリン達を倒すことだってできるかもしれない。
そう覚悟を決めた凪が、いざ地面から木の枝を拾おうとした、その瞬間。
《―――それを拾ってはいけません!》
「……っ!?」
頭の中へ直接響いてきた、強く制止する女性の声に。
びくっと、驚きのあまりに硬直して、凪は枝を拾おうとする手を止めてしまう。
ぐずぐずしている間にも、ゴブリン達は凪のすぐ目の前にまで詰め寄ってきて。
そうして―――何事も無かったかのように、凪の横を素通りしていった。
「……えっ?」
慌てて凪が後ろを振り返ると、どうやらゴブリン達はこちらにまるで関心が無いらしく、背を向けたままどんどん向こう側へと遠ざかっていく。
やがて、ゴブリン達の背中が完全に見えなくなってから。凪はへなへなと力なく地面に崩れ落ちて、ようやく安堵の息を吐くことができた。
「た、助かった、のか……?」
木の枝なんかを拾ったところで、金属製の武器に太刀打ちできる筈もない。
まして4対1という分の悪い状況では、武術の訓練を充分に積んだ格闘家でさえ苦しい戦いを強いられることだろう。無論まるで心得のない凪の場合であれば、結果は考えるまでもなく明らかだ。
(まさか、武器を拾わなかったから襲われなかったのか……?)
もし凪が木の枝を拾い、それをゴブリン達に向かって構えていたなら。それが戦闘の意志を持つ行動であることは、ゴブリン達にもすぐに判っただろう。
そうなれば、たとえゴブリン達にこちらを攻撃する意志が無かったとしても、結果的に戦闘になっていた可能性は高いように思えた。
《その通りです。危ない所でした……》
先程、凪の行動を制止してくれた女性の声が、再び頭の中に聞こえてくる。
―――もしかして、こちらが頭の中で考えたことが伝わっているのだろうか?
凪がそう思惟を巡らせると、女性の声は即座にそれに応えてくれた。
《はい。私はナギ様と共に在る存在ですので、思念を読むことができます。もっとも、ナギ様が私に「思念を伝えたくない」と意志をお定めになれば、以降はそれを解除するまで一切伝わらなくなりますが》
「は、はあ……。それは思念ではなく、言葉でも伝わるのですか?」
《伝わります。私はナギ様と共にある存在ですので、ナギ様の周囲状況を常に観測することが可能です。ナギ様が誰かに対して話した声も、誰かがナギ様に向かって話した声も、どちらも私には把握することができます》
「あなたは、誰ですか……?」
《その質問には―――お答えすると少々説明が長くなってしまいます。武器を手に持たない限りナギ様は魔物に襲われることがありませんが……とはいえ森の中で長話をするのも賢明とは言えません。まずは安全な環境の確保を優先される方がよろしいかと》
「―――あはっ。なるほど、あなたの言う通りですね」
くつくつと凪が笑いを漏らすと。姿の見えない女性もまた、凪の頭の中で小さな笑い声をくすりと漏らしてみせた。
何にしても『魔物に襲われることがない』と断言して貰えたことは有難い。
もし再びゴブリンの集団と相対しても、普通にしていれば大丈夫ということだ。
「……ちなみに何故、僕は魔物に襲われないのですか?」
《それは、ナギ様が〈非戦〉というスキルを持っておられるからです》
凪の質問に、女性の声はそう即答してくれた。
更には、凪の視界の端に、突如として小さなウィンドウが表示される。
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〈非戦〉Rank.1 - 採取家スキル
左右の手に武器を持っていない場合、絶対に攻撃されない。
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(まるでゲームみたいだ)
自分の視界に表示されている青い半透明のウィンドウと、その枠内に記述されている内容を見て、凪は率直にそんな感想を抱く。
昔ハマってよく遊んでいたVR-MMOのゲーム中に表示されていたウィンドウが、ちょうどこんな感じのデザインと色使いだったことを覚えている。
《私の中にはナギ様の『記憶』に関する情報が事前共有されています。その中にはナギ様が元居た世界でよく遊ばれていたオンラインゲームに関する記憶もありましたので、それを模した形で視界に投影させて頂きました。
―――表示形式を改めたほうがよろしいでしょうか?》
「ああ、なるほど……。いえ、このままでお願いします」
どうやら先方が気を利かせて、凪にとって判りやすい形で情報を表示してくれたらしい。そういうことであれば表示形式がゲームに酷似しているのにも納得がいく。
インドア派である凪にとって、ゲームは読書と料理に続く第三の趣味といえるほどに慣れ親しんだものだ。なのでゲーム形式で情報を表示してくれるのは実際判りやすく、素直に有難かった。
《承知しました。それと、私に対して敬語は無用です》
「では、僕のことも『凪』と呼び捨てにして貰えませんか? それと貴女の名前を教えて頂けると嬉しいのですが」
《申し訳ありませんが、そのご要望には応じられません。また、私には名前がありません。ただの欠片に過ぎませんので、好きにお呼び頂けましたら》
「エコー……? よく判りませんが、では『エコーさん』と呼んでも?」
《ナギ様がそのように名前を下さるのでしたら、私は今日この時より『エコー』で御座います。但し、私にさん付けは無用です。どうぞエコーと呼び捨てになさって下さい》
別に名前を付けたつもりは無かったのだけれど―――そう告げる女性の声色は、どこか嬉しそうなものにも聞こえる。
彼女が『エコー』という名前に満足してくれるのであれば、今から否定するのも野暮というものだろう。凪としては、ただ親愛を籠めてその名前を口にするだけだ。
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お読み下さりありがとうございました。