第5話 ダンジョン
カラーン、カラーン、と澄んだ鐘の音が遠く響いていた。
その穏やかな音色に釣られるように、継人の意識はまどろみの中から浮かび上がった。
「……んん、ふああぁぁ」
一つ大きな欠伸をした後に、継人はベッドから体を起こす。
どうやらいつの間にか眠ってしまったようだ。
継人はボーッとした目で部屋を見回した。
部屋に光源は無かったが、窓からはうっすらとした明かりが射し込んできていたので、それなりに見通しはきく。
それでも薄暗いので、おそらくはまだ明け方なのだろう。
「……喉渇いたな」
結局、昨日は何も口に入れないで眠ってしまったので、渇きと空腹が酷かった。
干し肉があったことを思い出したが、食事よりも先に水で渇きを潤したい。しかし、部屋を見回しても水差しらしきものは見当たらなかった。
(そういえば風呂があるんだったな。ならそっちに水もあるか?)
八畳ほどの部屋に、入口とは違う扉がもう一つある。
その扉を開けるとすぐ目の前に洗面台があった。その隣が風呂で、奥がトイレのようだ。
「水道……だよな?」
洗面台には蛇口らしきものが付いているが、これは水道なのかと継人は首を傾げる。
まあとりあえず、と奇妙な形状の蛇口を捻ってみると普通に水が出た。
間違いなく水道のようだ。
電灯のようなものがあったり、水道があったり、この星にはそれなりの文明度はあるらしい。
しかし、問題はこの水が飲めるものなのかどうかだ。
継人は蛇口から出る水を手に掬うとまじまじと観察する。透明できれいな水だ。変な匂いもしない。見た感じは飲んでも問題なさそうだが、実際はどうなのだろうかと悩む。
日本では問題なく飲める水道水だが、飲めない国も多い。地球ですらそうなのに、こんな謎惑星の水道水など普通に考えたら飲めるはずがない。
継人はしばらく悩んでいたが、悩んでいても分かるわけがないと気づき、素直に聞きに行こうと一階フロントに向かった。
「……早いな。チェックアウトか?」
一階の食堂で欠伸まじりに木のコップを傾けていた店主が、継人に気づくと声をかけた。
「いや、水が飲めるか聞きに来ただけだ」
「食堂は駄目だと言ったはずだぞ」
継人の言葉が足りず、店主は誤解した。
「ああ、違う違う。部屋の水だ。水道水は飲んでも平気か?」
「水道の水か。問題ないぜ。ウチの水は全て飲料水だ」
「そうか。――あ」
安心して部屋に戻ろうとした継人だったが、ふと気づいたことがあり足を止める。
「なあ、この辺りで何か働き口に心当たりってあるか?」
継人は店主に尋ねた。
水も食料も寝床も、今は運良く確保できているが、それも昨日偶然に金を稼ぐことができたからだ。だがその金も今のままでは三日ほどで尽きる。
その前に地球に帰る手段が見つかればいいが、なぜ自分がこんな所にいるのかすら分からない継人が、三日以内に帰る方法を見つけ出せる可能性は限りなく低いだろう。
そうであるならば、継人が現状まず最優先でやらなければならないことは――仕事だ。
三日という刻限を延ばすところから始めなくては、野垂れ死ぬことになる。
「働き口か。……普通ならギルドに行けって言いたいところなんだが、お前じゃ無理だろうしな」
ギルドという所に行けば仕事があるらしいが、店主から見て継人は眼鏡に適わなかったらしく、はっきりと無理だと言われる。
一瞬、ムッとした継人だったが、現役の高校生だった身から考えれば、確かに大した仕事ができるとは自分でも思えなかったので、口をつぐむしかなかった。
「――そうだな、どうしても仕事がほしいなら……、この店を出て右に道なりにまっすぐ進んで、そこから山を少し登った場所に“ダンジョン”がある。そこで魔力鉱石の採掘をやってるから行ってみろ」
店主の言葉を聞いて継人は固まった。
魔力鉱石の採掘は知っている。十中八九昨日の洞窟のことだろう。
継人はそもそも今日はその洞窟に向かう気でいたのだ。
露天商の話で魔力鉱石の採掘は人手不足らしいことは分かっていたし、昨日の様子から自分一人が紛れても問題ないだろうと考えたからだ。
店主に働き口を尋ねたのは、ここにはどのような仕事があるのかという情報収集の一環のつもりだった。もちろん良い働き口があるなら飛びついたかもしれないが、端から期待はしていない。あくまでも思いつきの世間話程度の気持ちで尋ねたのだ。
だというのに、店主から返ってきた言葉には継人が驚愕する単語が混ざっていた。
「……ダンジョン?」
確かに継人にはそう聞こえ――いや、継人の脳には店主の異言語がそう翻訳されて伝わった。
(ダンジョンって、あのダンジョン? モンスターがいて、お宝が眠ってるアレのことだよな……?)
「ダンジョンって言ってもそこまで心配しなくていい。採掘をするだけなら一階層で十分だし、その一階層だって冒険者が定期的にモンスターを間引いてるから、大して危険はない」
魔力云々という言葉が飛び交っていた時点で一番怪しくはあったのだが、それでも可能性としては、一番ありえないと継人は思っていた。
それほどまでに、その響きは現実感がないのだ。
「魔力。ダンジョン。冒険者。モンスター……」
どうやらここはファンタジー世界らしかった。
SSS
店主が言っていた正午を知らせる鐘の音が街に響いている。
その音色を背に、継人は山道に造られた階段を上り、昨日の洞窟へと向かっていた。
(危うく追加料金を取られるところだった……)
正午の鐘の音が示す通り、現在は継人が目覚めてから、かなりの時間が経過している。
早く洞窟に向かわないと、魔力鉱石を採掘する時間がなくなってしまうかもしれない。
宿の店主からダンジョンやモンスターの話を聞いた直後こそは、予定通りに洞窟に行っても良いものかと悩みもした継人だったが、そもそも彼が選べる選択肢は多くなかった。
帰れば無条件で泊まれた家はここにはない。黙っていても食事を出してくれる親もいない。野垂れ死にしたくなければ働いて稼ぐしかないのだ。そして、継人が現在知る働き口は一つだけ。であるならば、選択の余地がないのに悩むなど馬鹿らしいことだった。
それに店主の話では、ダンジョンとは言っても浅い場所に入る分にはそれほど危険はない、とのことであったし、その話が事実だということは、図らずも前日に洞窟内をうろついた継人自身が証明していた。
それらを鑑みて、継人が洞窟に向かう決心を固めたのは、まだ朝の早い時間だったのだが、洞窟に向かうのが現在まで遅れてしまったのは理由がある。
それは継人が風呂に入り、かつ洗濯までしていたからだ。
特に、石鹸もなかったせいで、お湯でジャブジャブと濯いだだけの洗濯とも言えぬ洗濯をしたシャツと下着が乾くまでに、多くの待ち時間が必要だった。
(次から洗濯は夜のうちに済ませよう)
継人はそう決意しながら、木漏れ日の溢れる階段を足早に上っていった。
SSS
昨日の帰り際とは違い、広場にいる人間はそれほど多くなかった。
ツルハシを抱えて採掘に向かう者や、休憩中なのか露店で何かを買って食べている者、既にいっぱいになったバケツを持って換金に向かう者など、それなりの人数はいるが昨日ほどではないだろう。
「――やあ、おはよう。昨日は無事泊まれたかい?」
昨日の露店商が継人に気づくと、人好きのする笑顔で声をかけた。
「おかげ様でな」
継人はそのまま露店の前で足を止める。
買いたい物と聞きたいことがあった。
「とりあえずドライフルーツをくれ。あ、袋もな」
銀貨を一枚手渡しながら継人は言った。
昨日買った干し肉は今朝方食べたが、固い上に塩辛いので半分ほどはまだ腰の袋の中だ。
補充はなくなってからでいいだろう。それよりも塩辛さの口直しに甘い物が欲しかった。
「銀貨一枚分ならこっちの匙を使ってよ。それで一杯五ラーク。袋が三十ラークだから、十四杯だね」
露店商から昨日の一杯一ラークの小匙よりも大きなスプーンを渡される。
小さなスプーンだと七十杯も掬わなければならないので手間だからだろう。
継人はそのスプーンを使って、カラフルなドライフルーツを適当に袋に詰めながら、露店商に尋ねた。
「ツルハシとバケツはあそこで買えばいいのか?」
継人は顎で指し示す。洞窟の入口の横にバケツが大量に積まれていた。
「バケツは勝手に使って構わないよ。でも換金するときには返すようにね。ツルハシはあのバケツの山の横にある建物の中で買えるよ。……確か、銀貨三枚だったかな」
「なるほど。あと水筒とか売ってるか?」
「水筒はないけど、水袋ならあるよ。銀貨二枚ね」
露店商がそう言って継人に革の水袋を見せた。
袋というよりは、三角形のハンドバッグのような水袋は、しっかりとした作りの良い品に見える。
その分、多少は値が張るようだが、自販機やコンビニなど存在しないのだから、水分は持ち運べるようにしておきたい。
継人は銀貨二枚を支払い、水袋を受け取った。
「まいど。水だったら、あのツルハシを売ってる建物の前にある水道なら自由に使えるから、あそこで汲むといいよ。……ちゃんと飲料水だから安心していい」
「分かった。じゃあな」
「うん。頑張ってね」
継人は早速水道から水を汲んだ。
一リットルほどの水が漏れることもなく袋に入る。
継人は満杯になった水袋を、干し肉やドライフルーツの袋と同じく、袋から伸びた紐をベルトに括り付けることで腰からぶら下げた。
そのまま水道が引かれた建物を覗くと、そこには大量のツルハシとスコップが並んでいた。
昨日、魔力鉱石の買い取りをしていた者達と同じ小綺麗な服装をした男が店番をしていたので、ツルハシの値段を尋ねると、やはり銀貨三枚だと言う。
値段はそれなりだが、買わない手はないだろう。
継人は特に迷うこともなく支払いを済ませた。
右手のツルハシを重そうに肩に担ぎ、左手にはバケツを持って、継人は洞窟――もといダンジョンの入口となる階段の前に立った。
諸々の出費で残金は千二百六十一ラーク。
ここで稼げなければ、今日、明日で破産することになる。
継人は一つ気合いを入れるとダンジョンの階段を下りていった。