第1話 ポカン
我々はあらゆる自由を享受しているが、その自由は所詮、比較優位的に自動で選択されるものにすぎない。
厄介なのは、それを抜け出す手段が他人に委ねる他ないということだ。
橘央弘 著 『魂の黄金律』より抜粋。
*
二十一世紀生まれの日本人であるところの炭原継人が、なぜか異世界に迷い込んでしまった現状において、幸運だったな、と思うことの一つが食事であった。
例えば今、目の前に並んだ白いパンとシチューとおぼしき煮込み料理は、舌の肥えた現代人である彼にとっても充分に美味だと言える範囲のものである。
この世界の文明レベルが地球のそれには遠く及ばないであろうことを考えると、良くてろくに味のしないもの、悪ければ飲み込むことすら躊躇するような代物が出てきても何ら不思議ではないのだ。それを思えば、美味しいと評価できる食べ物を口に運べる事実は幸運以外の何物でもないだろう。
ただそんな幸運も、外側から冷静に相対評価可能な別の世界から来た人間だからこそ実感できるものにすぎず、この世界の原住民にとっては至って普通の食事でしかないそれらの有り難みは分かりづらい。故に――
「おい、肉も食えよ」
元々目つきが悪いと言われがちだったが、この世界に来てからますますその鋭さを増した瞳を今は閉じて、口内に広がる肉の旨味を存分に堪能していた継人だったが、不意に思い出したように言い放った。
その言葉に、彼の隣に座ってシチューの具を吟味していた少女の肩が一瞬ピクリと反応するが、すぐに自分には何も聞こえなかったとばかりに、悍ましい肉の沼から野菜を救出する作戦を再開した。
「いや、聞こえてねーわけねーだろ。お前に言ってんだぞルーリエ」
救出した匙の上の野菜を早速もしゃもしゃと咀嚼し始めた少女は、ゆっくりと継人のほうへその眠たげな視線を向ける。
眠たげと言っても本当に眠気を感じているわけではない。このクリクリの白い巻き毛と、それに負けないくらいの巻き角が側頭部に付いた羊人族の少女ルーリエは、元来からぼんやりとした半眼の持ち主なのである。
「…………」
「返事ぐらいしろ」
「…………」
今も目が合いながらも、口は咀嚼するばかりで、ルーリエは一向に返事をしない。彼女が何を求めて口をつぐんでいるのか、継人はよく分かっている。好き嫌い云々を言われるのが嫌で黙っているわけではない。それ以前の問題である。このやりとりが起床してからこちら、果たして何度目になるのか、思い出すだけうんざりするぐらいなのだ。
「【スコッパー】のルーリエさん。聞こえますか」
「む、よんだ?」
ひっぱたいてやろうかという気持ちを継人はグッと堪えた。
思い返してみれば、この世界にやって来て以降ルーリエに助けられたことは多い。その最たる例が昨日のサイクロプスとの戦いだ。彼女がいなければ、継人は戦闘後にそのまま死んでいたはずだし、そもそもあの恐るべき怪物に勝つことなど決してできなかっただろう。それを思えば『称号』を手に入れて多少調子に乗る程度のことは目をつぶってやるべきだ。
まあ、それを言い出したら、ルーリエがゴミ穴の底から生還できたのは、紛れもなく継人のおかげなので実際にはお互い様なのだが、継人の年上としてのプライドや意地が自分からその事実を指摘することを許さなかった。
「好き嫌いせずに肉も食え」
「……お野菜はカラダにいい」
素直に嫌いだと言えばまだかわいげがあるのだが、自分を正当化したようなルーリエの物言いはますます継人の神経を逆撫でした。
額に青筋を浮かべる継人。そんな彼のテーブルを挟んだ対面で、静かに食事を摂っていたもう一人の人物が、このときになって初めて口を開いた。
「別にいいじゃないか、好きなもの食べりゃあ」
そう言ったのは老婆。ハイネ魔道具店の主人アガーテである。
三人が今テーブルを囲んでいる場所はハイネ魔道具店の二階、居住スペースにあるダイニングルームだった。ダイニングとは言っても、一階の店舗スペース同様に所狭しと用途不明な道具が積み上げられたそこは、一見倉庫のようにしか見えない。きれいに片づいているのは料理が並んだテーブルの上ぐらいのものである。
「甘やかすなよ。肉も食わないと筋肉がつかないだろうが」
「こんなちっこい女の子に筋肉つけさせてどうしようってんだい」
「コイツは冒険者――じゃあまだないけど、冒険者志望なんだよ。肉つけないと戦えないだろ」
「そんなものレベル上げりゃあどうとでもなるさ」
「それは――」
言い募ろうとした継人だったが実際問題どうなのだろうかと思い、言葉を切った。
継人はこの世界に来てから特に体格がよくなったりはしていない。地球にいたときと何ら変わらないだろう。しかし、今の継人は地球に帰れば腕相撲の世界チャンピオンにだってなれるだけの腕力がある。それが筋肉ではなくレベルによってもたらされた力なのは確かだ。であるならば、目の前の老婆が言うことももっともなのかもしれない。
虚空を見上げて考え込む継人。その横では、ルーリエがチャンスとばかりに自分の分の肉を継人の器の中へと遺棄していた。
「……いや、でもやっぱり偏食は体に悪いんじゃないか?」
「そりゃあ、良くはないだろうね」
「だろ? それに筋肉つけることだって無意味ってわけじゃないはずだ。例えば同じレベルの者同士の戦いだと筋肉ついてるほうが力は強くなるんじゃないのか? それか筋肉を鍛えると筋力のパラメーターが伸びやすくなるとか」
「まあ、一応どっちもそのとおりではあるね」
アガーテの肯定に、やはりそうかと継人は頷いた。
「今後はそういうシビアなところも気にしなきゃいけないかもしれない。婆さんの見立てじゃ俺たちは結構危ない立場にいるんだろ? この――『称号』ってやつのせいでさ」
『称号』――それは世界に認められた証。運命に印された付箋。
アガーテの説明は継人にとって難解を極めたが、そう難しい話ではない。称号とは要するにスキルである。継人が元々持っていた【体術】や【言語】などのスキルと同様。ただ厄介なのが効果のほどが不明なことと、さらに――
名前:【魔眼王】継人
職業:Fランク冒険者
名前:【スコッパー】ルーリエ
職業:借金奴隷『レーゼハイマ』所有
このようにネームウィンドウに強制的に表示されてしまうことだ。
これでは周りに称号のことを隠し通すのは不可能に近い。
「称号ってのはとにかく貴重だ。特に力を求める冒険者にとっては、強力なアーティファクトなんかと並んで一種の憧れの対象ですらある。だからどんな形であれ、それが欲しいって輩は掃いて捨てるほどいる。あんた達を無理矢理パーティーやクランに引き込もうって連中ならまだ可愛いもんさ。問題はあんた達から称号を奪おう(、、、)とする奴らだよ」
称号を奪う。アガーテのその言葉に継人は食事の手を止める。
「『継承』とか言ったっけ?」
朝食の用意をしている間も、アガーテが何度となく忠告してきた言葉を思い出し、継人が改めて確認する。
「そう。称号はどうすれば取得できるのかほとんど分かっていない。だけどその中であって一つだけ称号を取得できたという実績のある方法がある。それが継承。称号の持ち主を殺せばその称号を引き継げるのさ。まあ、とは言っても確実に引き継げるわけじゃない。それどころか成功率はむしろ低い。実際、称号持ちの冒険者なんて化け物揃いさ。そんな低い確率を頼りに化け物を相手にするなんて普通は割に合わない――」
そこでアガーテは一度言葉を切ると、匙でもって継人の顔をピッと指し示した。
「だけどあんた達の場合は話が別だ。低レベルの称号持ち。いいカモさね」
真剣に語り合う二人を尻目に、肉抜きの朝食を平らげ「もう自分は食べ終わった」という既成事実を作り出したルーリエは、仕上げの果実水を飲んでいた。ほのかに甘い、柑橘系の爽やかな香りの果実水を、木のコップが逆さになる勢いで天井を仰ぎ見るようにグビグビと一息に飲み干す。
全てを成し遂げ、ぷはー、と満足げに息を吐いたルーリエは、テーブルに視線を戻すなり口を開けて固まった。
空だったはずの自身の食器に肉がこんもりと盛られていたのだ。
コシコシと目を擦るがもちろん幻ではない。
「……ふん、カモね。上等だ。残らず返り討ちにしてやるよ」
不機嫌そうにシチューをガツガツと平らげる継人。肉の半分は返却したが、もう半分は引き受けてあげているところに彼なりの優しさがあった。
「まあ、せいぜい頑張ることだね。あと、がっついてるそれだってタダじゃないからね。服代、治療費と一緒にちゃんと払いに来るんだよ」
「……ちっ、分かってるよ」
嫌なことを思い出したと言わんばかりに、継人は顔をしかめて頷くのだった。
*
ハイネ魔道具店は大通りに面しているが、時間の関係からか、まだ付近の人通りはそれほど多くなかった。肌に感じる空気は冷たく、まだ早朝を脱したばかりといった風情だ。空を見上げると、太陽はまだ東の彼方にあり、刺状の馬鹿げた形をした山脈を越えてきてはいない。
今からダンジョンに向かえば、狩りをする時間は充分にあるだろう。
アガーテの支払いの催促――というよりは彼女なりの生きてまた来いという激励だったのかもしれないが――それを別にしても金を稼ぎにいかなくてはならない。なぜなら、サイクロプス戦で合図のために有り金全てを投げ捨ててしまった継人は、現在完全に無一文なのである。
(なんかこっちに来てから、ずっと金に困ってるような気がする)
なんとなくため息が出た。
(この服いくらだったっけ?)
ボロボロになった制服のかわりに継人が着ている服は、アガーテから買い取ったものである。
上は白いワイシャツに茶色のベスト。下は丈の短いカーゴパンツ。中古のようだが状態は良いし、サイズもほぼ問題ない。
一方、ルーリエは元のチュニックのままだった。これは彼女に合うサイズの服が用意できなかったためだが、そのかわりに破れていた箇所は丁寧に縫って修繕されている。縫ったのはアガーテだが、その代金までは請求されなかった。
「さあ、ダンジョン行ってひと稼ぎするぞ」
継人は一度気合いを入れるようにそう言った。
「……」
「聞いてるのか?」
「……む」
肉を食べた反動なのかルーリエはやけに元気がない。このままダンジョンに向かって大丈夫なのかと心配になるレベルである。
そんなに肉が嫌なのかと、継人は若干あきれながら天を仰ぐ。
(……まあ、ボス戦でも活躍したしな。今日の稼ぎで野菜をしこたま食わせてやるか。……野菜料理って宿で頼めば作ってもらえるんだろうか?)
流れる雲を見ながら、そんなことを考えていると、ふと視界が僅かにぼやけることに気づいた。本当に僅かだが雲の輪郭が判然とせず捉えづらい。
(なんだ――?)
と思ったが、考えてもみれば死にかけてまだ昨日の今日である。ポーションで外傷は癒えても、疲れは体に残っているのかもしれない。
継人は疲れをほぐすように目頭を揉んだ。そのとき――
バタバタと複数の足音が響き、数人の男たちが継人のすぐ脇を走り抜けていった。
危うく男たちにぶつかりそうになった継人が、なんだよ危ねえな、と責めるような視線をそちらに向けると、視線の先、前方を走り去っていく男の小脇にはルーリエがまるで荷物のように抱えられていた。
突然のことにポカンとしたまま反応できない継人は、同じくポカンとしたまま抱えられ遠ざかっていくルーリエとただ見つめ合っていた。
ルーリエはポカンと口を開けた間の抜けた表情のまま、曲がり角の向こうへと消えていった。
「――――は?」
継人の思考が正常に動き出したときにはもう遅かった。
こうして、炭原継人の激動の一日がまた始まったのである。




