プロローグ
まだ朝日が覗くには幾許かの猶予が残る薄暗闇の部屋の中、魔光灯の淡い光を頼りに身仕度を始める。
いつもの黒いワンピースに袖を通し、その上からフリルをたっぷりとあしらったエプロンドレスを身に着けていく。鏡に映る見慣れた自分の茶髪を結い上げ、仕上げにホワイトブリムで飾れば完成だ。
はじめは慣れなかった装いに違和感を覚えなくなってどれくらいの時が経つだろうか。
むしろ今では、このメイド服を着ていないと妙に落ち着かなくなってしまったように思う。
「…………」
見つめ合っていた鏡の中の自分から目を逸らす。物思いにふけっている暇はない。朝の時間はとても早く過ぎるのだ。
給仕室に向かい、お茶の準備を始める。お嬢様は起きがけに必ず紅茶を召し上がるので、これは毎朝の日課だ。
専用の魔道具でお湯を沸かし、陶器製のティーカップとポットに注いで器を温める。その間にまた新たにお湯を沸かすと、ちょうど沸騰する頃合いを見計らって茶葉を用意する。
淡く光を反射する銀の容器に収まっているのはグレンダム茶の茶葉。大陸中央部に程近いエルフたちの住まう大森林にのみ生息する貴重な茶葉である。本来、大陸中央部から遠く離れたこの街では入手は困難な品だけれど、この家の財力を考えれば用意することはそう難しくない。
黄金に等しい価値を持つ茶葉をティースプーンで掬う。やや目の粗いこの茶葉は一杯を多めに掬うのが美味しい紅茶を淹れるコツである。
茶葉をポットに入れると沸騰したお湯を一気に注ぎ、サッと蓋をして蒸らす。保温性の高いマットを敷いたトレイの上にお茶の用意を全て整えると、お嬢様の部屋へと向かう。
廊下は壁に備え付けられた魔光灯の明かりのみで薄暗いが、窓の外に目を向けてみれば空は白み始めている。まもなく日が顔を出すだろう。
目的の部屋の前、木竜の鱗から削り出された重厚なドアを軽くノックし、返事は待たずにドアを開ける。このような真似が許されているのはこの屋敷の中――いや、世界中においても、お嬢様付きのメイドである私ただ一人である。
寝室は口に出すのも怖ろしいほどの価値を誇る調度品の数々で彩られている。
それら豪奢な品々の中心、天蓋付きのベッドの中にいらっしゃるのがお嬢様だ。
「……ほぅ」
外界の無粋な空気からお嬢様の寝姿を守っていた天蓋を開くと、思わずため息が漏れた。
毎日毎朝、もはや見慣れているはずなのに、それでもなお見るたびに胸が締めつけられるほどの美しさだ。神が創り出したこの最高の芸術の前では、部屋の調度品の数々ですらその価値を見失うだろう。
「お嬢様、おはようございます」
真っ白いシーツにやわらかく包まれながら、それに負けず劣らず真っ白な肢体をまるで胎児のように小さく丸めたお嬢様に声をかける。
ベッドの上に広がる長い髪と同じく、白銀に輝くまつ毛が私の声に反応して僅かに揺らめいたがそれだけだった。目を覚ます気配はない。
いつものことなので特に動揺することもなく、私もいつものようにお嬢様へと手を伸ばす。
白磁の頬にかかった髪を軽く指で整えると、そのまま肩に手を置き優しく揺すった。
これほど美しいものに触れられる喜びと、これほど美しいものに触れてしまった罪悪感を同時に抱きながら、その細く儚い肩を慎重に、決して壊さないように優しく優しく揺らす。
「お嬢様、朝でございますよ」
「う、うぅ……ん」
ゆっくりとまぶたが持ち上がり、その向こうに輝く何色とも表現しづらい複雑な色彩の瞳が私に向けられる。
しかし、未だぼんやりと揺れる瞳が私を正しく認識できているかは怪しいところだろう。
「お嬢様、こちらでございます」
意識が判然としない様子のお嬢様の手を取ると、ベッドから連れ出しテーブルへと導く。
ここまでの時間は計算通り。もはや考えるまでもなく体が覚えている。ぴったり飲みごろとなったポットの中の紅茶を軽く一混ぜするとカップに注いでいく。深みのある紅蜜の雫がカップの中で踊るたびに甘く爽やかな香りが部屋に広がる。また今にも夢の世界に帰ってしまいそうなお嬢様が、この甘い香りにつられて鼻を動かす仕草が可愛いらしい。
味や香りが最も凝縮された最後の一雫まで注ぎ終わったカップをお嬢様の前へ差し出すと、お嬢様はゆっくりとカップに口をつける。
静かに紅茶を味わうお嬢様の傍らに、私はなにをするでもなくただ黙って控える。
朝の慌ただしい時間がこのひと時だけはゆったりと流れているような気がする。
もしかしたら、この時間が私の人生において最良のひと時かもしれない。
「おはよう、アリエル」
たっぷりと時間をかけて紅茶を飲み干したお嬢様は、もうすっかり目を覚まされたご様子で、瞳にはいつもの意思の強さが宿り、佇まいには超然とした空気が漂っている。
そのときになって初めて私は部屋のカーテンを開け放ち、外界の光にお嬢様をさらす。
ちょうど劍の山脈の稜線の向こうから太陽が顔を出し始めていた。
それと同時に聖教会の鐘の音が街に響き渡る。
「今日も良い朝でございますよ、お嬢様」
こうして魔鉱都市ベルグの支配者――レーゼハイマお嬢様の一日は始まるのだ。




