第31話 罠
サイクロプスの行く手を遮るために、この通路の左右に並べられた岩は、噛み合うジッパーのように互い違いに配置されていた。
なぜ岩がそんな配置になっているのかというと、これは遠距離攻撃対策なのである。
継人が最初にサイクロプスを見た際に、サイクロプスが遠距離攻撃と思わしき魔法のような力を使うのを確認していた。力の正体が魔眼であるとは、そのときは思いもしなかったが、実際に力の余波である小さな津波に呑まれることになったのだから、対策を忘れようはずもない。
そして、その対策のおかげで、継人はまだギリギリ生きていた。
互い違いに並べられた岩の陰から陰へ。まるで、雷の軌跡を描くようにジグザグと通路を駆け抜ける。
後ろを振り返る余裕はない。振り返る理由もない。そして、振り返るまでもないのだ。
岩と岩がぶつかる派手な音が耳に刺さる。肉を擦るような不気味な音が耳に纏わりつく。後ろを振り返るまでもなく、そこにいるのは分かっている。
継人は必死に走っている。全力で走っている。魔眼を使おうなどという色気は微塵もない。だが、それでもサイクロプスを全く引き離せない。むしろ、ジリジリと距離を詰められてさえいた。
「ぐッ――!」
そして、岩陰から岩陰への移動の一瞬にもらう魔眼の一撃。その威力が徐々に上がってきているような気がする。
(……まさか距離が近づくほど威力が上がる……とかじゃないよな?)
分からない。しかし、わざと相手に近づいて確かめる気になどなるはずがない。
ならば、サイクロプスから離れて威力が下がるのかを確かめるしかないが、今それができないから苦労しているのだ。
今までのように、用意してあった道を悠々走っていたときとはわけが違う。
通路を右に左にと、わざわざ遠回りしているのだから、相手を引き離せないのは当然だった。
しかし、それでも継人は進んでいた。引き離せなくとも脚は前に出ていた。
故に――次の分岐が見えてきたのは当然の成り行きだった。
継人の顔に喜色が浮かぶ。
ここはまだ目標の地点ではないが、それでもありがたい。今はこの切迫した状況を少しでも緩和したい。そのために必要なのは、ほんの少しの余裕である。
右に進めば宝箱があった広間だが、そちらには用はない。進むのは左。
継人は迷いなく岩陰から飛び出し――
ズンッ! と体が重くなる――が、歯を食いしばって一歩。
体中の血管が破裂するような負荷に耐えながら、もう一歩。
そして――最後には文字通りに通路の中に転がり込んだ。
瞬間、サイクロプスの視線が途切れ、継人を襲っていた重圧が嘘のように消え去る。
これが待ち望んだ余裕。ほんの僅かな猶予。時間にして僅か数秒。しかし、その数秒は砂漠の水の如く得難いものだ。
継人は頭から転がった勢いを殺さず起き上がると、そのまま走り出す。
脇目も振らない。何も考えない。今は走る。走る。走る。走る。ただ走る。懸命に振っていた腕が左の岩に擦れ、血が噴き出すが、知ったことかと無視して走る。そして――
サイクロプスが通路を曲がったときには、継人は既に五十メートルも先を走っていた。
継人の走る背中を即座に魔眼が襲うが、踏ん張って岩陰に飛び込む。そして、またジグザグと岩陰を球避けに進み出した。
先ほどまでと同じように、継人が通路中央のスペースを横切るたびに、魔眼の圧力が彼を襲うが――
(…………間違いない、威力が下がってる。……やっぱり距離が関係あるみたいだな)
肉も骨もまるごと押し潰すような圧力だったのが、今はせいぜい百キロ程度の負荷といったところ。ステータスが上がった継人なら、軽くはなくても耐えられないほどではない。
魔眼の威力低下のおかげで、継人の足は順調に前へと進んだ。相手を引き離せるほどではないが、もう距離を詰められることもなかった。
これまでとは違い、魔眼を使いながら追いかけても全く縮まらない差に、サイクロプスの精神が苛立つように僅かに揺らめいたが、その微かなさざ波はすぐに消え去った。
それはこの巨人の精神が擦り切れてしまっているから、というだけではない。彼の精神が動かなくなって既に久しいが、それでも彼の頭脳が働いていないわけではないのだ。その証拠に彼は理解していた。理解していたからこそ、それは苛立つほどのことでもなかったのだ。
まもなく見えてきた分かれ道。そこは、この戦いが始まって最初に行き当たった分岐点だった。
そう戻ってきたのだ。二人は三角形を一周して、また同じ場所に戻ってきていた。
サイクロプスが往年の彼ならば、この瞬間に不気味な笑みの一つでも浮かべただろう。
もう彼は確信しているのだ。戦いの終わりが見えていた。
この分岐を右に進めば、その先は元々サイクロプスがいた広間。言うまでもなく行き止まりである。こちらに継人が進んだ時点で決着はついたも同然だろう。
ならば左に進めばどうだろうか。今までのように通路の岩を利用して、継人は逃げ続けられるのではないか?
サイクロプスは確信していた。そうはならないと理解していた。
なぜなら、その道は一度自分が通った道だからだ。既に邪魔な岩は蹴散らし、押し除け、完全ではないにせよ、多少なりとも進みやすくなっているのだ。
逆に、継人が頼りにしている岩陰などは、もはやどれほども残ってはいないだろう。彼が走り抜けるために確保されたスペースも、目茶苦茶になっているはずだ。
今まで、継人に有利な通路でさえ互いの足は拮抗していた。その有利な通路が失われてしまったら、継人が逃げ切れなくなるのは言うまでもない。
故に、サイクロプスは継人が左に曲がるのを悠然と見送った。
そのあとを、もはや余裕すら感じさせる足運びで追い――、角を曲がり――、顔を上げた。そして――
そこに、継人はいなかった。
今度こそサイクロプスの精神が震えた。
馬鹿な――! と目を凝らすと、はるか前方、もはや見失いかねないほど先に継人の小さな影を捉えた。
どうしてそんなに先を走っているのか、疑問に思うまでもなかった。答えは目の前にあった。
サイクロプスが破壊したはずの通路が元に戻っているのだ。今、彼が触れている岩などは、確かにその手で引き倒した記憶があるのに、まるでそんな事実はなかったかのように岩は起き上がり、また彼の行く手を遮っていた。
(――いい仕事したな、ルーリエ)
継人は通路を走り、汗を拭いながら笑みをこぼす。
からくりは簡単だ。はじめに継人がサイクロプスを伴い、Y字路を右に曲がったとき、ルーリエは左の通路の中に潜んでいたのだ。そして、サイクロプスが通り過ぎると、その後を追いながら通路を元の状態に戻していたのだ。
おかげでサイクロプスは遥か後方。
随分と余裕ができたようにも思えるが、実はそうでもない。
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
継人は、ここまでの道のりでほぼ全力疾走を続けてきた。レベルアップで強化された彼といえど、限界は確実に迫りつつあった。
それでも継人は脚を緩めない。目的の場所はすぐそこなのだ。ここまで来て油断などありえなかった。
確実にやりきる、その一念で見せた継人の走りは、結論から言えば正しかった。
それは後方から聞こえた。
唸り声だ。
くぐもったような低い声が、通路に反響して継人の耳にまで届いた。
多分に怒りを含んでいることを容易に感じ取れるほどの圧力をもった声だった。
その圧力に、思わず後ろを振り返った継人は見た――。
サイクロプスが飛んでいた。いや、違う。飛び跳ねるように進んでいるのだ。まるで猿のように四足になって、妨害する岩を足掛かりにして、大半の岩を飛び越しながら進んでいた。
それはあまりにも無茶な移動法だった。この通路に巨人の足の踏み場などない。足元の岩を飛び越えても、着地する場所にある岩を必ず踏んでしまうのだ。そして、その岩は都合良く巨人の体重を支えてくれたりはしない。必然、サイクロプスは何度も転倒し、そのたびに痩せ細った体を岩に擦りつけて削ぎ落とし、全身が青い血液に塗れていた。
だが、そんな無茶苦茶な移動法であっても、一つ間違いない事実がある。
それは、これまでよりも、はるかに速いということだ。
両者の距離が見る間に縮まっていく。
しかし、継人が脚を緩めなかったことが幸いした。
この通路に入ってから、互いの距離が遠すぎたせいか、魔眼による妨害はなく、おかげでただまっすぐ走ることができた継人が、通路を走破するほうが早かった。
目の前には分岐点。そして、この分岐こそ――……
「はあっ、はあっ……、よしっ……!」
正真正銘、最後の分岐点である。
継人が視線を向けた先は地面。そこには数枚の硬貨が散らばっていた。それは、この分岐を左に少し進んだ先で、継人が地面に投げ捨てたものだった。
投げ捨てた硬貨はルーリエへの合図。最後の策が実行される合図だった。
その硬貨が回収され、ここに撒き直されているのは、ルーリエが合図を間違いなく受け取ったという証だった。
故に、継人が選択した道は左ではなく――右。
ゴミ穴が繋がる、継人がはじめに落ちてきた、あの広間への道だ。
そんな袋小路に入り込んでいく継人の姿に、サイクロプスは違和感を覚えたが、彼の中で暴れる本能と、目覚めつつある震える精神が、その違和感を無視させた。
サイクロプスは警戒することもなく右の通路に踏み入り、継人の背中を追う。そして追いつけぬまでもグングンと距離を縮め、やがて見えてきた終着点。通路の終わり。継人の背中に追いつくよりも、そこに辿り着くほうが僅かに早かった。
そこに待っていたものはやはり岩だった。
それも特大の大岩。
今日見た中でも最大――いや、はじめにサイクロプスの前に立ち塞がった四メートル級の大岩と互角の大きさを兼ね備えた、そんな巨大な岩が通路とその先の広間を分かつように鎮座していた。
継人は大岩の元に辿り着くなり、荒い呼吸音を響かせながら、岩と通路の間、僅か三十センチほどの隙間に体を滑り込ませ、その先の広間へと逃げ込んでいった。
必死な継人の姿にサイクロプスは嗤う。
そんなところに逃げ込んでどうしようというのか。この先は、広間まるごと水没した青い魚の巣窟。巨躯を誇る自分でさえ水底に足がつかないそんな場所。自分に遊び殺されるくらいなら、潔く魚の餌になったほうがマシだとでも考えたのだろうか。
サイクロプスは嘲笑しながら眼前の大岩を見る。
この岩とて自分にとっては壁にすらなりえない。
そんなことも分からないとは、憐れ、憐れ、あまりに憐れで滑稽な小さき生き物。
もはや、完全に目覚めつつある巨人は嗤いながら大岩に手をかけた。
もし彼がもっと慎重だったなら、あるいはその違和感に気づけたかもしれない。だが彼は気づかなかった。いや、たとえ気づいたとしても彼はそうしただろう。なぜなら彼は強者だからだ。小さき弱者の小細工など、全て踏み潰してこその強者なのだ。
絶対強者である巨人は、ついに大岩の上にまで足をかけ、その上に立ち――
岩の向こうを見下ろした。
眼下の景色は奇妙なものだった。
岩の向こう側は、本来なら水面であってしかるべきなのに、そこには岩で埋め立てられたとおぼしき地面があり、その地面の上に膝をついた継人が、サイクロプスを見上げながら荒い呼吸を繰り返していた。
そして、その隣に立つ小さな子供――ルーリエだ。ルーリエはサイクロプスが乗る大岩に右手を伸ばし、その岩肌にペたりと手のひらをつけていた。
そんな彼女の親指には金色に輝く指輪がつけられ、親指でもサイズが合わないのか、革紐でぐるぐる巻きに固定されていた。
継人は予想通りそこに現れたサイクロプスを見て嗤い――そして、
「じゃあな」
その一言が合図だったかのように、それは起きた。
消えたのだ。
サイクロプスが乗っていた岩が――。山と見まごうほどの大岩が――。
霞のように。
幻のように。
夢のように。
ふっ、と消えてしまった。
瞬間、サイクロプスは無重力の空間に放り出され――消えた足元よりも、そのさらに下に目を向けて驚愕した。
それは言うなれば生け簀だった。岩で埋め立てて出来た壁で仕切られた生け簀。継人達がいるのはその生け簀の仕切りの上だったのだ。
そして、それが生け簀というからには、その中には当然のように魚が泳いでいた。
ブルーキラーフィッシュである。
あの凶暴で獰猛な魚どもが、夥しいを通り越して、もはや悍ましいと表現すべき数で、その水面下に蠢いていた。
「――――――……ッ!?」
このときになってようやく、本当に何年かぶりにサイクロプスの精神は完全に目覚めた。
いや、目覚めてしまったと言うべきだろう。
まだ眠ったままだったなら、これから味わう恐怖も――、苦痛も――、自覚せずに済んだのだから。
生け簀に餌が落ちる派手な水音が響くのとほぼ同時――
突き出したままだったルーリエの手の前に――消えたときと同じように、消えたことなど嘘だったかのように――ふっ、と巨大な岩が現れた。
「ごぉぼぼがばああああああッッ……!!」
蓋をされた生け簀の中に、巨人のくぐもった悲鳴が響き渡った。




