第1話 言葉
世界が続いている先は未来ではない。
本来、世界とは過去のさらに奥へと広がっているはずなのだ。
橘央弘著『世界の中の自分』より抜粋。
SSS
岩壁というには脆さを隠せない、そんな土色の岩肌に囲まれた場所だった。
上も下も横も、同じ土色の岩に覆われ、それ以外の色を見つけることはできない。
そのような場所でありながら息苦しさを感じないのは、その広さ故か。
十分な横幅と天井までの高さをもった空間がトンネルを成すように前後に伸びていた。
まさに天然の洞窟といった風情。
そんな場所で――
炭原継人の思考と感情は混乱の極致にあった。
「――――――は?」
初めての呼吸とともに、やっと絞り出せた言葉がこれであった。
たった一文字の言葉とも言えない言葉だったが、継人自身は自分の口から声が出たことに驚いた。
確かめるように口に手を当て、その手に自身の息がかかる感触にさらに驚き、それ以前に自由に手が動くという事実に気づき、呆然とした。
「――――生きてる……のか?」
そんな馬鹿な、と継人は思う。
助かるような出血量ではなかったはずだ。
そこでハッとして自身の服に目を向ける。
そこにあったのは血に染まった真っ赤なワイシャツではなく、真っ白い制服のワイシャツだった。
それを見て、あのバスでの出来事は全て夢だったのではないか、という考えが継人の頭を過ぎったが、それを否定しているのもまた彼自身が身に着けている制服だった。
ボロボロなのだ。
まるで刃物を適当に走らせたように、あちこち切り裂かれ、そしてほつれている。
そんな制服の変わり果てた姿が、やはりあれは夢ではないと告げている。
だったら――と、首を触る。……ない。
肩、腕、胴とまさぐっても、やはりあるはずのものがそこにはなかった。
制服はズタズタなのにもかかわらず、その下にある継人の体には傷の一つも存在しなかった。
「どういうこった……?」
まさかバスでの出来事ではなくて、今のこの状況が夢なのか? とも思ったが、それにしてはあまりにリアルだ。
夢の中でそれを夢と自覚できる明晰夢というものがあるが、継人の経験で言えば、夢の中というのは少し気を抜いただけで場所や時間でさえ移り変わってしまう、そんな判然としない不安定なものなのだ。
それに比べれば、今は現実感がありすぎた。吸った空気の冷たさも、足裏に感じる地面の硬さも、あまりにリアルで、これが夢の中とは思えなかった。
「だったらやっぱり…………助かったのか?」
継人は周りを見渡す。
そこはゴツゴツとした茶色い岩で形成された洞窟のような場所だった。
天井までの高さは四、五メートルほどもあり、道幅は必ずしも一定ではないものの、広いところでは同じく四、五メートルほどもあった。
かなり広そうではあるが、継人の目には普通の洞窟に見えた。
継人は洞窟の壁面をペタペタと触り、その感触を確かめながら思考を巡らせるが、やはりどう考えてもこの状況はおかしい。
仮にあの状態から助かったとしても、今いるべき場所は病院か救急車の中であるべきだ。それが事もあろうに洞窟の中である。不自然どころの話ではない。
いや、もし今、病院や救急車の中にいたとしても、それはそれでやはりおかしい。
なぜなら、継人自身から病院に運ばれる理由であるはずの怪我自体が消えているのだから。
体調はすこぶる良い。こんな快調な体で病院に来られたって医者は迷惑だろう。
(だったら、やっぱりあれは夢? いや、でも制服はボロボロに……)
継人は文字通りに頭を抱えて唸った。
もし、この状況を無理矢理に論理的に説明するとこういうことになる。
継人は交通事故で瀕死重症を負ったが、すぐに病院に運ばれ奇跡的に命は助かった。
しかし、入院中継人の意識は戻らず、負った怪我が完治するころになっても意識は戻らなかった。
そんな意識の戻らない継人を何らかの理由で何者かが洞窟に放置した。
なぜか捨てずにクリーニングに出しておいたボロボロの制服を身に着けさせて。
そして、放置された継人はタイミング良くそこで目を覚まし――現在に至る。
「うん、ない」
一番現実的に考えたはずなのに、あまりのありえなさと意味不明さに継人は再度頭を抱えた。
「だったら何なんだよこの状況は……」
継人が独りごちて途方に暮れていた、そのときだった――。
カツンッと石が転がるような音がした。
継人がハッとしてそちらに目を向けると、ぬうっと、視線の先の岩陰からそいつは現れた。
身長は高く百八十センチを超えているだろう。全身ガッシリとしており、その体に元は白かったであろう黄ばんだシャツ一枚と、おそらくは革製であろうズボン、同じく革製らしきブーツを身に着けていた。髪は色褪せたブラウンで、左手には木製のバケツを持ち、右手にはツルハシを握ってそれを肩に担いでいた。
男だった。
現れた男も継人に気がつき、彼に目を向けた。
男の突然の登場に一瞬驚いた継人だったが、出口すら分からない洞窟の中で人に会えたことは素直に助かったと思い、男に話しかけようとしたが、すぐに躊躇した。
目が合ったからだ。男の青い瞳と――。
え? と継人は再度混乱する。
男の顔は掘りが深く、ブラウンの髪に映えるように鮮やかな青い瞳をしていた。年の頃は四十過ぎといったところに見えるが、継人とは人種が違うためにハッキリとは分からなかった。
そう、人種が違った。
男は明らかに日本人ではなかったのだ。
(まさか、ここって日本ですらない……?)
固まる継人に怪訝な目を向けていた男は、やがて少し嫌そうに眉をしかめると、
「おい、タグ無し。通るなら早く通れ」
と継人に向かって“言葉”を放ち、男自身がやってきた岩陰の向こうを親指で指し示す。
しかし、継人はその“言葉”を聞くと目を見開いてさらに固まってしまい、一向に返事をしない。
男はそんな継人の様子に苛立ったように舌打ちすると、
「通らねえんだったら、俺が終わるまでそれ以上近づくんじゃねえぞ!」
そう言って継人に向かって軽く凄んでみせた。
それでも反応を見せない継人に、男はもう一度舌打ちをすると、それ以上は何も言わずに洞窟の壁面に向き直り、その岩壁にツルハシを振り下ろし始めた。
男が壁に向かってツルハシを振り下ろす音が響く。
その只中、継人の頭はパニックと言ってもいい状態になっていた。
それは視線の先でツルハシを振るう、男の“言葉”を聞いてからだった。
直前まで、継人の心配は別のところにあった。
目の前にいる外国人風の男を見て、ここは日本ではないのではないか? だったら日本語も通じないだろう。英語の成績に自信がない自分が日本大使館まで辿り着けるだろうか……。
せいぜいがこの程度のものだった。
しかし、蓋を開けてみればどうだろう。
継人はその外国人風の男の言うことが完璧に理解できた。
それだけなら普通は喜ぶべきところだろう。言葉が通じないかもしれないと心配していたところで、それが杞憂だと分かったのだ。歓迎するべきところだろう、本来なら。
だが違うのだ。通じるから、歓迎できないのだ。
継人は確かに男の“言葉”が理解できた。
しかし同時に、男が操る言語がどこの国の何という言語なのかは、まるで分からなかったのだ。
男の口から聞こえてきたそれは、もちろん日本語ではなかった。そして英語でもなければ中国語でもない。継人が今までの人生でメディアなどを通じて見聞きしてきた、どの言語とも違う、全く聞き覚えのない言語だった。
だというのに、理解ができたのだ。
その男の口から発声される聞き覚えのない音の羅列の意味が――“言葉”が分かった。
継人の思考は完全に止まっていた。
今の事態は、自分が考えて答えに辿り着ける範囲を遥かに逸脱しているということに、ようやく気がついた。
何が起こっているのか、誰か教えてほしかった。