プロローグ
『人の成長の歴史とは、則ち敗北の歴史である』――とは、俺が中学生のころに読んだ本に出てきた言葉だ。
世間にはあまり評価されない作者を人知れず評価して悦に入っていたにすぎないので、本の中身を正しく理解できていたとは言い難かったが、それでも自分なりにその作者の言葉が気に入っていた。
いつの間にか、児童買春だかなんだか、そんな恥ずかしすぎる罪で逮捕されたあげくに、自殺してしまった作者の本を読むこともなくなっていたが、それでもこんなことがあると、ふと彼の言葉を思い出すことがある。
「おーい。聞いてんのかよテメェはー、あー?」
例えば二、三年前の俺ならどうしていただろう。
少なくとも、下校途中のバスの中で、頭の悪そうな金髪野郎に唐突に席を譲れと言われて「はい、どうぞ」などと答える俺ではなかったはずだ。
「……はは、どうぞどうぞ」
ところが、今ではご覧の有様だ。
小学生のころならキャンキャンと喚き散らしていただろう。
中学生のころなら血みどろの喧嘩になったかもしれない。
しかし、高校も二年目の歳にもなると、そんなことをすればどうなるのかくらいは分かる。
仮にこの場で喧嘩を買ってやったとしても、もし負ければボコボコにされて痛い目に遭い、たとえ勝ったとしても警察のお世話になって社会的にボコボコにされて、違った意味で痛い目に遭うのだ。
そろそろ将来のことも考え始めないといけない時期に、そんなことは御免こうむりたい。
だからこそ俺は譲るのだ。
へらへらと笑って媚びるのだ。
これが成長の成果なのだとしたら、人間って一体なんなんだろうな。
金髪野郎に席を譲ると、揺れるバスの中で立っているのが俺だけになった。
こんなにガラガラなら俺に因縁なんかつけなくても、席の一つぐらい空いていたんじゃないかと周りを窺うが、キッチリと満席のようだ。
流石に空席があるならクズ野郎とはいえ、席を譲れなんて言わないか。
それにしても皆が座っている中で、俺だけが突っ立っていると晒し者にでもなった気分だ。
いや、事実として晒し者か。
そこかしこから視線を感じる。
それが俺に対する同情的な視線なのか、あるいは笑い者にする類いの視線なのかは分からないが、どちらにしたところで居心地の良いものじゃない。動く密室の中なので逃げ出すこともできないのがつらいところだ。
なぜ何も悪いことをしていないのに、俺がこんな目に遭わなきゃいけないのか。
元凶である金髪野郎のほうにチラリと目を向けると、俺のことなんてもう気にもならないのか、怠そうにスマホをいじっていた。
ヤバい。殴りたい。
駄目だ駄目だ。見るんじゃない。
見ていたら余計に腹が立つし、目が合ってまた絡まれでもしたら面倒だ。
前を向いて精神集中でもしていればすぐに停留所に着く。
そこでこのバスから降りれば終わりだ。
それが一番賢い方法のはずだ。
そんな風に自分に言い聞かせていると――ガタンッとバスが何かに乗り上げたように揺れた。
めずらしい。
このバスは決まったルートしか走らない路線バスだ。
俺はこのバスを毎日の登下校に使っているので、飽きるほど同じルートを通ってきた。
それなのに今のような揺れを感じたのは初めてだ。
一体何が? と進行方向に目を向けると――――、
バスのフロントガラスが白く染まった。
同時に凄まじい轟音と揺れが襲ってきた。
身構える暇もなく衝撃で足が浮く。
そのまま自分の体が前方に投げ出されるのが分かった。
一瞬にしてコントロールを失ってしまった体とは対極に、視覚だけは異常に冴え渡っていた。
まるでスローモーションのように、周りの景色がゆっくりと良く見えた。
そしてそれは視線の先。全面ひび割れで真っ白く染まったフロントガラスが完全に砕け散り、その残骸が投げ出された自分とカチ合うように飛んでくるところまで、ハッキリと見えた。
まずいということは分かる。
だけど体が動かない。
飛んでくる破片からせめて急所ぐらいは守りたいのに、腕の動きが鈍すぎる。
腕を上げきるよりも先にガラスの雨に身を撃たれるのが分かってしまう。
制服のブレザーでも着ていれば、まだその防護性に多少の期待は持てたかもしれないが、今は梅雨も明けてそろそろ夏かという季節。当然ながら半袖のシャツ一枚だ。
せめてもの抵抗は、目をつぶって体を強張らせることぐらいだった。
全身の至る所を刺す、あるいは切るような痛みが一瞬走った。
本当に一瞬だった。
正直覚悟していたほどじゃない。
内心ホッとしたがそんな場合じゃなかった。
今度は投げ出された勢いのまま、受け身も取れずに顎を地面で強打し、それでも勢いは止まらずにバス内の通路を転がり、最後には硬い何かに背中を打ちつけたところで、やっと止まることができた。
――痛い。
全身痛いけど、特に最後に打った背中がめちゃくちゃ痛い。
何かの角のようなところにぶつかったのか、肉が潰れる感触があった。
最悪だ。でも、この背中の怪我は肉が潰れてかなり痛いが、逆に言えば痛いだけだ。
それが死ぬような怪我じゃないことだけはなんとなく分かる。
不幸中の幸いだな。
ていうか、なんだこれ? 事故か?
なんかえらく暑いけどバスが爆発炎上してたりしないよな?
確かめるために固く閉じたまぶたを開く。と――――逆さまになった車内が見えた。
いや、違うな。逆さまなのは俺だ。
背中を打ちつけた何かに脚だけを引っ掛けて、上半身は通路に仰向けに――有り体に言えば、椅子に座ったまま後ろにひっくり返ったような体勢で――倒れているようだ。
そのまま目線を足元に向けると、自分が足蹴にしている運転席の横にある運賃箱が見え、その向こうにはガラスが吹き飛んでグシャグシャに潰れた、バスのフロント部分が目に入った。
ああ、ここからエアコンの冷気が逃げているから暑いのか。
ちょっと隙を見せるだけでこの暑さとは、地球の温暖化はいよいよ深刻だな。
現実逃避気味にどうでもいいことを考えながら、今度は顎を上げて目線を車内に移した。
――どうやら乗客達は皆無事だったようだ。
最後尾の四人掛けの席の通路に面した位置に座っていたおばさんだけが、座席から転げ落ちたらしく肘をさすっているが、それ以外の乗客は驚くべきことに座席から落ちてすらおらず、特筆すべき被害は確認できない。
せいぜいが前の席の背もたれに顔をぶつけて鼻を押さえている者がいるぐらいだろう。
てことは、もしかしなくても俺が一番被害でかくないか?
マジかよ。どんだけツイてないんだ俺。
変なのに絡まれて晒し者になったあげく、交通事故で一人だけ派手に怪我してまた晒し者ってか?
どんな残念コンボだそれは。
つーか、席に座っていればこんな目に遭わなかったって考えたら、全部あの金髪クソ野郎のせいじゃねえかよ。せめて、あの野郎もそれなりの怪我でもしてないと納得できんぞマジで。
そんなことを思いながら、もう一度車内に目を戻したところでギョッとした。
――乗客全員が俺を見ていたのだ。
右を見ても、左を見ても、どの席に視線を向けても目が合う。
そして、目が合った全員が一様に同じ表情をしていた。
それはまるで信じられないものでも見たような、そんな唖然とした表情だ。
ゾクリ、と。
今までの人生で感じたことがないくらいの悪寒が走った。
とてつもなく嫌な予感がする。
予感に従うようにゆっくりと視線を自分の体に向けた。
赤い。
真っ赤だった。
今日は間違えて赤いシャツで登校したのだろうかと、反射的にそう思ってしまうほどだった。
でも、そうじゃないことは分かっている。
ただ分かりたくないだけだ。
だって、もしこれがそうなら、もう手遅れなほどに出ている。
だから縋るように思う。
違うなにかであってほしい。別のなにかであってほしい、と。
しかし、俺の祈るような思いを全て否定する光景が視界に映った。
トプッ、トプッ、と赤い液体が首筋辺りから飛んでシャツを染め上げていた。
トプッ、トプッ、トプッ、とまるで鼓動のリズムを示すように溢れ出ていた。
反射的に首筋を押さえようとして腕を――――
――動かなかった。
指がかろうじて動く程度で、腕が持ち上がらない。
右腕も左腕も持ち上がらない。
持ち上がる気がしない。
さっきまであんなに暑かったのに、今は寒い――。
なんで……?
なんなんだよこれ?
まさか……俺…………死ぬ?
嘘だろう?
なんでそうなるんだよ。
だって今日は普通の一日で、いつも通り過ごしたはずなのに。
ほんの少し、帰りのバスの中で変わったことがあったくらいで――
ピロン♪
しん、と静まる車内に場違いな音が響いた。
今の倒れた体勢から言えば頭上。
つまり乗客のほうからだ。
反射的にそちらに目を向けると――――それは金髪野郎だった。
金髪野郎がスマホを構えて俺に向けていた。
あまりのことに、死にかけているというのに唖然としてしまった。
多分、動画を撮っている。
死にそうな俺を、死んでいく俺を――
こいつは動画に撮っている。
――怒りで頭が白く染まった。
殺したい。
こんなに純粋に殺意を覚えたのは、おそらく生まれて初めてだ。
ふざけるなよ……!
今すぐ襲いかかって殺してやりたいのに――体が全く動かない。
「――――――ッ」
せめて口から怒りをぶちまけようとしたが、唇が僅かに動いただけだった。
許せるか……! 許せるかよこんなことッ……!
死ね。死ねよ!
スマホをこちら向け、興奮した様子で撮影を続ける金髪野郎を睨みつける。
もう、それしかできなかった。
せめて、全力でこの男を睨み殺してやるつもりで、視線にありったけの殺意を込めた。
何故お前の代わりに俺が死ななければならないのかと、視線にありったけの怒りを込めた。
どうしてこんな奴に媚びるような真似をしたのかと、視線にありったけの後悔を込めた。
視線に、持ちうる全ての呪いを込めた。
睨んだ。睨んだ。睨んだ。睨んだ。睨んだ。睨んだ。
溢れ出す血が尽きても睨んだ。
呼吸が止まっても睨んだ。
視界が白く染まり眼が何も映さなくなっても、そこに居ると信じて睨んだ。
最後まで睨み続けた。
そして、意識までもが白い光の中に消えていくその瞬間――――
『――――――――――――』
光の中で最期に何か聞こえた気がした。