精神現象学 を読み解く。 ヘーゲル著 世界は精神(ガイスト)であり、世界はガイストの現象 (フェノメノン)であり、世界史は世界精神の弁証法的展開である。 。改訂版
1、前書き 私と精神現象学との出会い
今からそう、、40年以上も前になろうか?
そのころ私は某大学の哲学科に籍を置いていて、当然専攻は「ドイツ観念論哲学」でして、
ヤコービ、ヘルダー、からヘルダーリンやノヴァーリス、ヤコブベーメもやりましたし。
とくに私が引かれたのがシェリングとフィヒテ、そしてショーペンハウアーとニーチェでしたね、
フィヒテの「全知識学の基礎」は岩波文庫本を買って読んだものでした。
ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」(春秋社版の邦訳)も読みましたし、
ランゲの「唯物論史」も愛読書でした。
フランスではコントの「実証哲学」
イギリスではスペンサーの「第一原理」なども愛読書でした。
これらは春秋社の「世界大思想全集に邦訳があるものです。
さて、、私は、
ゼミではヘーゲルの「精神現象学」のドイツ語の原書を読解しました。
ゼミ教授はQというけっこう高名なその当時の哲学教授でして。
実名を明かすと大学がばれるので明かせませんが、、。
その教授の哲学演習は毎年ヘーゲルの現象学読解だったようです。
そのゼミは確か10人くらいの学生が交代で原文を読み教授が解説という形式でした。
その教授は冒頭に、、、、、、
カントは分析的に
ヘーゲルは総合的と、
端的に両者の差異を述べた、
カントは緻密に分析する
ヘーゲルは総合しようとする、
正に弁証法であり、、アウフヘーベンである。
だからカント的な思考法ではヘーゲルは全く理解不能であろう。
頭を切り替えることが必要だ。
、、、、、、、と、述べていたことをまるで昨日のことのように思い出します。
ところで精神現象学の副読本として私が個人的に、使っていた邦訳本が樫山欽四郎訳の河出書房の「精神現象学」だった。
話は少々それるが
第一外国語はもちろんドイツ語でして、その授業ではグリム童話を原語で読んだりした記憶があります。
ロートキェップヒェン 赤ずきん
シュニービットヒェン 白雪姫
アッシェンプッテル シンデレラ
シュニーバイスヒェン ウント ローゼンロート 雪白とバラ紅
など懐かしいですね。
さて本題に戻りますが、、
ヘーゲル原書の読解で、そこで具体的にどんな読解だったのかは、、もう思い出すこともできませんが。
青二才の青年だった当時の私にこの難解な哲学書が理解できたのか?と言われれば、、
まあ無理だったでしょう。
たぶん、、字面を読みこなしただけ、、という実態だったのでしょうね。
私がこの本をどうにか理解できたのはその後、イッポリット著の岩波書店刊行の分厚い2冊本の解説書『ヘーゲルの精神現象学の生成と構造』を読んだ時でしたが、、。
その後、、私の関心は二ーチェの方に行ってしまって、結局、卒業論文は
「ニーチェの「権力への意志」」Nietzsches Wille zur Macht
ニーチェス ヴィーレ トウール マハト
という論文でしたが、、
その卒論のZ指導教授が私に対して「きみー。大学院へ行ったらどうかね?」とお誘いしてくれたのだが、、遺憾せん。
私にはその資金がなくて、親も貧乏だし、、
私は就職の道を選びましたが、、当時は就職難で、やっと地方のとある職場にたどり着いてやっと就職。
それからまあいろいろありまして、、引っ越しも14回しましたし、流れ流れて老いぼれて、こうして死にもせずに、、生まれた故郷からは遠く離れた、今の場所にくすぶっているというわけです。その間哲学などは、やってる暇があるはずもなく、食うために忙しくて、
すっかり忘れ果てていましたがこうして定年後の束の間の暇ができると。無性に大学時代が懐かしくて、いまさらながら当時の研究課題の再読み込み?を暇に飽かしてしたりしているのです。
幸い当時買いためた哲学書などは14回の引っ越しでもダンボル箱に詰めたままで廃棄もされずに生き残っていたのです。
河出書房の「世界の大思想」
中央公論の「世界の名著」なども
なん十冊も残っています。
それらをいまさらながら再読み込みするのがわが余生のささやかな?楽しみなのかもしれません。
さて、だいぶ前書が長くなりすぎました、
そういうわけで今回は 表題のごとくに、
「世界三大難解哲学書((注)1)の一つといわれるヘーゲルの「精神現象学」を読み解く」
です、
お暇でしたら?
お付き合いのほどよろしくお願いいたします。
2、本論 そもそも精神現象学とはどんな哲学書なのか?
精神現象学とは
ドイツ語でいえばPhanomenologie des Geistes「フェノメノロギー・デス・ガイステス」1807年に刊行されています。
別名「意識の経験の学」Wissenschaft der Erfahrung des Bewustseins(ヴィッセンシャフト・デア・エアファールンク・デス・ベブストザインス)というものです、
さて、、いきなりですが、、ざっくりといってしまうと、
精神現象学とは人間の「意識」がいかにして弁証法を通じて(使って)「絶対知」にたどり着くかというその過程を描いた (まとめた)ものです。いわば精神現象の大百科事典?です。
もっと断言してしまうと、、
精神現象学とは、
死と絶望と挫折から始まった人間の生という過程を
弁証法的にアウフヘーベンした先にある絶対精神としての神の
高みにまでいざなう巡礼者としての人間の意識の変容と
浄化を説いた人間どものための究極の
精神世界の遍歴・巡礼・精神成長の書物
それが精神現象学なのだ。
、、と、、いきなり言い切ってしまいましたが、
これではわかりませんよね?
、、、、で
もっと丁寧に述べるとですね。、
ヘーゲルはカント的な主観と客観の分裂と、、物自体の不可知という分裂した哲学を総合的に再構築しようとしたのです。カント哲学とは、二元論であり不可知論です。
これを総合して分裂を統一したい、、というヘーゲルの思いが結晶したのが精神現象学という書物なのです。
ヘーゲルにおいては主観と客観はガイスト(精神)の両側面でしかありません、
精神において総合されるのです。精神は絶対であり
世界は精神です、。
そして世界とは、精神の現象してゆく自己展開なのです。
つまり「精神」(ガイスト)が世界にどのように「現象」 (フェノメノン)してゆくのか、を、述べた「学」が 「精神ガイスト・現象フェノメノン・学」なのです。
正に、、、「フェノメノロジー・デス・ガイステス」なのです。
低次の意識から始まって、理性に高まり、、宗教、、絶対知にまでたどる(現象するプロセス)
それが精神現象学なのです。
そして、その精神の現象するダイナミックな運動が、、すなわち、、弁証法なのです。
弁証法的なダイナミズムで精神が自己展開してゆく過程、そして
精神が達する最高値が、絶対知であり
そこでは主観と客観が統一されて一体化するのです。
これがこの難解な書物の全内容なのです。
ただし内容的には相当ヘーゲル流の言い回しの難解さと用語の難解さで、読み解くのはかなり困難であることは確かです。
イポリットはその著でこういっています。
「現象学が自分に課しているのは、次の二重の課題である。すなわち一方においては素朴なる意識を哲学知に導くとともに、他方においては、個別の意識をその孤立から救済して、精神(geist)にまで高めるという二重の課題である」
ハイデッガーは的確に現象学の主旨をこういっています。
「主観が、自然的意識と実在知を弁証法を介して、自然性から自己を開放して、絶対知に近づくことが現象学の中心課題である」
もっと砕いていうと、
「最も低い単純な意識から、最も高い複雑な意識に至るまで全意識の展開を説いた」ものです。
つまり人間の意識の成長と自己形成を段階的に述べたものです。
そういう意味では「教養学」であり
「精神の成長物語」ですらあるともいえるのです。
でもそれだとすると、、別に哲学という学でなくてもいいわけで、
例えば、ゲーテの教養小説「ウイルヘルムマイスター」も立派な人間成長物語ですし、、
そういう小説で事足りるわけですね。
主人公ウイルヘルムは旅をしていろんな人々と出会い交流を通して精神的に成長してゆく
これがいわゆる、ビルドウンクス・ロマン(教養小説)です。
そこでヘーゲルはそういう意識の成長という要素を哲学としてどう位置づけられるかという
試みをここでしているわけです。
もっと砕いていうと
精神の成長物語を哲学的に意義付けた、、ということなのです。
成長の過程とは学としていうならば「歴史」です。
個人の成長ならば「自分史」
人類の成長過程なら「人類史」
個人の歴史が人類史に影響されそのまた逆もありうる。
そういう体系としての学、それが精神現象学の規範でなければならないだろう。
学としての哲学とは、厳密には
概念の定置であり概念の展開です。
真理は概念を通じて表白され、
真理は概念化されるとき学たりうるのです。
さて、では、
ヘーゲルの言う概念とはどういうものだろうか?
一般に概念とは個々の現象の一般化されて得られた抽象的事実のことを言う。
概念化されていないと悟性の対象にはなりえないのです。
ヘーゲルはさらに一歩進んで
概念とはそういう、概念の固定化を排して
概念の流動性を提唱する。つまり概念の中に、動くもの、生きたものとしての流動性を認めるのである。
そこから概念は進化して、転変してゆくことができる。
つまり概念の中には定在と流動が同時に存在する。
つまり、
概念はおのずから概念をアウフヘーベンするのである。
そこから歴史と生成が生まれる、
概念は自らを肯定しかつ否定する、
そして進展し続ける。
このように、人間の意識も素朴なる実体に安らっている状態から自己否定して
考える実体へと進展する。
考える実体は主観主義であり、
実体論とは両極になる。
主観と実体の対立という状態が今までのカントに代表されるようなドイツ哲学だったとヘーゲルは言う。
これを乗り越えようとしたのが
シェリングである。
彼は主観と実体はより高次の「直感」で総括できるといったのである。
だがこれではいきなり直感が飛び出してきて総括しました、という、いきなり感が否めない。、
このシェリングの立場は乗り越えられなければならないとヘーゲルは言う。
ヘーゲルは言う。
「直感でいきなりの真理が得られるのではなく、あくまでも学の体系としては
精神が対象において自己を否定して、対象に迫りその過程で精神は自己を回復してそこで真理が得られるのである」と。
その真理とはつまり概念である。
だからヘーゲルの言う概念とはその中に、定立と反定立を同梱するのである。
もっと言うならば真理とは総合である。
主観は実体を否定しつつ、かつ回復しているのである。
そういう意味においては実体は主観と相同であるといえよう。
実体の認識とは主観による否定作用と回復を含む、
主観は否定しさらに否定する
そこから
実体の真理が認識されるのである。
否定無き認識は、知識でもないし、学でもない。
だが否定の場にだけ立脚するのならばそれもまた道を過つだろう。
否定の否定を包括する場に立つということだけが学の立場である。
否定と肯定の両者を包括的に生かすこと
それがまさにヘーゲルが言う「弁証法」なのである。
そういう前提において語られるのがこの精神現象学の
「意識の経験の学」としての叙述である。
自然的意識は、認識し知識を得ようとする過程で必ず「絶望」させられるだろう。
なぜなら、自然的意識は自己の中に必ず「否定」が出てくるからである。
そのたびに自然的意識は不審に陥り、自己否定に陥る。
だから自然的意識は「不幸な意識」das ungluckliche bewuBtsein
ダスウングルックリヒェベブストザインと言えるだろう、
自然的意識は「絶望」なのである。
だがその絶望はそれでおしまいなのではない、
絶望の中には、必ず次に進もうという何かが含まれているのである。
だから絶望とは進展の過程でもある。
絶望しながらも次へ進むことが重要なのでありそれこそが「学」(ヴィッセンシャフト)
なのである。
否定や絶望を通して実現されてくるものは何かを見極めることが知識であり学である。
真理とはもともと自己否定的なものであり、
否定と肯定を含有するものである。
ただその否定とは限定された否定であり全否定ではない。
そういう意味で否定は克服されているのである。
そこから新しい真理が出てくる。
その過程そのものが[学]wissenshaftなのである。
ところで、、学において尺度(物差し)はあるのだろうか?
真理を吟味するとき吟味される物はすでに真理自体ではない。
吟味するという行為によって真理は対他者となっているからである。
そこで物差しとして「われわれ」という概念が導入されるが、
この「われわれ」という概念は究極の物差しではありえないのである。
なぜなら「意識は自分の尺度を自分自身に与えてているだけだから」なのである。
真理を吟味してもしも一致しなかったら意識は自分が間違っていたと思い込む。
だがそうだろうか?
ここで重要な事実がある。
自分が変われば真理も変わるのである。
なぜならば真理とは自分の意識を離れてあるものではないのである。
意識はこういう尺度の否定と肯定を繰り返して
真理の対他性を学んで行く。
その意識の経験の過程で意識はdas wahre wissenダスヴァーレヴィッセン(本当の知恵)が、かいま見えてくるのである
こうして自然的意識は経験の過程を積んでゆくのである。
否定と絶望が意識からなくなるまで、、、。
絶対肯定と絶対知が得られるまで、、それは続く。
しかし残念ながら意識はいつだって
自分の中から「否」とよびかけてくることを経験し続けるだろう。
それは神もまたゴルゴタの丘(刑場での死)がなければ孤独である、、
というのと似ているのであろう。
この哲学書の最後はこんなシラーの詩の引用で終わっている。
『それは、ただ、
「この霊の国の盃より、泡立つのは霊の限りなき姿」(シラーの詩より)
なのである。』
精神現象学についての、以上が、私のおおよその読み解きなのであるが、
もちろん私の読み解きもこの浩瀚な,精神現象学、Phanomenologie des Geistes
別名、「意識の経験の学」
Wissenschaft der Erfahrung des Bewustseins
の、ほんのサワリでしかないことは言うまでもないことです。原書はヘーゲル流の難解な言い回しや独特の哲学用語で満ち溢れていますから
いきなり、素人が読み解くことなどまず不可能だと言い切ってよいでしょうね。
3 まとめとして
この精神現象学という試みはまさに人間精神の大宮殿の建設であり
全世界の俯瞰です。そういう意味ではここにはおそらくすべてがあるのです。
ヘーゲルの創り出したこの「精神世界の大神殿」にはすべてがあるのです。
精神現象の一切が言及されているのです。
しかし、、そこにはただ一つないものがあります
それは人間の「生暖かい魂」です、
だからキルケゴールなどから見たら
ヘーゲルの壮麗な哲学体系の大宮殿は
魂の抜けた、、無人の、、廃墟のような、、大神殿なのだ、、ということなのでしょうね。
あるいは
ハイデガーの言うように
「どんな哲学(体系)も挫折する」という命題のように、
ヘーゲルのこの壮大なる大神殿のような哲学体系もまた
いずれは崩壊せざるを得ないのが宿命なのかもしれませんよね。
精神現象学の最後の部分を樫山訳で以下に引用して私のささやかな読み解きを終わることにしたい。
(引用は、かなり端折って省略しています。)
「学は純粋概念の形式が外化する必然性を含んでいるが、、、、しかしこの外化はまだ不完全である。
生成の一つの側面は自由な精神は自己を外化することで主体を回復している、、
生成のもう一つの側面は歴史であるが、これは自己を媒介する生成である。
精神の完成は自己の中に定在することであるから、自己意識の夜に沈んだ意識を定在することで新しく定在するのである。
自己意識はまた初めからやり直すのである、だがそれは全くの廃棄ではなくて一段高い段階からの再出発である、
こうした定在のなか現れる精神の国は、深淵を開くことでありこの深遠は絶対概念である、
したがって意識はこの深遠を廃棄すること、拡充することで、自分自身を外化し、深淵にいながら自己を外化し、それらを保存することは、歴史であるが、概念面から言えばそれは「現象する知の学」である、この両者を一緒にすると、概念把握された歴史となるが、これは絶対精神の内化(想起)であり、ゴルゴタ(神の死)であり、絶対精神の王座の
現実、真理、確信であるが、この王座がなければ、絶対精神は生命無き孤独であろう。
それは、ただ、
「この霊の国の盃より、泡立つのは霊の限りなき姿」(シラーの詩より)
なのである。
精神現象学 フェノメノロギー・デス・ガイステス 完
参考文献
樫山欽四郎、訳 ヘーゲル「精神現象学」河出書房。
精神現象学の生成と構造 イッポリット 岩波書店
精神現象学の研究書としては、古いですが私は
イッポリットのこの分厚い2冊本をお勧めします。
ただしこの本もかなり難解です。しかもヘーゲルの原書よりも長文ときている。
(注)1 世界三大難解哲学書
・カントの『純粋理性批判』
・ヘーゲルの『精神現象学』
・ハイデガーの『存在と時間』 http://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/1215564/
追記
精神現象学の大まかな主目次だけ以下に挙げておきます、(樫山訳による) 私の簡単なコメント付きです。
序論
これがまた本文以上に難解です、初心者はこれを
飛ばして本文から読んだ方が良い。
現象学の意図と方法
A,意識 思い込みと惑わしという論点が述べられます
B.自己意識 対立する自己意識(主人と奴隷)の観点が述べられます
ここがこの書の最重要部分ですのでここがわかれば後は楽?です。
C,理性 観察する理性と心理学、だまし、
狂気などの論点が述べられます。
D,精神
人間の掟や神の掟 自己疎外、法律、道徳など
多岐にわたる論述が展開されます。
自己疎外というのはマルクスがここから
借用していますね。この章も重要な部分です、
E,宗教 啓示宗教と絶対宗教、
「宗教は有限なる精神によって表象された絶対精神の自己意識である」
F,絶対知 概念把握された精神について論述されます。
付記
私のヘーゲル試論
こちらもご覧くださいませ↓
ヘーゲル哲学における「死」と「否定」と「絶望」の概念について (極私的ヘーゲル論考)
↑上記タイトルをコピーアンドペースとして検索ください。
付記
フッサールも自分の哲学を「現象学」フェノメノロギーと呼んでいますが
もちろんヘーゲルの現象学とは全く異なるものです。
おまけ ウイキペディアによる精神現象学の詳細な「目次」は以下の通りです
A意識
Ⅰ感覚的確信
Ⅱ知覚
Ⅲ力と科学的確信
B自己意識
Ⅳ自己確信の真理
A自己意識の自律性と非自律性
B自己意識の自由
C理性(AA)理性
Ⅴ理性の確信と真理
A観察する理性
a自然の観察
b純粋な状態にある自己意識の観察、および、外界と関係する自己意識の観察
c自己意識と身体の関係―人相学と頭蓋論
B理性的な自己意識の自己実現
a快楽と必然性
b心の掟とうぬぼれの狂気
c徳性と世のならい
C絶対的な現実性を獲得した個人
a精神の動物王国とだまし
b理性による掟の制定
c理性による掟の吟味
(BB)精神
Ⅵ精神
A真の精神―共同体精神
a共同の精神―人間の掟と神の掟、男と女
b共同体にかかわる行動―人間の知と神の知、責任と運命
c法の支配
B疎外された精神―教養
Ⅰ疎外された精神の世界
a教養と、現実の教養の世界
b信仰と純粋な洞察
Ⅱ啓蒙思想
a啓蒙思想と迷信とのたたかい
b啓蒙思想の真実
Ⅲ絶対の自由と死の恐怖
C自己を確信する精神―道徳
a道徳的世界観
bすりかえ
c良心―美しい魂、悪、悪の許し
(CC)宗教
Ⅶ宗教
A自然宗教
a光の宗教
b植物と動物
c職人
B芸術宗教
a抽象的な芸術作品
b生きた芸術作品
c精神的な芸術作品
C啓示宗教
(DD)絶対知
Ⅷ絶対知
☆ドイツ観念論哲学のまとめ
ドイツ観念論哲学とは
あえて批判を恐れずに、総括するならば
形而上学の思弁的な難解な用語を操り、空疎な思弁哲学の壮麗な大宮殿・大神殿を建立したということである。
ドイツ観念論哲学とは、体系哲学の壮麗な大宮殿でありながら、あまりにも浮世離れしすぎた空論に近い形而上学体系哲学であり、
現実的な肉の子らの「ふるえる魂」の叫びからはあまりにも隔絶しすぎた非現実のまったくの空理空論とさえいえるものだったのだ。いわば神の高みから俗世間を俯瞰する、、といった風情?それがドイツ観念論哲学なのです。世界の見晴らしは最高ですが、ただそこには肉の子らの痛みや悲しみは捨象されてしまっているのだ。
「思弁哲学の壮麗な大神殿がそこにはある、しかしそこには生暖かい心を持った人間がいない」
と、、のちにキルケゴールが批判する通りなのである。
現実の人間の喜怒哀楽からは全くかけ離れすぎた、まさに現実離れした空論哲学の典型例とされるものとなったのだ。
だが、この観念遊戯ともいえるような虚構体系哲学は別の意味では、「壮大なる知的遊戯」の空理空論体系として精密な観念遊戯の論理的な理論体系でもあった。
いわば人間の知の空中楼閣だったのだ。というか知の殿堂です、
そこではすべてが透徹した理論で明晰に世界のすべてが説明されつくしている、
世界ってこうだったんだ、という納得がある
だが哀れな痛みに傷ついた肉の子はいない(見えない)
神の俯瞰図としてのドイツ観念論哲学の殿堂はその副産物として後世に与えた影響としては
観念遊戯体系の精密さからの知的刺激としての論理学的な応用、
つまり論理的、理論的なトレーニングとしての脳を鍛える??ということで、
知的訓練?という意味での
現実分析への応用が部分的に可能であるという副産物?
神の視座からの世界の解析。
論理的な世界分析
知の魔宮?
精神の大神殿。
あるいは逆に、のちの実存主義への反面教師として教材を提供したという副産物
以上のように大きな示唆と暗示を後世にあたえているのである。