12
高級クラブを後にすると、時刻は二十二時を経過していた。
この日の捜査は終了しようというキョウヤの言葉に従い、男二人と猫一匹は今夜宿泊するホテルを探すことに。歓楽街からさらに奥へ進んでアーケードを抜けると、再び闇が訪れた。
喧噪が遠ざかるにつれ、辺りの景観も徐々に変化していった。カテゴリーとしては、住宅地として合っているのだろうが、人気はまるで感じられない。そもそも何の用途で建てられたかも不明確な建築物が、ブロックのように並べられた無機質なエリア。区画の入り口と似通った雰囲気からして、あの歓楽街はストレイエレメンタラー達が行き場のない怒りや悲しみ、押し込められた欲望を発散するため自発的に建造していった楽園なのだろう。
あれだけハイペースで呑んでいたにもかかわらず、足取りがしっかりしているキョウヤに連れられ辿り着いたのは、三階建ての小さなビジネスホテル。庶民的……と呼べなくもないが、いかんせん古い。外壁の亀裂なんて、無数の蛇がある種の紋様を描いているかのように見える。今にも崩れ落ちそうだ。とはいえ、こんな場所で高望みしていては、宿泊先など一生見つからないだろう。
「さ、行くぞ」
「あ、ちょっと待って下さい」
さっさと入ろうとするキョウヤを、慌てて呼び止めた。
「ん? どした?」
「ここって……モエナは大丈夫なんですか?」
「あん?」
キョウヤの視線が織笠の足元にいるモエナへ。
「ああ、ペットオーケーかって話か。多分大丈夫だろ」
「誰がペットか!」
聞き捨てならないと、モエナの全身の毛が逆立つ。
「いや、モエナ。怒るのも分かるけど、隠れられる物も持ってないしさ、まして妖精の姿で入るわけにもいかないでしょ?」
「当然でしょ! レイジ、あんた馬鹿なの!?」
「じゃあ、外で寝る?」
「却下!! こんな汚い所で一夜を明かすなんて、死んでも御免よ!!」
フシャーッ! とモエナが憤慨しながら猫パンチを放つ。
「おわっ、ちょっ、危な!」
「避けるな! ペット発言を取り消しなさい! 奇跡の存在を家畜呼ばわりなんて言語道断よ!!」
「待て! それは俺じゃない、言ったのはキョウヤさんだ!」
続けて噛み付き攻撃をしてくるモエナ。ぐるぐる回りながらかわしていると、キョウヤが頭を掻きながら言った。
「わめくなよ。ここは俺の顔なじみがやってんだ。上手く取り計らうから、お兄さんに任せなさい」
お願いしたところで許可してもらえるとは思えないが、いつまでも路上のど真ん中で突っ立っているわけにもいかない。
自動ドアをくぐり、ロビーの奥に向かう。カウンターには、新聞を読みながら煙草を吹かす、いかにもけだるげな中年男性がいた。客の来訪だというのに、億劫さを隠そうともしないその男がキョウヤを見た途端、態度が一変。煙草を床に落とし、まるで軍人のように背筋を伸ばした。
「キョッ、キョウヤさん!」
「おひさー。どーよ、調子は?」
「え、ええ、まぁ……」
気さくに挨拶するキョウヤに対し、ぎこちなさ全開の笑みで返す男。彼がこのホテルのオーナーだろうか。
顔なじみ、と言うにはやけに挙動不審なのが少し気にかかるが。
「そ、その節はどうも……。どうされたのですか、今日は?」
「一泊してぇんだ。シングルで二部屋。空いてるよな?」
オーナーは、視線をキョウヤから後ろに距離を置いて立つ織笠に動かすと、なぜかホッとした様子で頷く。
「宿泊ですか。ええ、空いていますよ」
「じゃ、頼む。それと、ペットも同伴したいんだが、構わないよな?」
足元から怒気を感じる。わざと、ではないにしろ、いやキョウヤなら故意か。抗議しようにも、モエナは喋れない。ちらり、と織笠は目線を下げてみると、案の定ムスッとしていた。
「ええ!? 困りますよ、キョウヤさん。さすがにそれは……」
「いーだろ、そんくらい。大人しいよ、コイツ。しつけはちゃんとしてあるからさ」
「そう言われても、こっちも商売ですぜ。いくらキョウヤさんでも特別扱いは出来ませんよ」
「そこをなんとか。おっちゃん」
「ダメです」
「マジか、ちゃんとしてんなぁ」
ふーむ、と唸るキョウヤ。
やっぱり無理じゃないか。どうしよう。別の宿を探すべきか。
と、何やら考えていたキョウヤがカウンターに身を乗り出し、オーナーを手招き。ひそひそと耳打ちし始めた。するとどうしたことか、瞬く間にオーナーの顔が青ざめていく。
一体、何を囁いたのか。毛を丸刈りされた羊のようにぶるぶる震えだし、カウンター下から鍵を二つ、差し出してきた。
「さーんきゅ。――レイジ、交渉成立だ。行こうぜー」
「え、いいんですか?」
鍵を受け取ったキョウヤは、さっさとカウンター真横にある細い階段を上がっていく。織笠は男の方を窺うが、一点を見つめ固まっている。織笠は首を傾げながら、キョウヤを追いかけた。
二階に着くと、思わず顔をしかめてしまった。口を覆いたくなるほどの埃臭さが充満しているからだ。どうやら清掃業務もまともにしていないらしい。
狭い廊下の少し先でキョウヤが待っていた。部屋の前についたところで鍵を渡された織笠は、気になって尋ねてみた。
「キョウヤさん。あの人に何を言ったんですか? かなり動揺していたみたいですけど……」
「ん? あれか?」
ニッと白い歯を見せるキョウヤ。
「あのオッサンは前科持ちでな。過去に俺が施設送りにしてんだよ。そんで、更生プログラムをクリアして無事出所、現在はここでホテルを経営してんの」
それでキョウヤに恐縮していたのか。
ん? にしては怯えすぎではないのか? 織笠が怪訝な顔をすると、そんな疑問も読んでいたかのようにキョウヤは続ける。
「んで、実は最近、かなりアホらしい噂を耳にしてよ。どうもどこかの宿泊施設が、頼んでもいないのにルームサービスと称して、売春婦を強引に部屋に入れてしまうんだと。そこで無理やりにでも行為に及んだ後、法外な支払いを請求する――なんとも化石のような詐欺を働いているらしいとな」
「まさか……、それがここ、なんですか……?」
「さぁ? だって噂レベルだし? 証拠もねぇし? 被害者も結局は誘惑に負けてるわけだから文句も言えねぇし? 第一、ここらへんじゃ風営法なんてあってないようなもんだしな。インジェクターがいちいちしゃしゃり出るのもメンドくせぇ。……俺はそう思ってるって伝えただけだ」
「……呆れた。私を入れるために脅したっていうの?」
「誰だって二度も施設送りになりたくはない。さりとて、強欲は再び罪へ誘う。何にせよ主導権はこちらに、だ。だろ?」
キョウヤは肩をすくめた。目の前の犯罪に目を瞑るのはどうかと思うが、余計な手間を取って本件に支障を出したくないのも事実。止む無しか。
「ともかく今日は休め。あっと、それとな」
キョウヤがドアを開けながら、思い出したように言ってきた。
「クラブで得た矢崎の情報だけどな。お前がカイに報告しとけ」
「え? どうしてです?」
「それはお前が稼いだもんだ。だから報告の義務はお前にある。その手柄もな」
極めて真面目な顔でキョウヤは言った。
「はぁ……、それなら……。でも、いいんですか?」
「当ったり前だろ~。優しいっしょ、俺」
「そんなもっともらしいこと言って……。どうせ、自分でやるのが面倒なだけでしょ?」
モエナが言った。
「まぁね~。その報告が済んだらとっとと寝るんだぜー?」
何ソレ。結局、仕事を押し付けているだけか、と織笠は全身が脱力する。
と、そういえば。
「あ、すいません。クラブもこのホテルも、お金出してもらって。いつかお返ししますから」
呼び止められて何事かといったキョウヤだったが、その言葉を聞き、目を細めながら言った。
「ぶわぁか。年下がそんな気ィ遣うんじゃネーの。じゃなー」
ひらひらと手首を返しながら、キョウヤは部屋に入っていった。織笠は思わず苦笑いしながら、
(まったく……。尊敬していいのか、軽蔑していいのやら……)
鍵をドアノブに挿し込むと、自分もあてがわれた部屋に入るのだった。
部屋の内装は予想通り簡素であった。お飾り程度のテーブルに、窓際に配置されたベッド、備え付けはその二つ。まぁこの条件下ではこんなものだろう。文句をつける気はさらさらない。それでもモエナは、不満げなオーラを惜しみなく発しながら真っ先にベッドの上に跳んで、身体を伏せてしまったが。
織笠は渡された麻酔銃と、自分の携行品をテーブルに置き、ひとまずシャワーを浴びた。汗と、血と、ホステスさんから付着した香水の匂い。その入り混じった臭さをスッキリさせたかった。とはいえ、臭いは服の方に染み付いているのだから、身体を洗ったところであまり意味はないが、気持ちの問題だ。
浴室を後にし、もう一度服を着る。やはり臭いはするが、仕方ない。
髪も自然乾燥に任せ、織笠はテーブルにある携帯を手に取ってベッドに向かう。モエナの邪魔にならないようそっと端に座り、カイの番号を表示。
数秒のコールの後、繋がった。
『レイジか? どうした、何かあったのか?』
カイの緊張を孕んだ声。着信が織笠だったことに不穏さを感じたのだろう。
「あ、いえ。ちょっと進捗状況を伝えようと思って。今、大丈夫ですか?」
『あぁ、構わない。俺も先刻、精保に戻ってきたところだ。そっちは?』
「スラム地区内にあるビジネスホテルです。今日はここで一泊することになりました」
『そうか、無事なんだな。キョウヤも一緒か?』
「ええ。もうお休みになられていると思いますよ」
『アイツと組むと大変だろう? あの野郎のやり方は常識から逸脱しているからな。およそ捜査を建前に、豪遊とかな』
さすが、ズバリな指摘である。渇いた笑みを浮かべずにはいられない。
『それで? 何か掴めたのか?』
「えっと……、今カイさんが言ってしまったので、非常に伝えにくいんですが……。ここに到着した直後にクラブに行きまして」
『クラブ?』
「ええ、歓楽街の。そこで気になる話を聞いたんです」
『そういえばそんな区画があったな。アイツがいかにも行……あッ、おい!』
「カイさん?」
『――ちょっと、ソレどういうことかな?』
突然カイの声が、女の子に変化した。驚いた織笠は一度携帯を耳から離し、凝視。それは非常に聞き覚えのある声で。
織笠は、おずおずとまた携帯を耳にあてて、ボソリと言った。
「ア、アイサちゃん?」
『ねぇ~、レイジ。クラブってナニ? 高校生のアタシに馴染みがあるのは部活動のことだけど、違うよね。イントネーションがおかしいもの。そもそも、そんなトコにあるわけないし。じゃ、もしかしたらアレかなぁ。すんごく美人なお姉さんが、これまた綺麗なドレス着て、お酒を注いでくれたり、甲斐甲斐しくお世話をしてくれる夜の蝶が住むトコロかな。ねぇ? ねぇ?』
なぜだろう。通話口の向こうで、アイサが微笑みを浮かべているのは伝わる。しかし、口調に抑揚が全くない。それどころか、背筋に悪寒が走る程、声は凍てついていた。
「あっ、いや、その――」
『行ったの?』
「ごめんなさい」
恐ろしい圧力。
耐えかねた織笠は謝罪してしまう。瞬間、アイサの怒りが大爆発した。
『信じらんない!! こっちはね、死ぬほど心配したんだよ!? レイジまともに動けやしないのに、無理矢理危険な捜査に付いていくって聞かされて!! それがナニ!? クラブに行った!? 女の人と乳くりあってた!? ハァ!? フザけんなぁ!!』
「ちょっ、いや、そんなこと言ってな――!」
『じゃ、ナニするっていうのよ。女の子とえっちい行為する以外に、ぬわぁにがあんのよォ!!』
どうも別の風俗営業と混同しているような言い草だが、織笠の脂汗は止まらない。矢継ぎ早に放たれるアイサの口撃が、あながち的外れではなかったからだ。
あの店で黒髪の美人ホステスにすっかり気に入れられてしまい、話を聞く間、過剰なスキンシップを受けていた。無論、合法の圏内だが、そんなこと口が裂けても言えない。
と、ここでアイサから携帯を奪い返したカイがスピーカーモードに切り替えたのか、二人の会話が聞こえてきた。
『落ち着け、アイサ。クラブに行ったのはキョウヤの発案だろう。情報収集も兼ねてのな。手段は実にアイツらしいが』
『ええ? それって職権濫用じゃありません? カイさん認めちゃうんですか?』
『馬鹿を言え。どうせ自己満足からくる行動だ。容認など出来ん』
「ま、まぁ合理的ではあったと思います……」
織笠は苦笑して言った。
『脱線したな。話を戻そう。それで、気になる話とは?』
「えっと、犯人の手がかりについてはまだ掴めていないんですが……。ただ、そこで学長が話題に上がりまして」
『学長って……矢崎氏のことか?』
「はい。今日行ったクラブに、実は学長も通っていたようなんです」
『……何だって?』
カイが聞き返す。
カイにしても矢崎宗春の名が出たことに驚きを隠せないようだ。
織笠は順序だてて説明する。メモを持ち合わせていなかったが、内容はほぼ記憶してあった。
「といっても、かなり昔の話です。二十年以上も前、学長が議員を辞職した直後あたりから、足繁く通っていたようです」
『別段おかしくないでしょ。仕事が無くなって時間が余ってるワケだし、色んなモノを発散しに行くでしょ。ねぇ、レイジ?』
まだ怒りが収まらないのか、冷やかにアイサは言ってくる。
『だとしても、どうして危険な区域をわざわざ選んで行く? 店なら東京の中心部にいくらでも存在するのに』
「これはホステスさんの見解なんですが、人目につくのが嫌だったんじゃないかって。それに、傷心の気持ちを精霊使いに癒して欲しい、そう考えたのかもしれない――と」
矢崎宗春は議員時代、精霊使いの地位確立のために尽力した一番の功績者だ。ただ、あまりの執心ぶりに周囲との温度差が激しかったという噂もあるほどだ。
『当時、矢崎氏はまるで何かに取り憑かれたように仕事をしていたらしい。精霊使いを、黒子から舞台の主役にとな』
だからこうして今の俺達があるわけだが、とカイは言う。
『その心労が祟って、議員職を降りたと発表されてはいるが……、本当は周りによってたかって降ろされたではないか、とも言われている』
「だからなのか、テレビや雑誌の清楚な印象とはかけ離れていた、と言っていました。しかも当時は会話もままならなかったとか……」
黒髪のホステスは矢崎の訥々と語られる独白をひたすら聞くだけだったという。中でも驚倒したのは、別の議員への恨み言ではなく、これからの精霊使いへの手助けが出来なくなったこと、その一点のみだった――らしい。
『矢崎氏が精神疾患だった時期があるとは知らなかったが……。無理もないか』
「そんな状態がしばらく続いて、徐々に精神も穏やかになってきたころ、学長はある夢を語ったそうです」
『夢?』
「大学です。人間と精霊使いが混在したこの国には、新たな教育機関が必要だと、力強く言ったそうです」
その先は想像に難くない。
新明大学のことだ。
代わりに、問題はここからなんだと言わんばかりに織笠は声音を低くした。
「そこから数週間、学長は酒の勢いもあってか、建設計画を包み隠さず話していたようですね。そしてあるとき、嬉しそうに叫んだそうです。“遂に実現する。私の夢が叶うんだ。いよいよ実行に移すんだ”――と」
『……ん? どゆこと?』
『……金か』
カイの確信めいた呟きに織笠は頷く。
「大学を建設するには、多くの資金が必要です。それはもう、俺らからじゃ想像もつかないぐらい莫大な量の」
『それは分かるけど……』
釈然としない様子のアイサに、カイが答えた。
『期間が短すぎるんだ。矢崎氏にどれだけ貯蓄があったのか定かではないが、個人の財産には限度がある。通常は、協力者に援助してもらうだろう? それも短期間で実行したとなると、つてを頼ったのか……。まぁ矢崎氏を信用する人間なら大勢いたんだろうが……』
「そこにキョウヤさんも引っ掛かっていました。もしかしたらその建設費用を巡って、トラブルがあったのかもしれません。信頼して出資した人の中に精霊使いも混じっていたのかもって……」
『なるほどな。ちなみに、矢崎氏がそのクラブに通っていた期間中に、誰かと一緒だった人物はいたのか?』
「いえ、いつも一人だったようです」
それなら話は早かったのですが……と織笠は落胆しながら言った。
『……分かった。なら俺達は、その時期の矢崎氏の身辺を洗ってみよう。貴重な情報、感謝する』
「いえ、そんな……」
織笠は安堵した。犯人を特定する取っ掛かりは見つけられた気がする。
インジェクターには当然でも、素人の織笠には小さな進展が嬉しく思えた。
「……そうだ。レアさんは? 大丈夫なんですか?」
『まだ意識は戻ってないよ。多分……、時間、かかりそう』
喉から絞り出すようにアイサは言う。織笠も小さく「そう……」としか答えられなかった。
重苦しい沈黙。
織笠は携帯を持つ手とは反対の手で、胸を押さえた。血まみれで倒れていたレアの映像が、脳裏にフラッシュバックしたのだ。心臓が握り潰されているかのような激痛に顔が歪む。
『……レアのことだ。あの変人が簡単に死ぬとは思えん。俺達は今俺達の為すべきことをするぞ』
「そう……ですね」
『いいか。くれぐれも無茶はするなよ。――あと、あの好色バカにも言っておいてくれ。あまりやり過ぎるな、とな』
織笠は苦笑いを浮かべた。
携帯を切る直前、アイサからも、「気を付けてね」と気遣われた。
優しさに感謝し、通話を終えると織笠はそのままベッドに倒れ込んだ。
途端にドット疲れが押し寄せる。
目を閉じれば、一瞬で眠りにつくだろう。まどろみに身を任せ、夢の中へ旅立つ。
その時だった。
「……マナの気配がする」
すっかり寝てしまったと思っていたモエナがボソリと呟いた。
「え?」
「誰かがこの階に上がってきたみたい。数は全部で三つ。赤が二つに、青が一つ」
モエナの満月と見紛うほどの美しい黄金の双眸が、暗がりに映える。
マナの探知。
精霊の進化形態である妖精特有の能力だ。一定の範囲限定にはなってしまうが、マナの動きを視覚で捉え、脳内で処理する。例を挙げれば、サーモグラフィーが近いだろう。マナが熱源となって人の像を形成、そこから色で種別を判断する、といった具合に。
赤は炎、青は雨の精霊使いを意味している。
「そりゃあここはホテルなんだから、別の宿泊客なんじゃないの?」
欠伸をしながら、織笠は億劫そうに答える。
「だとしたら、意図的に足音を消してるなんておかしいわよ」
「もう夜も遅いし、静かに行動しようっていう気遣いだろ。客じゃなきゃ従業員とかがさ」
「ここに来て、あのオーナー以外それらしき人を見た?」
「だったら……それこそさっきの話のルームサービス?」
「アンタ……、それ本気?」
モエナは心底呆れたように嘆息した。
「キョウヤの癖がうつったんじゃないの。アイサに怒られたばっかのくせに」
「なっ、なんでそれを!?」
ガバッ! と織笠は身を起こす。
「あれだけ大声出されたら猫の聴覚でなくとも聞こえるわよ。ったく、思考回路の優先順位が、まず女からっていうのは人としてどうなのよ」
「違うって! あくまで可能性の一つとして言っただけで――」
「キョウヤにあんな脅しをかけられておいて、あり得ないでしょうが。どーせ心のどっかで期待してたんでしょ、スケベ」
「だから……」
誤解が過ぎるよと、うなだれる織笠。まぁ、たいして考えもせず、返答したこちらも悪いのかもしれないが。
「レイジ……。アンタってまるで危機感がないのね。思い出してみなさい、前提を。こんな地区で他者に配慮する奴なんていると思う?」
「…………!」
織笠は息を呑む。
決して忘れていたわけではない。油断していた。加えて、疲労と自分の認識が甘さもある。
ここは、東京で最も危険な区域。ストレイエレメンタラーの巣窟であり、犯罪者が平然と横行する場所なのだ。
「……なぁ、モエナ。妖精って人の害意も感じられるもの、なのか?」
織笠は声を潜めて訊ねた。
「その表現には、肯定も否定もし辛いわね。体内のマナは、精霊使いの意思決定に大きく左右される。例えどんなに冷静でも、力を使うときは、感情の揺れ動きが作用するでしょう? 私が感知できるのは、あくまでマナの流れのみだから、それを正と負の感情と同じ扱いしていいのかは難しいわ」
数メートル先にあるドアを睨みつけたまま、モエナは続ける。
「けど今回に限っては、向こうさんは精霊を生み出そうと準備している段階だから、私の主観をプラスさせてもらえれば敵意があると捉えてもいい」
「そうか……」
心がざわつく。脈打つ鼓動が、警鐘のように鳴り響く。
「炎の一人がこの部屋の前で止まった。残りは隣に移動したわ」
隣はキョウヤの部屋だ。あの人はこの気配に気づいているのだろうか。
喉が枯渇し、織笠の全身が強張る。対照的に、こんな状況下にあってどこか涼しげなモエナは、鼻で笑う。
「でも……、そうね。ルームサービスというのも、あながち間違いでもないか。しかも娼婦なんかより、もっと手厚いサービスだし」
「は……? それってどういう……」
「命のやり取り以上に、極上はない。せいぜい、ちゃんと受け取ることね。――来るわよ!!」
ガンッ! と大きな物音と共に、乱暴にドアが開け放たれた。蹴破られたのだ。
織笠とモエナが相手を視認する前に、来訪者の過激な挨拶が来た。
鋭い矢のような炎が数本、高速回転しながら襲いかかる。
「ッ!?」
織笠とモエナはベッドを弾くように横っ飛び。炎が唸る音と熱風が織笠の背中をかすめ、窓を突き破る。炎はそのまま向かいのビルに激突、爆発した。
織笠はすぐさまテーブルに置いた麻酔銃を取り、壁に背を預ける。廊下にいる相手からは死角となる位置だ。
ザッ……。床を踏む音が耳に届く。敵が室内に侵入してきた。
織笠は一度深呼吸して、心を落ち着かせる。そして、戦意を奮い立たせるために銃のグリップを強く握り締めた。
侵入者は自分たちの位置は把握しているのかどうか定かではないが、殺意を纏った足音は、ゆっくり、じっくりと徐々に近づいている。
織笠は息を殺し、侵入者が現れるのを待つ。廊下からここまではそう距離はない。なのに、体感では永遠と思えるほど長く感じた。
そして――壁際から人影が姿を現す。
織笠は素早く銃を構え、躊躇せず引き金を絞る。
――が。弾丸が標的を貫くことはなかった。
人影が突如消えたのである。
否。対象は織笠のすぐ下に潜り込んでいた。
人影の正体は男。痩身の貧相な出で立ちだった。当然、見覚えはない。
男の容貌はまさに爬虫類のそれ。こけた頬に、極端に大きな眼。口角が裂けるように下劣な笑みが浮かぶ。
背筋が凍ったのも束の間、男の拳が織笠の腹部にめり込む。
「あ、がッ……!」
よろけてうずくまる織笠へ、さらに男は蹴りを放つ。横面にまともに受け織笠は後方の壁に激突してしまう。
床にずり落ちる織笠。拍子に手放してしまった銃を、男が拾い上げた。
「クク……。危ねぇなぁ、おい」
喉を鳴らしながら男は言った。
「こっちはオマケっつーから楽に構えてたのによ。だめだよぉ僕ー。こんな物騒なモン持っちゃ……、なぁ?」
「お……、お前は……」
「あん? 俺がどこの誰かテメェが知る必要はねぇよ。俺も興味ねぇし、ここはそういう街だ」
男はまるで世間話をするように饒舌に話す。
「こいつはな、単なる仕事だ。それ以上でも、それ以下でもねぇ。俺も、ここんところ生活が苦しくってよ。テメェを殺しても小遣い程度にしかならねぇが、無いよりマシってな」
殺し屋。織笠は瞬時に悟った。
「しっかし、お前さんももののついでに殺されるってんじゃ浮かばれんよな。が、まぁそれも運命ってこった」
男は銃を放り捨て、右手を前方にかざす。そこから炎が生まれ――さらに伸縮をし、先端の尖った薄い楕円形へと変化した。男は指でそれを挟むと、まるでカードを投げるように手首を返す。
鋭く回転しながら、直線の軌道を描く炎が織笠の右肩に突き刺さる。
「ぐ、がぁぁあああああああああッ!!」
身を焼く高熱、そして激痛の襲来。たまらず織笠は叫んだ。
悶える織笠を見下ろし、男は歪んだ笑みを浮かべ再び炎を作り出す。しかも、今度は両手に。
突入時の奇襲も恐らくそれ。炎を小型の刃と化し、投擲する――派手さはないが、暗殺には適した能力だ。
「恨むんなら、テメェの連れを恨めや。――じゃあな」
サーカスのナイフ投げの要領で、男は炎の刃を構える。
的は織笠の頭部。
く……そ……。
織笠が歯噛みした――その時。
「レイジッ!」
鋭い声が飛んだ。
「なッ!? だ、誰だ!?」
男が辺りを見回す。この部屋には織笠と男しかいない。が、聞こえたのは女性のものだ。
モエナである。まさか猫が言葉を発したとは微塵も思わない男は困惑。モエナはその隙を逃がさない。猛然と駆けながら銃を口に咥えると、織笠の元へ。
使える左手で受け取った織笠は、痛みを堪えながら照準を男に合わす。
「――ッ!?」
男の対応が遅れる。放たれた弾丸は男の胸に命中――意識を刈り取られ、その場にくずおれる。
「か……はぁ……はぁ……」
肩口の炎も消滅し、気が抜けた織笠はぐったりと床に仰向けになった。
そこへ、慌ただしくキョウヤが部屋にやってきた。
「おい、レイジ無事か!?」
ああ、よかった。
姿を確認するに、キョウヤには傷一つない。
織笠は胸を撫で下ろしたように微笑んだ。